暗雲のしらせ ★
兄・藤弥視点です。今話から新章に入ります!
「――ええい、ご神託はまだないのか! 祭事を取り仕切る者たちは何をしている! あの役立たずどもめ!」
この辺りで一番広い屋敷の、その隅々まで届きそうな大声で老人が喚いている。
……流石に隅々までというのは言い過ぎかもしれない。でも、少なくとも同室にいる俺たちの鼓膜が破れそうなほどびりびりと震えているのは事実だ。はっきり言って耳を塞いでしまいたいところではあるものの、巽家当主として絶大な権勢を誇る老人の前でそんな行動をすればどうなるかは誰もが理解している。
彼の孫息子――血縁上は彼の弟の孫なんだけど――の俺であっても、それは同様だ。だいたい、余計に癇癪を起こされて面倒になりそうなのでやらない。作り物の笑顔を顔にはりつけて、祖父の望む振る舞いに徹する。
祖父はけさからずっとこの調子だ。
否、もっと前からか。彼の思い描いていた未来図と現実は日が経つごとに乖離していて、いまはもう丸きり違うものになっていた。
屋敷の離れに長らく軟禁していた孫娘を使って土地の守護神を懐柔する計画は、彼女を湖に沈めることは認めないと占いが告げたことによって狂ってしまった。祖父はそれでも強引に事を成そうとしたけれど、義妹は逃げて行方知れずになっている。
まだ、見つかっていない。
祖父が恐れているのは義妹が山中で事故死した可能性だ。
ただでさえ夜中に湖の辺りを騒がしく荒らした後ろめたさがある上に、万一にも逃げた彼女がどこかでのたれ死んでいたならば、湖の主殿からの心証は間違いなく悪くなる。
言うことも聞けず、生贄の儀さえ満足に行えない無能な当主として守り神に見限られるのが怖いわけだ。
ひそひそと、俺と同じく祖父の部屋の側で待機を命じられた者たちが噂する。
「やはり、花嫁の件で湖の主殿の不興を買ったのでは……」
「そもそも婚姻を拒まれていたというじゃないか。さらに以前から湖の主殿の機嫌を損ねていたのでは」
「湖の主さまに守っていただけなくなったら、我々はどうなるんだ……」
同じ心配を、この屋敷では誰もがしている。俺を除いて。
巽家の栄華も、村の繁栄も湖の主殿のご加護のおかげと思っている。それで、見限られるのが怖い。
ばかばかしい話だ。
姿も見えない、いるかもわからない【守り神】のご機嫌伺いに神経をすり減らすなんて。
「藤弥!」
ほぼ怒鳴り声と言っていい強さで、祖父が俺を呼んだ。
「はい、なんでしょう」
すかさず進み出て祖父の前に膝をつく。彼はじろりと俺を見た。
「まさかとは思うが、義妹を憐れんで匿ってなどいないだろうな」
「何をおっしゃいますか。だとしたら、あの場に連れていく前にどこかに逃がしていますよ」
義妹を騙して山中に連れてゆき、彼女を殺すために集められた人員の手に渡した。それは俺が選択した事実だ。祖父から下った指令の通りに、俺はやってのけた。義妹には恨まれるだろうが、承知の上で。
ただでさえ養子の身、かろうじて血の繋がりはあれど、俺のこの屋敷での立場はひどく脆い。祖父が当主の座を退かず未だ現役である以上、この屋敷も辺りの村も全てが祖父の部下のようなものだ。機嫌を損ねれば「巽家のお世継ぎ」としての地位を失うばかりか、ここに住まう権利すら失う。
「お祖父さま、どうか落ち着かれてください」
結局、今の俺ができることは、祖父の機嫌を取ることだ。
「ご神託がなくとも、お祖父さまのお言葉に民たちは従います。それに、もしも湖の主殿の機嫌を損ねていたとして、祟りがないのはおかしくありませんか?」
「あったら我が一族は破滅ではないか!」
「だから、ありませんでしょう? 干ばつも、洪水も起きておりません。いたって普通の日々です。主殿が真実お怒りであれば、このようなことはありえないはずですよ。大丈夫です」
「ぬう」
偶然と区別のつかない占いや不運と区別のつかない祟りよりも、祖父の不機嫌ははっきりとした害がある。一向に下りない神託を待ってやきもきしている間に滞っている政務は山ほどあるのに、これ以上の下手を打ちたくない祖父は俺も含めて屋敷の全員に「余計なことは何一つするな」と厳命していた。非効率的としか言いようがない。
「取り乱されるなど巽家の当主らしくない。あとは、そう、先日お風邪を召されていたでしょう。病み上がりのお体に障りますよ。いっそのこと、少し休まれたらどうです」
「ぬうう……」
適当な言い訳を繕って祖父を宥め、寝室に促す。
唸りつつも、老人は俺の言葉に従って歩み出した。
ありがたい。そのまま奥に篭って休んでくれれば、ある程度はこちらの判断で屋敷の者たちに指示を出せる。顔には出さないようにしつつも、心の中ではそう思った。
〇 〇 〇
祖父が寝室に入っていったあと、俺は丁寧にその体を気遣う言葉を残して、襖を閉めた。
何を言ったかは次の瞬間にはもう忘れていた。巽藤房の従順な後継者にふさわしい言葉だったのは間違いない。
他の者たちに好きに動いていいと伝えに戻れば、わっと歓声が上がった。
「いやはや、さすがは藤弥さまだ。しっかりしておられますね」
「湖の主殿のことは気がかりだが、巽家には優秀なお世継ぎがおられる。安泰だ」
「……それはどうも。ありがとう」
そう思われているのなら、これほどうれしいこともない。本当だ。
にこやかに返しながらその場を流していく。待機を命じられた全員が祖父の部屋の前から去れば、あとはしばらくの間いつも通りの日常が帰ってくる。
「藤弥さま、藤弥さま」
遠慮がちに声をかけてきたのは、下女のひとりだった。
「あのう、これはまだ、不確実な噂なのですけれど……湖の主殿の社の近くで昨日、妹君と同じ年ごろの娘を見かけたという話が。村の娘ではないようです」
「何だって?」
思わず聞き返した。まさか目撃情報が存在しているなんて思わなかった。
当主である祖父の前で言わずまず俺に伝えてきたのは、祖父よりも話しやすいと思われているからに違いない。
「そ、そう話している村人たちがいたのです。詳しく聞けば、背格好と年ごろがお嬢様の特徴と似ていて……」
湖の周りに寄り集まって住んでいるこの辺りでは、気づけば皆が顔見知りになっている。見慣れない人間を見かけたという話自体珍しい。
もしかすると思わぬ手柄の糸口を自分だけが掴んでいるのかもしれない――そう直感して、すぐに詳しい話を聞くことにした。
「昨日? 確かに昨日と言ったな」
「はい。常蒼のお山の方に歩いていったと。通りがかった村人がたまたま目にしたものなので、詳しいことはわからないのですが……」
「……一人で? 怪我などは」
あの時の義妹は山中を夜通し逃げ回るには軽装だった。そもそも体力と運動神経が年相応にあるのかも怪しい。未だ見つからないとはいえ、どこかでとうに死んでいるだろうと皆が思ったのはそのためだ。
しかし、噂はその予想に反していた。
「一人です。しかし身なりは小綺麗に整っていたらしく、どこか別の土地から良家の子女が通ったか、あるいは幽霊か幻か、と村人は思っていたようです」
「ああ、あの子は人に姿を覚えられるほど外に出ていないからね。だが――」
「山中で数日彷徨った末の姿にしては不自然です。何者かに拾われたか、もしや、本当に幽霊では」
「あのねえ。幽霊の正体なんて、大概どうってことのないものと決まっているんだよ」
動揺する下女に呆れる。やっぱりこの屋敷は誰も彼もが迷信深い。
「不安が見せる幻のようなものだ。お祖父さまは見るかもしれないね。中途半端に婚儀を押し通そうとした上に、義妹を取り逃がしたうしろめたさがある」
「そうなのでしょうか……」
そうなんだよ、と答えながら、腕を組む。幽霊説はともかく、気になる噂話なのは事実だ。
「まあ……村人はそんなことを知る由もないだろうから、少し気にかかる噂ではあるけどね。わかった、俺が見に行こう。いくらか人を集めてくれ」
「はいっ」
調べるだけは調べてみようと決める。
義妹が五体満足で見つかれば、祖父ももう取り乱しはしないだろう。
もちろん、生け捕りにして屋敷に連れ戻せることが前提になる。今度は逃げられないよう、油断せずにかかるべきだ。
――それにしても今まで、どこで何をしていたのやら。捕まえたら問いただしてみようかと、少しだけ興味を持った。