もうひとりの神 壱
輝千さまが訪ねてきた翌朝、わたしが目を覚ますと螺鈿細工の施された箱が枕元に置かれていた。何かと思って開いたその中に入っていたのは、二つのおにぎりとお新香。お弁当箱だった。
ここに来て今日で三日目になるけれど、湖鐘さまが食事らしい食事をしているのを見たことがない。湖の主さまは人とおなじ物を食べないのか、食べるとしてもずっと少ない量でいいのかもしれない。
とにかく、お腹がすくのはわたしだけのようで、昨日と一昨日は湖鐘さまがどこからかぽんと出した食事をいただいた。
……ところが、今日はお弁当だ。まだわたしが起きてもこないうちに湖鐘さまが用意してくださったのか、あらかじめ置かれている。
文句はない。不思議だったので、わたしはひとまずお弁当を食べるのは後回しにして湖鐘さまに聞いてみるべく部屋を出た。
そこで、何やら荷物をまとめている湖鐘さまを見た。
「湖鐘さま? おはようございます……?」
「……ああ、起きたか。食事なら部屋に置いておいたろう」
「はい、ありがとうございました。あとでいただきます。……湖鐘さまは、お出かけですか?」
「少しな。梛の様子を見に行ってやるつもりだ」
湖鐘さまが口にした名前には、聞き覚えがあった。それも最近。
まったく知らないわけではないだけに、わたしは聞かずにはいられなかった。ずっと気になっていたのだ。
「梛、さま……って、昨日の輝千さまのお話に出てきた……」
「常蒼山とその山麓を守護する女神だ。以前少し話したな」
「その方なんですか? その……昨日の話ではあまりお体が良くないという風に聞こえたんですけど」
「真実のところはわからん。が、僕の力も全盛期と比べれば落ちているんだ。彼女がなお悪いのは間違いないだろうな」
湖鐘さまはすっと湖を見遣って、目を細めた。
朝の湖は凪いで、鏡のように空を流れる雲を映している。
「……梛はな、僕の前にこの巳鏡湖の守護をしていた。ある意味で言えば先代だ」
そこで言葉を切った湖鐘さまは、今度は山の方に顎を向けた。
「別の言い方をするならば……僕があの山に追いやってしまった」
「湖鐘さまがですか?」
信じられなくて、私は話を割るように訊いてしまった。
“追いやる”という言葉は、わたしが湖鐘さまに対して抱いている印象とはかけ離れている。まったく似合わないと言ってもいい。
すると湖鐘さまは苦い顔をして、うんと一つ首肯した。
「そうだ。僕が現れたからだ。はじめこそ梛に師事し、彼女の補佐をするつもりでいた僕だが――次第に彼女の仕事を奪ってしまった。彼女の神殿は常蒼山に移設され、代わりに置かれたものは僕のための社だった」
巳鏡湖の主さまのための社。と言えば、おじいさまたちが代々大切に管理しているものだ。その前の代も、そのまた前の代も、湖の主さまのことは丁重に祀ってきたと習っている。
巳鏡湖あってこそ発展を遂げてきた土地だと伝えているぐらいなのだから、わざと“主さま”をすげ替えるようなことはないと思うけれど――長い時の中でいつの間にか、伝承に小さな勘違いや解釈の違いが生まれる可能性はじゅうぶんにある。
「その神殿の移設って、わたしの家が……」
「誰かに悪意があったわけではないとはいえ、結果的に梛の力を大幅に削いだ引け目がある。本人も気にするなと言っていたが……そうかとそれで終わりにするのも性に合わないものだから、時々掃除に行ってやるんだ」
わたしを遮って、湖鐘さまがお話を締めた。
話を逸らされたような形になったということは、半ばその通りだと告げられたようなものだ。
「日暮れまでには戻る。好きに過ごしていてくれ」
「あのっ。……わたしもお手伝いに行くのは、だめでしょうか?」
浅葱色の衣を翻して行ってしまおうとした湖鐘さまを、わたしは引き留めた。
「おまえがか?」
「この辺り一帯を治めてきたのはわたしのご先祖さまたちです。梛さまを常蒼山に移したのもきっとそうでしょう。わたしが行ったところでどうなるわけでもないですが、その、何かできないかと思って……」
言いながら上手く言葉をまとめきれずに、もにょもにょと口ごもった。
けれども湖鐘さまはそれだけで去るのをやめてくれた。つま先をわたしの方に向け直して、また話をする姿勢をとってくださった。
「成る程、おまえもそういう性分というわけだ。……だが、たとえば梛がおまえの一族を恨んでいて、訪ねることが火に油を注ぐようなものだとは考えないのか?」
「えっ!?」
びっくりしてから、驚くようなことでもないと思い至る。
「そ……そうですよね、その可能性だってあるんですよね」
梛さまを山奥に追いやり、湖の主を別の者に替えた。湖鐘さまが気にしていたことは、そのままわたしの一族に帰ってくる。なんならもっと直接的だ。湖鐘さまよりよっぽどこちらの方が恨めしいだろう。
はじめは冷たく感じた湖鐘さまも話してみれば穏やかで、少なくとも恐ろしくはないひとだ。輝千さまも本人は大柄ゆえに怖いだろうと言っていたけれど、感情豊かなその気質はむしろ親しみやすい。
梛さまは、どうだろうか。まだ知らないひとだ。はじめて会うひとだからこそ、わたしは余計に心配になった。
その恐れを振り払いたくて、ぱんと両手で頬を叩いた。
湖鐘さまがぱちくりと瞬いた。
「でも、なら尚更、わたしは梛さまを避けてはいけない気がします。おじいさまも兄さまもきっと知らないことを、わたしだけが知る機会を持てた。恨みをぶつけられるのが恐ろしいからって、知らぬふりをするのは知らずにいるよりも罪深いと思うんです」
「……そうか」
湖鐘さまはそう言ってから、ぽそりと呟いた。
「まあ、梛が恨んでいるかもしれないというのは嘘だが」
「う、嘘!? なんですか!?」
まさかの冗談だった。湖鐘さまが戯れに嘘をつくとは思わなかったので、完全に本気にしてしまった。脅しだったとしたら効果はてきめんだ。
ねたばらしされてもまだ信じられなくて、わたしはつい食い下がった。
「だ、だけど、もしかしたら……って、ありますよね」
「言ったろう、後釜に収まった僕に対しても気にするなと笑ったような奴なんだ。僕に手柄を持っていかれるとわかっているのに、未だに民たちや田畑の守護をきっちり行っている。人を恨むのに向いていないな、あれは」
「……そう、なんですか……」
それはそれで、ほっとしていいことではない気がする。
優しいひとなのかもしれないけれど、少しぐらいは恨むべきではないだろうか。
わたしが複雑な気分になっていると、まだ不安がっていると思われたのか湖鐘さまは静かに付け加えた。
「仮に何かされそうになっても、僕が仲裁に入る。掃除も人手があったほうがいいからな、良ければついてきてくれ。危険な目には遭わせないと約束しよう」
そこに嘘はないと確信できるような、真摯な宣言だった。
しかも、わたしが頼んでいたはずなのに気がつけば頼まれている。
湖鐘さまは窺うようにわたしの顔を見てくるけれど、どうしようか悩む間なんてまったく必要がなかった。
「わかりました、少しだけ待っていてください。大急ぎで朝食を食べてきます!」
力強く頷いて、そのまま礼もする。
そうして早足で部屋に戻ろうとすると、背後から意外なほど優しい声で「急がなくていいぞ」と聞こえた。




