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ふくろの鼠 壱

 湖鐘さまのところにわたしの荷物が届いた、その意味ぐらいわたしにもわかる。


 おじいさまたちは完全にわたしの存在を家から消したのだ。

 湖の主さまへの嫁入りが成功したことになっているのか、失敗したことになっているのかはわからないけれど――実家にあるわたしの荷物は処分することになった、それだけは確かだ。


 覚悟はしていたつもりだった。湖鐘さまにもそう伝えていた。

 わたしの居場所はもう、どこにもないと。


 それでも実際に目に見える形でそれを突きつけられると、衝撃を受けずにはいられない。どこかぼうっとしたまま物置から帰って、一晩が過ぎてしまった。



○ ○ ○



 山の方から鳥の鳴き声が聞こえる。

 朝が来たのを感じて、わたしは目を開けた。


 体を起こして、布団から出る。実家で使っていた裁縫箱が目に入って、つきんと胸が痛んだ。わたしのものだからと貰ってきたものの、あまり見たくないという気持ちもあって複雑だ。


 それから、あれ? と思った。

 いつもならあるお弁当がないのだ。どこにも。


 湖鐘さまがうっかり忘れてしまったのだろうか。いただいている側なので、文句を言うのも図々しい。

 ひとまず部屋の水差しからお水だけを貰って、わたしは部屋から出た。そしてすぐにお弁当の用意がなかったわけを知った。


「……湖鐘さま?」


 母屋の縁側で弓矢の手入れをするのが湖鐘さまの日課だった。今日も変わらず、その姿はそこにある。

 ただ違うのは、湖鐘さまが柱に身を預けてじっとしていることだった。


 黄金の稲穂の色をした瞳は、今は閉ざされた瞼に遮られて見えない。

 目を閉じ、微動だにしない湖鐘さま。わたしがすぐそばまで歩いてきてもそれは変わらない。


 ――寝て、いる?


 初めて見る光景だった。


 人の理とは違うところで生きているという湖鐘さまたちにとっては、食事や睡眠といった生物に必要不可欠なものがそこまで重要ではないと聞いていた。ただしそれは力が十分に満ちているときだけだとも。


「湖鐘さま……?」


 わたしは膝をついて、おそるおそるその顔をのぞきこんでみた。

 色白で滑らかな肌。腕の良い人形師が丁寧に造り、描いたような綺麗なお顔だ。見れば見るほど人間離れしていて、眠っているのに凄みさえ感じる。


 湖の主さまのお嫁に行くために化粧やらなにやら色々と仕込まれたけれど、そんな小細工じゃ到底並び立つのに及ばないだろう。恥ずかしくなるだけだ。

 

「お疲れなのですか……?」

 

 とくべつ顔色が悪いわけではなさそうだけれど、心配になる。ふつう、幾日もろくに眠らないなんて真似をすれば倒れてしまう――なんていう感覚が湖鐘さまには当てはまらないとしても、心配になる。

 

 じっと見つめていると、突然ぱちりと湖鐘さまの目が開いた。


「翠蓮?」

「はいっ!?」


 真正面、それもすぐ近くで目と目が合ってしまって飛び上がる。


「わ……わたしです。あっ、し、失礼しました!」


 眠っているところをまじまじ見つめるなんてとんでもない無礼を働いただけでなく、なにかとても後ろめたいことをしていたような気になってわたしはその場で深く頭を下げた。

 

 叱責されてもおかしくない真似をしたと思っている。

 けれども湖鐘さまは、ゆったりと瞬いて穏やかに言った。


「ああ、いや、少し意識が飛んでいた。すまない、お前の食事を出していなかったな。すぐに用意しよう」

「いえ! ……ありがとうございます」


 穏やかに、というか、ぼんやりしているようにも見えた。

 もしかして寝ぼけているのだろうか……なんて考えるのもまた失礼だろうとは思いつつ、つい考えてしまう。お弁当がなかったのもやはり気づいていなかっただけらしい。


「眠るつもりはなかったんだが。うっかりしていたな……」


 その気がないのにしてしまった、要するに居眠りのようなものらしい。

 わたしたちただ(びと)の感覚で言えばそれは寝不足だとか、疲れているときに起こることが多いものだ。


「……無理はなさらないでください。わたし、何かお手伝いできませんか?」


 湖鐘さまが再び手に取った矢。その矢羽根をつけたり、矢じりをはめたりするぐらいならわたしにもできないだろうか。

 

 わたしが手伝っている間に、湖鐘さまはしっかり寝ればいい。きっと今夜も湖を前に寝ずの番をするのだろうから。

 

 そう思ったのだけれど、湖鐘さまは静かに首を横に振った。

 

「いや、自分で使うものは自分で作る。その方が、矢ごとに生じる細かなくせも把握できる」

「……そうですか」


 あえなく断られてしまった。

 でも、湖鐘さまにとって都合が良いやり方があるのなら、確かにその方がいい。わたしが良かれと思ってやることがかえって負担になってしまっては本末転倒だ。


 素直に引き下がると、湖鐘さまはゆったりと腕を組んだ。それから何気ない調子で、こう続けた。


「ほんの僅かな時間とはいえ、僕は確かに気を抜いた。この領域の維持にどこか綻びが生じたかもしれない。またいつかのように、その隙をついて門を越えようとするものがいてもおかしくはない。見回りは必要だろう」


 いつかがいつのことかを思い出して、わたしは身震いした。

 わたしがここに来たばかりのときに見た、湖の奥で蠢くものがこちら側に出てこようとするおそろしい光景――それを防ぐために湖鐘さまはここの番をしている。

 あれ以来わたしは見ていないけれど、もしもまたどこかであんなものが顔を出そうとしていたなら大変なことだ。


「僕は日暮れ前に今夜の備えを完成させなければならない。悪いが、食事を終えたあとにでも見てきてくれるか?」


 あまりに自然に頼まれたので何も考えずに頷きそうになって、わたしははっと気がついた。

 頼みごとだ。湖鐘さまがわたしに、頼みごとをしてくださっている。お役に立てそうなことを探していたわたしにとっては、とても喜ばしいことだった。


「……はい!」


 朝食を終えたらすぐにでも、屋敷中を見回りにいける気分だった。隅々まで、ほんの少しの異変も見逃さないようにこのお手伝いをこなそうと決意した。


 そう――嬉しくて、このときのわたしはすっかり舞い上がってしまっていた。

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