ふくろの鼠 弐
湖鐘さまに代わり、神域に異常がないかを見回りに行く。何かあればすぐに知らせに戻る約束だ。
それは私にとって、守り神のお役目に必要なことというだけのものではなかった。ようやく巡ってきた、御恩を返す機会の一つだったのだ。
湖鐘さまのお役に立てる。やっと。
頼みごとをしてくださったことがとても嬉しくて、わたしは舞い上がっていた。
だから、湖鐘さまのお屋敷のある領域の隅々までを見て回ろうとして——出会ってしまった。
「兄、さま……?」
いや、出会ってしまったという言い方は、たぶん正しくない。
思わず隠れた方がいいかと思ってしまったけれど、その必要もなさそうだった。兄さまはわたしの立っているところと全然違う場所を見ていたから。
わたしからははっきりと兄さまの姿が見えている。でも、向こうからわたしの姿は見えていないようだった。
「……? 今、誰か何か言った?」
兄さまが首をかしげた。お付きの人たちが何人か一緒にいる。彼らも、わたしの方を見ていない。
「いいえ。風の音か何かではありませんか?」
「そうかな。考えすぎか」
それだけだった。
それだけで兄さまは、わたしが思わず漏らしてしまった声について考えるのをやめた。どこからどう考えてもおかしな話なのに、わたしはすぐに納得した。
(そっか。ここは湖鐘さまの神域だから――)
わたしたちの村とは少し違う次元の、少し違う世界だと言っていた気がする。あのときはふんわりとしか理解できなかった話が、今現実にわたしを認識できない兄さまを見て腑に落ちた。湖鐘さまの屋敷の敷地の中は、普通の人間には見えないのだ。
ほっと胸をなでおろしてから、わたしははっきりと自分の心が兄さまたちから離れていることを自覚した。
きっとわたしの持ち物が湖に捨てられたと知ったときが、最後の分かれ道だった。わたしの居場所が実家にはなくなったのと同時に、わたしとあの人たちの縁も切れたに違いない。
なのに、兄さまの呟きはまたわたしの心をざわつかせた。
「ひょっとしたら義妹かもしれないと思ったんだけれどね」
本当はわたしがいることに気づいて言っているんじゃないかと、一瞬疑った。そうでないことは、彼と彼に付き従っている人たちの会話ですぐにわかったけれど。
「ああ、若君様。申し訳ございません。お屋敷のお姫様が行方知れずだと知っていれば、あのとき声を掛けたのですが……」
「過ぎたことは構わないさ。あの子らしき人影を見たのはこの辺りなんだね?」
「はい」
兄さまに、ぺこぺこ頭を下げて謝っている人がいる。知らない人だけれど、話しぶりからしてどこかでわたしを目撃したらしい。
いつだろう。わたしが逃げているとき? それ以降?
湖鐘さまのところに来て以降なら、ずっと神域の中で人には見えない状態にあったはずだ。わたしが湖鐘さまの屋敷を出たのは、一度だけ。
(……まさか、梛さまのところを訪ねたとき……?)
さっと血の気が引くのを感じた。湖鐘さまは、湖鐘さまの姿はどうだろう。わたしと一緒に「誰か」がいたことを知られたなら、事はなおややこしくなる。
わたしが生きて、どこかの誰かに保護されていると知ったら……おじいさまには都合が悪いはずだ。
「おーい、どこかで聞いてはいないかい。兄様が探しに来たよ。外は寒いだろう。一緒にお屋敷に帰ろう!」
兄さまが声を張り上げる。わたしがすぐ近くに立っているのに違う方へ向けて叫んでいるから、やっぱりこちらのことは見えていない。それでも、わたしのことを探しているのは間違いない。
お付きの人たちが、同情のまなざしを兄さまに向けている。「若君様……」と呟いているひとりは、じいんと兄さまの兄妹愛に感じ入ってでもいるんだろうか。
わたしも、昔なら、兄さまを信じて駆け寄っていたかもしれない。優しい兄さまを信じて疑わなかったあのころなら。
(一緒にお屋敷に帰ろう? わたしの持ち物を全部捨てた、あの屋敷に?)
今のわたしは、もう騙されない。
兄さまはわたしを殺そうとするおじいさまの元へ、あの日わたしを連れていった。わたしがそこでどんな目に遭うか知った上で。今ここで兄さまの元へ戻っても、同じことが繰り返されるだけだ。
(わたしを、ここまでされてまだ信じるようなばかだとでも思っているの)
悔しくて涙がにじみそうなほどだった。唇を結び、声を出さないように努力した。
姿は見えずとも、音は聞こえてしまうかもしれなかったから。
兄さまはその場で何度も、何度もわたしに呼びかけた。ただの一度も妹の名を呼んでいないことに――大切にしているはずの妹に名前がないことに、お付きの彼らはどうして違和感を持たないのだろう。
「呼んで見つかれば苦労はしないか。次は向こうを探しに行こう」
しばらくして、兄さまは諦めたようだった。このまま一通りこの辺りを見回って、わたしの捜索自体諦めてはくれないだろうか。
兄さまの余裕そうな表情を見る限り、それも無理そうだった。
「なに、付近の村にももう使いを出している。本当にあの子が生きているなら、他にも誰かが見ているはずだよ」
いつも通りの笑みを浮かべ、お付きの人たちの肩を叩きながら兄さまは去っていった。
こんなところも、兄さまを慕う人たちからは健気な兄だと思われるのかもしれない。一度兄さまに疑念を持ってしまってからは、そんなひねくれた考えが浮かぶようになってしまった。
住む場所とともに、物事の見え方さえ変わってしまったみたいだ。
ため息をつく。湖鐘さまに報告すべき「神域の異常」ではないけれど、嫌な気がかりができてしまった。
(……見回りに戻ろう)
見回りのことを考えて、気分を変えよう。
そう思ったのに、間髪入れず別の人物が通りがかった。そのひとは、兄さまと違ってすぐにわたしの方を見た。
「小娘。あれは一体なんの騒ぎだ?」
聞き覚えのある鋭い声。地面を擦る長い紫の着物と、睦月の雪のような銀白の髪。
「……っ、な、梛さま……!? どうしてここに!?」
つい憚らず声を上げてしまった。そこにいたのは、お社から動かないはずの気難しい女神様だった。