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もうひとりの神 肆

 あれから梛さまの姿を見ることはなく、わたしたちは掃除を終えて屋敷に帰ってきた。隅々まで箒をかけ、苔を取り除き、石灯籠を拭いたことで梛さまの庵も随分綺麗になったとはいえ――湖鐘さまのお屋敷に戻ってくると、改めて梛さまの庵の寂れ方が気にかかる。

 

 いずれ、もしも湖鐘さまが今よりずっと力を失ったならば、この屋敷も荒れ果ててしまうのだろうか。その前に他所から、もっと力のある新しい湖の主さまが現れるのかもしれない。今の湖の主さまが、梛さまから湖鐘さまに変わったように。

 

 わたしはずっともやもやしていた。

 わたしを助けてくださった湖鐘さまが少しずつ力を失っていると知って、なのに何もできない。この屋敷で何かできることを探して、「湖鐘さまの話し相手に」などと言ってみたけれど、それによって力の消失を食い止められるわけではないのだ。

 

 もやもやしたままその日は眠りについて、翌朝を迎えた。



〇  〇  〇



 次の日の朝も、起きたときにはお弁当が用意されていた。食べ終えて部屋から出ると、やっぱり母屋の縁側で矢を作っている湖鐘さまが見えた。


「おはようございます、湖鐘さま」

「ん、ああ……翠蓮か」


 声をかけると、湖鐘さまは坐ったまま視線をわたしに向けた。


「昨夜はよく休めたか? 人の身のお前は僕たちとは感覚が違うだろう。昨日のことで疲れてはいないか」

「お掃除のお手伝いをしただけですから、平気です。体を動かすのが久しぶりだったので、少しばかり腕が疲れたぐらいで」


 むしろちょうど良い疲れがあったぶん、ぐっすりと眠れたほどだ。目覚めもすっきりとしたもので、ここ最近で一番気分が良いかもしれない。

 湖鐘さまはそうか、と言って、作り終えた矢を横に置いた。そこには既に二十本はゆうにありそうな矢の山ができていた。


「遠慮はするなよ。梛にまでお前のことが知れていた。身柄を預かっている娘を自らの領域で弱らせたとなれば、僕の沽券に関わる」

「そんな、弱るなんて。この通り元気です。弱ると言うならば……」


 わたしは肩をぐるぐる回して、弱ってなどいないことを訴えた。

 弱ると言えば、わたしよりも湖鐘さまの方が気にかかる。


「なんだ?」

「い、いいえ。その……」


 本人にじっと見られながら、面と向かってどれほど弱っているのですかなんて訊く度胸はなかった。心配ではあるけれど、はっきりと聞いてしまうのも失礼な気がして。

 それでわたしは、よくよく言葉を考えながらこう続けた。


「湖鐘さまはいつも、湖の番をしていらっしゃるのですよね。特に日が暮れると良くないものが渡ってきやすいからと、夜には矢を射てそれを防いでいる。でもわたしが起きるころにはお弁当を用意してくださっていて、今もここに……いったいいつ休まれているんですか?」


 人間だって、鳥だって、山の獣たちだって休息は取る。いくら湖の主さまとわたしたち人間とでは感覚が違うとしても、疲れないということはあるまい。


 湖鐘さまはあっさりと答えた。


「いや、僕に休息の時間は不用だ」


 そう言ったかと思えば、腕を組んでため息交じりに続ける。


「……と言いたいところだが、それはあくまで力が足りている場合だな。里が栄え、充分に祭事や寄進が行われていれば問題ない。僕や梛のような土地の守護者は、人間や動物とはまた違う理に生きている」


 すぐにはなるほどと思えなかった。それが顔に出ていたのか、湖鐘さまはさらに説明を続けた。


「嗜好品として酒や食物を口にすることはあるが、それ自体が生命維持に不可欠なものではないから、ほとんどは物置に仕舞いっぱなしにしている。このところお前に与えているのは、民たちから献じられたもののそのままになっていた品だ」

「えっ? そうだったんですね」


 どこかから出される食べ物。考えてみればこの屋敷に厨房らしきものはないし、湖鐘さまが煮炊きをする様子もあまり想像できない。そのままの形でどこかに眠らせられていたものを出してきているのだという話は、ちゃんと実態に沿っている。


 不思議なことがあるとすればその質だった。仕舞われていたものを出してきたにしては、お弁当のおにぎりもおかずも柔らかく新しいものに思えた。それこそ湖鐘さまの力と言えばそれまでなんだけれど。


「言っておくが、腐ってはいない。この屋敷にそういう概念はないからな」

「疑っていたわけではないんですけど……そうなんですね」

「わかっている。一応、言ったまでだ」


 屋敷自体の性質だったらしい。つくづく、この場所は不思議だと思う。

 わたしが生まれたときから暮らしてきた村の近くにあるはずなのに、屋敷にいる分にはまったくそんな感じがしない。ものは腐らず、ともすると時の流れさえ外とは違うんじゃないかと思わせる。

 

 今、村は、実家はどうなっているのだろう。未だにわたしを探し回っているのなら怖いけれど、そろそろほとぼりも冷めたかもしれない。それこそ、わたしは湖に落ちて死んだものと思われているかも。知りたいような、まだ知りたくないような。

 

 と、そこで、湖鐘さまが立ち上がった。矢を作る作業と弓の手入れは一通り終わったらしい。


「そうだ。いい機会だ、他にも使えそうなものがあればお前に引き取ってもらおうか」

「引き取る?なにをですか?」

「長年蓄えられた供物の類だ。受け取った以上は粗末にしないのが信条だが、何枚もの織物やら簪やら人形やら、僕には持て余すものも多い」


 さっき話していた物置の話らしかった。お屋敷に届けられるものは本当にさまざまなようだ。実際わたしも何が喜ばれるのかわからずに嫁入り支度をしていたし、皆思い思いに奉納してしまうんだろう。それを湖鐘さまは律儀にすべて取っておいているというわけだ。

 

 ……長年蓄えられたものがどれほどかわからないけど、わたしも引き受けられるだろうか。

 それならばと、わたしは提案した。


「いくらかは梛さまに差し上げるというのはどうでしょうか」

「ああ、それも悪くないかもしれないな。力の足しにはならないだろうが、物自体の実用性はそれと別の話だ」


 湖鐘さまは頷いて、わたしを招いた。


「ついて来い」



〇  〇  〇



 湖鐘さまの後をついて、廊下を渡る。

 目的地はわたしの借りている部屋のある棟の、さらに先にあるらしい。自由に出歩いて構わないと言われているとは言ってもあちこち顔を突っ込んでいるわけではないので、入ったことのない場所だった。


「こちらに物を集めているんですか?」

「今はな。以前は、今お前が使っている棟が物置だった」

「あ……」


 ここに来たばかりのとき、そういえばそんなことを言っていた気がする。わざわざ物を移動させてくれたのだ。湖鐘さまの力を以ってすれば一瞬なのかもしれないけれど、わざわざ。


 とてもありがたいことだと思う一方で、わたしはふとあまり気にしない方がよかったことにも気づいてしまった。梛さまが言っていた、わたしが湖には供物だと認識されているという説。もし、それだから、わたしの部屋が元物置なのだとしたら……。


「少し見ないうちにまた色々と届いているな。最近は減っていたと思っていたが」


 湖鐘さまが新しい物置の戸を開け放つ。わたしは恐ろしい考え事を一旦打ち切った。

 中には大小さまざまな葛籠(つづら)や布袋が積まれている。あれこれ形の違うものを積んだら崩れてしまいそうなものなのに、山は崩れずに見事な均衡を保っていた。


 迷いなく、湖鐘さまが中に入って葛籠を開け始める。わたしが呆然としている間にさっそく何か良いものを見つけたらしい湖鐘さまが、わたしを呼んだ。


「ああ、これはどうだ? 何やら半端にも見えるが、良い柄だ。お前に合う。睡蓮の花だぞ」

「えっ。本当ですか」

「ほら」


 葛籠の中から、何やら布らしきものが取り出される。

 それを広げて見せられて、わたしは固まった。


「……」


 時間が、止まったかと思った。

 外で風がびゅうと吹く音が聞こえる。止まったのは時ではなく、わたしの思考だ。


「……翠蓮? どうした?」

「これ……」


 湖鐘さまに問われて、震える手で布に描かれた半端な睡蓮を指さすのがやっとだった。

 それは、ここにあるはずのないものだった。


「……これ……は、わたしが……作りかけていた、ものです」


 湖の主さまに贈るため、せっせと作っていた刺繍。肝心の完成を待たずして、急に決まった婚礼とその後の騒動で放り出す形になってしまった。

 よくよく葛籠の中を覗いてみれば、入っているのはそれだけではない。


「この文箱も、裁縫道具も……着物も……わたしの……」


 わたしが実家に残してきたものが、ここに届いている。

 湖に沈められたか、湖鐘さまのお社に捨て置かれたか、どちらにせよおじいさまたちが手放したということだ。きっと今頃、わたしが暮らしていた離れはすっかり片付けられている。


 本当に、本当に、もうわたしの戻る場所はない。

 ここを出ても、行く当てがない。わかっていたことなのに、その証拠を見せつけられると胸が苦しくなった。


「……そうか」


 湖鐘さまは、重く呟いた。

 

 おじいさまたちに新しい動きがあった――それが何を意味するのか、わからないながらに嫌な予感がした。

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