無用のいけにえ 弐
「起きなさい」
揺り起こされたのは、まだ夜も深いうちだった。
昨日、突然の報せを受けて兄さまが母屋に行ってしまったあと、結局わたしのところに何か沙汰が下ることはなかった。
わたしもわたしで来いと言われていた婚礼の衣裳合わせに行かなかったけれど、誰が呼びに来るわけでもなく。あの報せ通り婚約が流れたなら、衣裳合わせの必要もないのだから当たり前か。
「……兄、さま?」
わたしを起こしたのは兄さまだった。こんな時間だと言うのに黒髪をしっかりと結わえて、服装も整っている。まるで今から出かけるみたい。
「今から湖に行く」
「えっ、湖の主さまのところに?」
いくらなんでもこんな時間に、とわたしは信じられなくて呟く。
まだ多くの民家が深い眠りの中にいるだろう時間。足元も暗く、林の中を通る道は気をつけなくてはいけない時間のはずなのに。
「……ああ、そうだよ」
兄さまは静かに言って、わたしが体を起こすのを手伝ってくれた。
寝間着の上に暖かい綿入りの上衣を羽織っただけの格好で、わたしは急かされながら離れを出た。
婚礼衣装とはほど遠い格好だった。だから何の用事かはわからないけれど、きっと少し赴いて用を済ませたら帰るものだと思っていた。
わたしがお屋敷の門をくぐることは二度とないのだと、知らなかった。
○ ○ ○
兄さまに連れられて向かったのは、湖ではなかった。
湖を通り過ぎ、さらに先へと進んでいく。
あまり屋敷を離れたことがないわたしだったけれど、横目に木々の間から見える水面のわずかなきらめきが見えたから湖を通りすぎたのは間違いない。
「兄さま、あの……」
「気にしなくていい。この先でお祖父さまも待っているよ」
「そう……なんですか?」
不思議な感じはしたけれど、いつになく真剣な顔で先を歩く兄さまに深く事情を聞く勇気はなかった。わたしはそのまま、夜道を歩き続けた。
随分長く、足が疲れてしまうほどに歩いた。山に入り、暗く険しい道を上っていく。小さな祠の前を通り過ぎ、さらに奥へ。
「来たか」
開けたところに、灯りを持ったおじいさまが立っていた。傍にはおじいさまのお友達か、あるいは配下の者か、とにかく家では見かけないおじさまたちが十人ほど、大勢でそのわきを固めている。
「何故自由にさせている?」
おじいさまが眉をひそめた。言っている意味が、よくわからなかった。
「怪しまれて声を上げられてはお祖父様の意向に反しますから……ここまでは何もせずに連れてきたのです」
「……兄さま?」
兄さまが、私の手首を掴む。それは手を引いてくれようとしているわけではなく——がしりと力を入れて捕まえるためだった。
「兄さま!? い、痛いです、一体……」
「……お祖父様の命令なんだ。悪いね、花嫁ちゃん」
「兄さまっ」
どこかから取り出した縄で、兄さまが私の手を縛ろうとする。驚いて振り解こうとしたけれど、全然敵わない。
「俺の本意じゃない。恨まないでくれよ」
兄さまの目にある感情が憐みだと、わたしは気づいてしまった。
このまま、されるがままになっていたら何か良くないことが起こる。そう本能的に察した。
「離し、てっ……!」
体重を全て乗せるように思い切り引っ張ると、一瞬の隙が生まれた。体を翻し、今度は兄さまに体当たりをしてひるませる。縄に強くこすれて手首の皮がすり剥けるのも気にせず、わたしは必死で兄さまから逃れた。
「おい、何をしている! 逃げるぞ」
「捕まえろ!」
おじいさまが大声を上げると、集まっていた人たちが私の方に手を伸ばして殺到してくる。
だめ、こっちはだめ。
転びそうになりながら後ろに足を下げ、来た道の方へ走り出す。
わたしを捕まえてどうするのかよりも、追ってくるわたしよりもずっと大きな大人たちが単純に恐ろしかった。
振り上げられた拳はわたしが手のひらを広げたぐらいあるように見えたし、刀を抜いている人も見えた。
必死なわたしの頭は、わたしの足を木々の深い方へと進ませた。
暗く、大人が通りにくく、捕まりにくい方へ。
「里に降りる前に殺せ!」
……恐ろしい言葉が聞こえた。たしかに、おじいさまの声だった。
殺せ?
わたしを……?
背の低い茂みに飛び込み、身をかがめながら逃げる。枝に上着が引っかかったので、脱ぎ捨ててしまった。
下に着た寝間着がはだけるのも気にしていられずに走る。走る。
走る。
走ったら、ある時突然地面がなくなった。
「え……」
がら、と土が崩れる気配がする。
眼下に広がるのは崩れた山肌と、その下に広がる暗闇。
「い、や…………」
捕まりたくなかった。
わけもわからず、必死だった。
だから忘れてしまっていたのだ。ここが山道であること、暗い山は特に気をつけないといけないことを——。
常蒼のお山。
そう村では呼ばれるこの山には、青々とした葉を一年中茂らせる木が多い。
木を切って売る大規模な事業のために人が手を加え始めたのは最近のことで、それまでは獣道しかないようなところだった。
足元が保証されているのは、整備された道の上だけ。
わずかに浮遊するような感覚のあと、わたしの体は落下を始めた。
下へ下へ。
明け始めた夜の下へ。
大きな水の音と肌を刺す冷たさに全身を包まれて、わたしの記憶は一度そこで途切れる。