ごめんなさい、無理です。
エブリスタにて作品掲載、公開中の【確かに、その通りです。】という作品の土台は同じでも登場人物も全く違うストーリー。そちらを知らなくても何の問題も有りません。
貴族の力が少しずつ弱まり、平民が力を付けて来てたとえ平民と言えども貴族が頭ごなしに理不尽な事を要求出来なくなって来たこの10数年。私、モーラの元に名門では有るものの落ち目と噂されている伯爵家から縁談が持ちかけられた。私の父・テルノルは商売に才覚が有ったようで、父の所有する商会は国内に3店舗展開されていて、どこも売り上げが常に前年度の売り上げを更新するような、勢いが有る。つまり、裕福な平民と言える。そんな我が家と落ち目の伯爵家の縁談。
これがゴリ押しならばお断り出来たのだけど。
伯爵家の領地を含めた国の彼方此方で先年は冷害により作物が育たなかった。故に備蓄を解き放ったのだが、今年も引き続き冷害で作物は育たない。我が家の商会も国の一大事と有って商品を安く国へと譲った。それだけでなく炊き出しもしたし、3つの店舗の有る領地へ支援金も出していたのだが。
今回縁談を持ちかけて来た伯爵家の領地がある周辺は特に冷害による作物の被害が大きい所で、我が家のように国内の商売で利益を上げた商会だけでなく、国外との商売で利益を上げた商会のいくつかは、その周辺の貴族から支援金目当ての縁談が持ちかけられていた。
こういった状況でも無い限り、私は好きな相手と結婚して良いと言われていたけれど、現状、好きな相手も居ない上に国難と言っていい状況。私は持参金とは別に支援金と共にかの伯爵家へ嫁ぐ事を了承した。国難なのに我儘を言っている場合では無い。尤も、断っても何ら不都合が無い程度に国に還元はしている、と父は話していたし、私もそう思う。
ただ、断るには少し考えてしまう家柄……かの伯爵家はそれなりに名門なので、公爵家・侯爵家と繋がれるかもしれない、と私は考えた。それは我が家の利益になるので、その点のみだが、縁談を受け入れた。
そして私はその方に、出会う事になる。
彼は私、モーラの2歳年上。焦げ茶の髪と目の私は良く言えば落ち着いた雰囲気だと周囲から言われていた。その私の目から見て、ポルト様はとても鮮やかな色彩をしていた。夕陽を思わせる赤い髪と柑橘類を思わせるオレンジの目。世界が色付いて見えた。
「はじめまして、ポルト様。モーラと申します」
残念ながら貴族出身ではないため、きちんとした貴族様が使う挨拶は出来ないけれど、それでもまともな挨拶だと思っていた。此処はポルト様の伯爵家。いくら落ち目とはいえ、きちんと使用人も居たのだが、その使用人達があからさまに私の挨拶に眉を潜めていた。……どうやら“これだから平民は”と思われているらしい。
それはどうやらポルト様のご両親も同じらしく、お父様は一瞬険しい顔つきに。お母様はあからさまに頬を痙攣らせて溜め息を吐き出していた。背後の私の両親を振り返るのが怖い。多分、伯爵家のそんな態度に苛立ちを覚えていると思う。微かに舌打ちが聞こえて来たから。
ただ、私はこの婚約を受け入れたい、と思っていた。単純明快ながらポルト様に一目惚れしてしまったから。この時、私は12歳。ポルト様は14歳で、もうすぐ学園に入学するという頃だった。
この国では、14歳から17歳までの4年間、貴族は王立の学園に入学する。平民も裕福な者は同じ学園に通える。私も2年後は通う予定でいた。ポルト様が学園に居るのなら楽しみだ、なんて既に考えていたくらい。
「よろしく、モーラ嬢」
ポルト様は貴族らしい微笑みを浮かべて私に挨拶を返して来た。私は一目惚れだったけれど、彼は当然ながら私のことは何とも思っていないようだ。これから交流を深めていけば少しずつ距離が縮まるだろうか。
***
婚約が成立してからおよそ2年が経つ。
当初、私が期待していた婚約者との交流はほぼ無かった。
そもそも、学園は王都に屋敷が無い下位貴族が居る事と、騎士科が有って夜戦訓練も有る事から、貴族・平民関係なく全員が寮生活を送っている。長期休みには実家に帰る事も許されているが。
ポルト様は、伯爵家に帰省しても私の手紙や贈り物に気付かれていないのか、それとも政略的なものだからと思われているのか、何も無い。
そして私が伯爵家に入るため、平民で有る事をポルト様のご両親や使用人から言葉の端々で見下されながらも伯爵家に赴いて必死に教えを乞うて頑張っているのに。
私が伯爵家に赴いている事すら、興味ないみたい。
お義母様はきちんとポルト様にお伝えしているらしいが、一度も会わない。交流どころか挨拶すら出来ていない。さすがに、お義母様もそんなポルト様に苦言は呈したらしいのだけど。学園の成績を保つために勉強が忙しい、とか、お義父様につき従って後々治める事になる領地視察で忙しい、とか。そんなこんなで私に会う時間どころか、挨拶する時間も取れないという。
いくら支援金目当ての婚約だからって、それは無いのでは?
私の不満は、でも、押し込める。貴族は顔に感情を出してはいけないそうだから。お義母様も成績や領地視察と言われると、文句も言えないらしい。それでも挨拶くらいは出来る時間を作りなさい、と伝えたとは教えてくれた。
いくら、平民の婚約者が不満のお義母様でも、さすがに自分の息子の態度は有り得ないと思ったようで、お義父様にも話はしたらしい。お義父様もさすがに自分の息子がそこまで態度が有り得ない事に驚いた、とか。そして、平民の娘が奥様になる事に苛立ちを見せていた使用人達でさえも、此処まであからさまに自分達の主人として仕えるはずの子息の態度が、婚約者に対して有り得ない事に動揺しているようで。
最近は、ポルト様のご両親も伯爵家の使用人達も、私に優しくなって来た。
多分、私が平民だと見下されていても、根性で貴族の仕来たりや礼儀や伯爵家の歴史や奥向き等、お義母様に教えられた事を必死に覚えて、様になって来たから、というのが背景に有るのだと思うけど。
でも、そもそもの話。
ーー伯爵家の窮地を救うために支援金を望んだ伯爵家からの申し出なのだから、私が貴族の仕来たりとか礼儀とか、学ばなくても問題は無いのよね。
ただ、私が一目惚れしたポルト様の横に並び立つ時に恥ずかしくないように、と願ったから頑張っているだけで。
でも、少し心が折れかける。
だって、ポルト様と顔を合わせたのは、最初の日だけ。挨拶も出来ない。手紙や贈り物は私からの一方通行。私がどれだけ、頑張っても。誰の為なのか理解もしてもらえていないはず。
こんな事で学園に入学しても、ポルト様にお会い出来るのかしら。
会話くらいは出来るのかしら。
いいえ、不安になっても仕方ないわね。行ってみれば解るわ。
期待は1割。不安は9割で入学した私は、1ヶ月も経たないうちに、期待が脆くも崩れる事を知った。
***
ーーポルト様には、相思相愛の恋人が居る。
入学して1ヶ月も経たないうちに、こんな噂を耳にした。伯爵家の子息であるポルト様なのに、何故そんなにも噂が……と思っていたのだが。
どうやらポルト様は、だいぶ女性を惹きつける見目のようで。おまけに、その恋人さんとは仲睦まじいらしくて、いつも一緒なのだと言う。だから、将来は2人は結婚するのだと思って、友人達が2人に将来の事を尋ねたら、ポルト様がはっきりと口にしたらしい。
「政略的な思惑で結ばれた婚約者が居てね。私からは婚約をどうにも出来ないのだ」
と。その時のポルト様は、悲痛そうな表情だったらしい。言っている事は間違っていないけれど。それだと、私が無理やりポルト様と婚約した悪女みたい。
実際、ポルト様の婚約者が誰なのかは知られていないけれど、噂では私は悪女みたいだ。
「ポルト様と恋人を引き裂く悪女ってどんな婚約者なのかしらね」
私は実際、友人や仲良くなった先輩からこのような事を言われた。私が婚約者だと知らないからこそ、“ポルト様の婚約者”を悪し様に言う友人や先輩達を見て、顔は笑顔で心は痛みで泣いていた。
正直、此処までの思いをしながら婚約を続ける必要も無かった。解消しても、良かったのだけど。
愚かな私は、それでもポルト様が好きだった。
顔が好み、というより。
それも有るけれど。
両親も焦げ茶の髪に焦げ茶の目をしていて、私も弟妹もその色を継いでいたから、彼の、ポルト様の髪も目もとても綺麗な色彩だった事が、今でも胸に焼き付いているせいかもしれない。
自分や家族の色彩は好きだけど。
ポルト様の鮮やかな色彩は、初めて会った時に焼き付いてしまって離れない。
愚かなんだと思う。
だけど。
あの色彩と整った顔立ちと優しく笑ってくれた事が、忘れられない。一目惚れが消えない。今なら解る。あの笑顔が貴族特有の、本心を隠した笑みだって。
それでも。
今も消えてくれないから。
私が入学した事は、手紙でお知らせしているから、読んでいらっしゃれば知っているはずなのに。
やっぱり、学園でも顔を合わせる事もなく。当然交流なんて有るわけなく。
ただ、ポルト様が恋人様と仲睦まじい事を噂に聞くだけ。
私は、一体、彼のなんなのでしょう。
名ばかりの婚約者?
厄介な婚約者?
恋人を引き裂く悪女?
噂が届く度に私の胸は軋む音がする。
ふと、思う。
もし、もしも私がポルト様の婚約者だと知られたら……?
悪女が私、ということになる……?
今もこんなに噂をされているのに、私がポルト様の婚約者だと知られたら、どうなるのでしょう。
「それにしても、ポルト様の婚約者ってどなたなのか知らないけれど、もし判ったらどうなるのかしらね」
奇しくも私の危難を口にした友人。それは聞いていた先輩が答えます。
「そりゃあ、思い合う恋人達を引き裂く悪女だもの。平民のお嬢さん方か、貴族のお嬢様方か、或いは両方から虐められるでしょう。さっさと別れろって抗議されるのが可愛いと思えるくらい。例えば、悪口を常に言われるとか。例えば、平民や下位貴族だったら上位貴族から家を潰されるとか」
私は、具体的に言われてゾッとします。でも更にゾッとするのは、それを聞いている先輩達も友人達もクスクスと笑っている、ということ。誰一人、それが可笑しいと思っていないのです。私とポルト様の婚約は政略的なものですが、私はきちんと両家が、つまりポルト様のご両親が認めた婚約者なのです。それなのに、私が悪者です。
そして此処に居る誰一人として、婚約者の正当性を理解してくれません。
だって恋愛にお邪魔が居る事はそれだけ盛り上がります。正当な婚約者がこの場合、悪者で邪魔者なのです。
もしかしたら、それが私だと知ったら、掌を返したように皆さんが同情したり味方になったりするかもしれません。でも、それはあくまでも可能性で。私だと知っても変わらないかもしれないし、私だと知ったら直ぐに攻撃されるかもしれません。
貴族はそういった足の引っ張り合いも有るし、悪口など日常的な事だとはお義母様から聞いています。伯爵夫人になったらそういった女の戦いに挑み、勝たなくてはならない、とも言われました。話を聞いていた時は、そういうものなのか……と頷くだけでしたが、今、こうしてその危機が訪れるかもしれない、と想像しただけで恐ろしくなりました。私は、ポルト様と結婚して貴族の世界に足を踏み入れたら、こういう状況に立ち向かわなくてはいけない、ということです。
恐ろしさに身震いしました。
誰にも気付かれなかったのは幸いですが。
いつ、私が婚約者だと知られるのか、戦々恐々とします。
しかしながら、私の恐怖とは裏腹に、ポルト様が婚約者について口にしないからか、婚約者探しをしようとした周囲も、諦めてしまったようです。貴族か平民かすら口にしないポルト様。学園に在籍しているかどうかも口にしないポルト様。それどころかずっと恋人様と一緒で婚約者を訪ねないポルト様を見て、きっと、学園には居ないのだろう、と皆さん判断したようです。
良かったのか悪かったのか。
いえ、安堵すると足元を掬われるかもしれませんね。貴族はいつでも足元を掬う事を虎視眈々と狙っているとはお義母様のお言葉です。ですから、私は慎重になります。
ポルト様に近づかない。
この一択です。幸い、ポルト様と学年が違う事から昼食や放課後くらいしか会う可能性が無いのです。寮は男女別ですし。昼食は元々、私は友人達と食事をしていて、昼休憩もそのまま友人達と一緒です。放課後も勉強のために図書室に居るか寮の自室に居るだけ。学園外へ出掛けるのも、友人達から誘われる時だけ。だからポルト様に会わない事は簡単でした。
***
そうして入学してから1年が過ぎ。
もちろんこの間も、ポルト様から手紙も贈り物も無く、交流の“こ”の字も出て来ません。私も入学してから、ポルト様に手紙を出す事は無く。ポルト様の誕生日すら贈り物はしませんでした。お義母様から、ポルト様との関係を尋ねられる手紙が届いても、ポルト様とは学年が違うからお会いしません、とだけお答えし、私のお父様から学園生活を尋ねる手紙には友人達と仲良くしている、とお答えして……いつの間にか、1年です。
ポルト様は最終学年に進級されました。
ポルト様は伯爵家の嫡男ですので、学園を卒業されたら跡取りとして本格的に勉強します。そのための準備で、学園がお休みの日に時々伯爵家へ帰る事が多くなったようです。お義母様からの手紙に書かれて有りました。その時には私も伯爵家へいらっしゃい、と書かれて有りましたが、勉強が大変で……とお断りしています。
そうして、ポルト様が卒業のための勉強と伯爵家の跡取りの勉強と、忙しくなったからでしょうか。
新たな噂が流れ始めたのです。
曰く。
ーーポルト様の恋人であるリンダ様は、最近別の殿方と親しい様子。
と。
まさか。
ポルト様と相思相愛なのに?
新入生にまで噂が届く程、ポルト様と仲睦まじいらしいのに?
この噂は、噂をしている先輩達も可笑しいと思っているのか、皆が半信半疑のようでした。そして、その噂は直ぐに消えました。
きっと間違いだったのでしょう。あまり広がらないうちに消えたのでしょうね。私の耳に入ったのは、嘘か真か判らない噂でも直ぐに耳にする先輩が話していたのを偶々聞いたからです。その先輩自体、「まぁ嘘だろうけど」と言う程でしたから。ポルト様のお耳にも入らなかったくらい早くに消えたようです。だって、その直ぐ後の噂は、相変わらずポルト様とリンダ様は仲睦まじい、というものでしたから。
私は、相変わらず、ポルト様と接触しないように昼休憩や放課後は慎重に行動していました。それだけ慎重に行動していたのに。
私は借りていた図書室の本をうっかり返しそびれていました。返却日を1日過ぎてしまっていたので慌てて図書室へ返却しようと、いつもは通らない場所を通って図書室へ行き、1日しか過ぎてなかったからか、あまり叱られる事なく返却が出来たことに安堵しました。その安堵感からか、行きと同じように通らない場所を通って寮の自室へ戻ろうとしていた時でした。
その話が耳に届きました。
「ねぇ、ルト。私、お父様から卒業したら結婚するように言われたの。多分、次の休暇にはお相手に会う事になるかも。どうしたらいいの?」
「リン……。本当なら君と結婚したい。だが、続いた冷害で領地の作物が育たなかったから、支援金目当てで婚約したんだ。その支援金が無ければ、我が伯爵領は……」
「そんなっ。でも私のお父様も冷害による被害が出ているって言われたわ。男爵家では持参金もたかが知れているし……」
「リン。婚約は決定?」
「いいえ。婚約者が決まった、と言われたのではなくて、相性を見て良ければ……という形よ」
「それなら、相性が悪かった事にしてくれ。そして、お父君にもう少しだけ待ってもらうように頼んで」
「それは、出来るけど……何故?」
「婚約者が卒業次第結婚するんだが、その結婚式が終わったらリンを愛妾として受け入れる」
「愛妾⁉︎ 結婚出来ないの⁉︎」
「待って。落ち着いて聞いて欲しい。初夜も行わない形だけの妻になってもらい、1年だけ我慢して。この国では1年間白い結婚なら離婚出来る。そうすれば、君が妻だ」
「素敵っ! 私、ルトと結婚出来るのね!」
「そうさ! リンがお父君を説得したら、僕も両親をなんとか説得するから。両親だって政略的な婚約者より、僕の幸せを願ってリンを認めてくれるはずだ!」
ーー確かにその通りですが……。随分と私の事を蔑ろにしていますね。私がポルト様の隣に並び立つためにどれだけ努力して来たのか、本当にこの方はご存知無いのですね……。
お声は忘れかけていましたが、仲睦まじく話す横顔は忘れもしない、私の婚約者・ポルト様です。という事は隣が恋人・リンダ様でしょう。
そして、私はポルト様の恐ろしく酷い計画を耳にしてしまいました。
ああ、この世に神様はいらっしゃらないのでしょうか。
仮にも正式な婚約者で有る私を蔑ろにするだけでなく、此処まで馬鹿にするのです。あまりにも酷いと嘆きたくなります。
同時に心の何処かに罅が入ったような音が聞こえた気がします。
私との婚約が領地の支援だと理解していて、私とは白い結婚をする、と恋人様に仰るポルト様。
ご理解していらっしゃるのでしょうか。
我が家の支援金で領地の建て直しに2年。それから5年の月日をかけて冷害に強い作物を生み出そう、と伯爵領では領民達が試しています。その新しい作物を作り出す費用も支援金として我が家から出ていると言うのに。
領地へ度々視察に訪れるポルト様がご存知無いはずが有りません。
それでもこのような酷い計画を立てる程に、私の扱いはどうでもいい、と思っていらっしゃるのですね。
そして、それだけ恋人様を想っていらっしゃるという事なのですね。
ーー私は、その場をそっと去りました。
去りながら、そこまで恋人様を想っていらっしゃる事を知った私の心から婚約者であるポルト様への信頼が消えていきます。
先程聞こえた気がした罅は、ポルト様への信頼を失った音かもしれません。
それなのに。
それなのに、残念ながら、私の心は未だポルト様を好きだと言うのです。
あの鮮やかな色彩がまだ胸に焼き付いているのです。
信頼を失ったというのに。
ああ、なんて醜い恋心なのでしょう。
いいえ、これはもう、執着心なのかもしれません。
ポルト様が好き、だと思い込んでいるだけの執着心。
それでも好きな自分を嘲笑してしまいます。
もしかしたら私は、これを恐れて、ポルト様を避けていたのかもしれません。
ポルト様の婚約者だと周囲に知られる事の恐ろしさも確かに有りました。けれど、ポルト様がきちんと私を婚約者として扱って下されば、その恐ろしさも乗り越えられたはずです。
つまり、私は……
ーーポルト様を信頼する気持ちが失せる事を恐れていたのでしょう。
だから、婚約者である事を知られたくなかったのだと思います。
ああ、なんて浅ましい。
これでは、私の事を蔑ろにしているポルト様と何も変わらない気がします。
ポルト様を信じられない自分になりたくなかったから……。
今ならば解ります。
虐められるかもしれない恐怖も、そしてそれ以上にそんな状況になっても私の事を庇ってくれない、ポルト様を見たくなかった。だから婚約者だと知られたくなかったのです。
私は……
どうしたいのでしょう。
解っているのは、それでもまだあの鮮やかな色彩が胸に焼き付いている、ということだけ。
自分の気持ちなのに、どうしたいのか。どうすればいいのか。さっぱり解りません。
***
あれからまた時が過ぎ、そろそろポルト様は卒業という時期に差し掛かりました。そんな時に私の元へ伯爵家から手紙が届いて、学園の休日に伯爵家へ赴きました。
いつもお義父様とお義母様と会っていた伯爵家のサロンではなく、応接室に通され、そこにはポルト様と何故か恋人のリンダ様がいらっしゃいました。
「モーラ、良く来てくれた!」
「ごめんなさいね、モーラ。忙しいのに。ああ、あなた、学園に入学してから随分とまた美しく成長したわね」
あからさまにご機嫌取りとしか思えないお義母様の発言に苦笑すると、何故かポルト様にジッと見られています。……私の事を忘れていたから、必死に思い出しているのでしょうか。
「それでお義父様、お義母様、どのようなご用件でしょうか」
静かに切り出せば、お二人は肩を震わせてから、リンダ様を睨みます。いえ、ポルト様も睨みました。さすがにご両親に睨まれてポルト様もリンダ様も顔色が悪くなっています。
「ごめんなさいね、モーラ。こんな事を言うのは心苦しいのだけど」
「この愚か者が、この阿婆擦れとの間に子が出来た、と言い出しおって……!」
子ども……。
とうとうそこまでの関係に発展されたのですか……。
さすがに私も、両手を繋いでいたら子どもが出来ました! なんてお話は信じていません。具体的な事は知らないですが、それでも手を繋げば出来るわけでは無いそうです。
恋愛小説に出てくる、所謂肉体関係という表現という事でしょう。
閨に関する教育は伯爵家からは未だ行わない、と言われていますので、知らないのです。尤も、結婚が近づいて来たなら、私の母がこっそり教えてあげる、とは言われましたが。
「父上、阿婆擦れだなんて、そんなっ」
ポルト様が必死に庇います。ああ、恋人様の事はそのように必死になって庇われるのですね。私の事はきっと庇わなかったはずです。それはそうです。だって、こうしてきちんとお会いするのは、これで2度目ですもの。
……こう考えると、婚約してから4年が経つというのに、とても虚しく思います。これが物理的に距離が有る、とか。年齢差が大きくて、とか。そんな理由ならばまだ納得出来ます。貴族の婚約とはそういうものだ、と伯爵家で貴族教育を受けて来て聞いてますから。でも、ポルト様とは学園で会える距離だったのに。会わなかったのです。虚しさしか感じません。
それにしても。子どもが出来たということは、私が結婚するよりも先に生まれてしまうわけですよね? 確か、280日前後で産まれるとか。妊娠が判るのは既に子どもが出来てから2ヶ月から3ヶ月が経つという事。卒業までおよそ1ヶ月。お腹が膨らむのでは無いでしょうか。
「阿婆擦れだろうがっ! 婚約者が居るお前と不貞を働いたのだからな!」
「僕達は愛し合っていて……! それに、政略的な婚約ではないですか!」
「その婚約でどれだけ我が伯爵家が助かっているのか解らんのか!」
「それはっ……」
そうです、我が家から出される支援金が伯爵家と伯爵領の領民を助けているのです。さすがにそれは覚えているようです。
「平民とはいえ、我が伯爵家に相応しい人になるよう、私はモーラを教育して来ました。あなたにも散々伝えたはずですよ、ポルト。正直、最初は平民が貴族の、伯爵家の妻など……と思う事も有りました。ですが、モーラはしっかり覚えて我が伯爵家の使用人達からも次期伯爵夫人として認められています。正式に認められた婚約者なのですよ」
「そんな……」
本当にポルト様は私の頑張りを何一つ知らないようで、とても虚しく思います。
そして何故か私は恋人様から睨まれています。何故でしょう。逆ではないでしょうか。というか恋人様が謝るべきですよね、ポルト様と共に。
様々な思いを飲み込んで、それでも私は事態を収束するために口を開かねばなりません。
「あの」
「ああ、モーラ! 怒るのは分かるわ。でもどうかこの婚約は続行して欲しいのよ!」
お義母様、まだ私、何も言ってませんけれど。
「ああそうだ! モーラ、済まないが怒りは堪えて欲しい! 今、君との婚約が解消されてしまえば領民達が苦労して……」
お義父様まで言い募りますが、私はため息をつきます。貴族は感情を抑えると教育されましたが、それでも出てしまったものは仕方ないのです。お義父様が私のため息に口を噤みました。
「お義父様、お義母様、婚約は解消しません。領民達が冷害に強い作物を作り出そうと努力している事は知っています。その支援に我が家の支援金は必要ですから。ご安心下さい」
そうです。
だって政略的なものですから。
ポルト様が恋人様にお話した通り、私とポルト様の婚約は政略でしか無いのです。
お義父様もお義母様も喜んでいます。……気持ちは解ります。でもそんなに喜ばれても、ポルト様と恋人様から睨まれ続けているのですが。
「それから、お子がいらっしゃるなら、親子を離れ離れにするのは心が痛みます。ポルト様と恋人様の事は学園中に広まる程、仲睦まじい恋人同士だと噂が流れております。お子が出来たのなら別れさせると学園の皆様からの印象は最悪でしょう。さすがに結婚式を挙げる事は無理ですが、ご一緒にさせてあげては如何でしょうか」
「なんで、アンタに上から目線で認められなきゃいけないのよ! 私とルトは愛し合っている恋人なのよ! アンタなんか名ばかりの婚約者じゃないの!」
これで私より年上なんて信じられません。しかも、生粋の貴族だなんて。感情を剥き出しでは無いですか。
「名ばかりでも正式な婚約者は私です。そして、ポルト様の伯爵家は先の冷害により、支援を望まれて我が家に婚約を頼んで来ました。私は望まれた婚約者なのです。そして伯爵家のご当主夫妻と使用人達からも認められています。立場はたとえ平民と言えど、私の方が恋人様より上です」
「なっ……」
もしかして平民が反論するなんて……と思われているのでしょうか。私は伯爵夫人になるために教育されていますから、きちんと反論しますよ?
「それに、結婚式は出来ないって、なんでそんな酷いことっ……」
「出来ないですよ。恋人様はご自分が浮気相手だとご理解出来ていらっしゃらないのでしょうか。正式な婚約者である私がいるのに、何故結婚式を挙げられると思われているのでしょう。この国は基本的に一夫一妻制。跡取りの問題で愛妾は認められていますが、正式な婚約者である私が結婚していないのに愛妾を迎えるなんてこれでも充分醜聞です。それを外に知られないように、これから伯爵夫妻は奔走されるはずです。それなのに愛妾と結婚式を挙げるなんて更なる醜聞でしかないのですが。何かおかしな事を言っていますか」
理路整然と話す私に、恋人様は顔を真っ赤にしていますが、何も言えないようです。ポルト様のご両親から望まれていないのは解っているみたいですから、これ以上醜態を晒せないのでしょう。
「ありがとう! ごめんなさいね、モーラ! この阿婆擦れと馬鹿息子は、あなたが卒業するまで離れに閉じ込めておくから!」
話が一段落したので、ご機嫌なお義母様がそのように仰っています。伯爵家の離れって手入れも何もしていないから廃屋になりかけているとか使用人達が話していたような。
そんなところに閉じ込めるんですか。なんだかんだで甘い処置をするかと思っていましたが、意外とお義母様はポルト様にも恋人様にもお怒りなのかもしれません。
とにかく、私はもう疲れたので学園に戻ることにしました。これ以上話すことは無いのですから。
***
更に時は過ぎ。色々と(恋人様のご実家と)揉めたようですが、ポルト様と恋人様は卒業後に伯爵家に入りました。瞬く間に時が過ぎて恋人様がご出産されましたが……。
「ポルト様のお子では無かったのですか」
お義母様から怒りを感じさせる手紙が届きました。ポルト様の夕陽のような赤い髪と柑橘類を思わせるオレンジの目ではなく。恋人様の実った小麦のような金色の髪と宝石のような青い目でもなく。
ーー黒い髪と太陽のような赤い目だそうです。
あらまぁ。
……そういえば、恋人様には噂が有りましたね。これ以上の醜聞は伯爵家と領民達に良くない、と判断した私は、お義母様に返信します。
恋人様には、ポルト様が学園不在の時に別のお相手が居たらしい、という噂が有った事を。誰なのかまでは分かりません、とも書いて返信しました。
ちなみにポルト様は、自分の子では無い事にショックを受けて今は放心していらっしゃるそうです。あらまぁ。
それから、私の手紙が切欠でポルト様は恋人様を罵り、躍起になってお相手を探しておられる……とお義母様から手紙が来ます。まぁ学園に在学中の時のお相手ならば、髪と目の色から直ぐに判明されるでしょう。でも、あの噂が本当だったならば……噂が直ぐに消えた事が逆に真実だったという事。
同時に、直ぐに消せるくらい力を持った方がお相手だったのではないでしょうか。
例えば、伯爵家より上の。
ポルト様の学年には、第五とはいえ王子殿下・公爵家子息が3人と侯爵家子息が2人いらっしゃったはずです。その中で黒い髪に赤い目の持ち主は……ズバリ第五王子殿下でしたわね。
もし、お相手がそうだったなら、寧ろ、噂が流れた事が不思議ですわね。何方がポルト様以外に親しいお相手が居る事を噂されたのやら……。いえ、考えるのはやめましょう。好奇心で破滅を招くのは愚かですわ。
多分、もうポルト様も恋人様のお相手に気付かれたでしょうね。そして文句も言えない相手だとご理解されたはず。どうなさるのかしら、ね。
そんな事を思っていた私に、お義母様が更に詳細をお知らせして来ました。こちらでは何も言えない相手だったこと。とはいえ、明確な証拠である子の存在に、高貴なお方は内密に慰謝料をお支払い頂いたこと。それで、高貴なお方との話し合いは手打ちとなったこと。このことは、口を噤むこと。
……ああ、私にも黙っておけ、という婉曲な物言いですか。言い触らすわけないです。命が惜しいですからね。
けれど、伯爵家としても不貞の子を跡取りには出来ない上に、ポルト様がお怒りのようで、恋人様とお子様は追い出されたそうです。あらまぁ。あれほど相思相愛でしたのに。それに子に罪は有りません。恋人様をお許しになって子を育てれば宜しかったのに。
恋人様は伯爵家を追い出されて、ご実家に帰られたようですが、高貴なお方の血を引く子を育てるのは、ご実家の男爵家には荷が重かったらしく、お子は孤児院に入れられたようです。……どこまで本当なのやら。まぁ好奇心は破滅を齎しますから、文面通り受け入れましょう。
それからポルト様は、伯爵夫妻から再教育を施されておられるようで、そこで手紙は終わっていました。
「再教育、ね。どこまで変われるかしら」
呟きながら自分の心と向き合います。残念なことに、こんな騒ぎになっても、私はポルト様が好きなようです。本当に呆れた恋心。どうしてこの恋心を捨てられないのでしょうか。いえ、最早執着心でしたね。捨てられれば良いのに……。
***
やがて私は卒業し、結婚式を挙げました。その初夜に、私は優しく微笑むポルト様を見ます。確かにまだ鮮やかな色彩が胸に焼き付き、ポルト様を見れば、鼓動が高鳴ります。好きなのでしょう。
一方で、信頼が失われている私の罅割れた心は相変わらず罅割れたまま。
「緊張している? 僕に任せてくれれば良いんだよ」
ポルト様が優しいですが、私は首を横に振ります。
「ポルト様、お話が有ります」
「なんだい? 結婚したのだから、何でも言っておくれ」
「では、白い結婚でお願いします」
「……は?」
驚いた表情のポルト様に私も驚きます。だって、貴方がそれを望んだのでは無いですか。
「ポルト様がお望みになられていましたよね? 学園在学中に、一度、ポルト様と恋人様をお見かけしました。その時、恋人様に婚約者が出来るやも……とのお話が有って、仰っていたでは有りませんか。私と結婚した日に恋人様をお連れし、私とは白い結婚で1年後に離婚したなら恋人様とご結婚する、と。白い結婚で離婚するのは妻から申し出るものですが、ポルト様ご自身でそれを望まれていましたよね? 恋人様はいらっしゃらないですが、ポルト様はそれを望まれているようですし、私もそう望んでいます」
ポルト様は私の話に顔面蒼白です。もしや、私が知らないからそれで良いとでも思われていたのでしょうか。いえ、私だって、ポルト様と白い結婚は大歓迎ですが。
「ま、待ってくれ。リンダとは別れたから、その話は忘れて欲しい」
「それは無理です。あのお話を耳にした時、私はポルト様を信じる気持ちに罅が入ったのですから」
「それはつまり、僕を好きでは無い、と?」
更に顔色が悪くなられています。何故でしょう?
「いいえ、好きな気持ちはまだ有ります。まるで執着のように。初めてお会いした時からずっと好きでした」
「では、何も問題ないだろう?」
私が好きだと告げると顔色が戻って来ましたが、何故でしょう。信頼は無いと言っているのに。
「問題は有ります。執着のように好きな気持ちが、残骸のようにこびりついていますけれど。あの時から私の心にポルト様を信じる気持ちは欠片も無いのです。割れたグラスに水を注いでも溢れるだけのように、私の罅割れた心はポルト様への信頼を失くしたままなのです。信頼出来ないのに、何故問題が無いのでしょう」
「それは……」
ポルト様が黙ってしまわれました。
「だが、君は僕の妻で」
「それはそうですが、ポルト様も私も白い結婚を望んでおります。新しい恋人様をお見付けして其方の方とご結婚されればよろしいのでは? 私は1年経ったら離婚して頂ければ充分です」
私は何もおかしな事は言っていないつもりです。お互いが望んでいるのですから。
「も、もう、君とやり直すこと、は……出来ないか?」
「ええと、やり直す、とは?」
「夫婦として」
「白い結婚をしたまま?」
「いや、その」
「私とポルト様は婚約してから、何回お会いしました? 何通手紙をやり取りしました? 何度言葉を交わしたでしょう? 挨拶は? 贈り物は? 学園に入学してからも挨拶をしましたか? お会いしていましたか? 昼食や放課後は? 学園中に噂が広まっていて婚約者探しも周囲が勝手に始めようとしていて、婚約者が悪者・邪魔者のように貶められ馬鹿にされ続けていた噂をご存知ですか? 幸いと言うべきか、私が婚約者だとは知られなかったですが、もし、知られていたなら苛められていたかもしれないし、婚約を無かった事にするよう、周囲から脅されていたかもしれません。ポルト様はそういったことをご存知のはずですが、まさか知らなかったと仰いますか? あれほど周囲に見せつけて、入学して1ヶ月で私の耳にも恋人様との噂が入る程の事をしておいて。
しかも、恋人様との間に子が出来た時の話し合いでは恋人様もポルト様も私に謝罪一つされませんでしたよね? 寧ろ睨まれていました。
何故、それで、やり直すなんて言葉が出て来るのかとても不思議です」
夫婦としてやり直すと仰られても。
私は溜め息をついて、婚約してからの事を尋ねる。一つ質問する毎にポルト様の顔色が悪くなっていく。
「す、済まない、これからはモーラの事をきちんと見て考えてモーラと話し合っていくから、だから」
「ごめんなさい、無理です」
私は溜め息をついて頭を下げた。下げた頭の上から息を飲む音が聞こえて私が顔を上げると、ポルト様は唇を噛んでいます。
「済まな、かった。謝って許されるとは、思っていない。だが、君と僕は夫婦だ。結婚をした。この結婚は政略的なもので」
「それならば大丈夫です。伯爵領の領民達が早い段階に冷害に強い作物を作り始めました。それが出来れば、お父様が出した支援金を返金して頂ける道筋は付いてます。お父様もさすがにポルト様と恋人様との一件はお怒りで。直ぐにでも婚約を破棄する、と息巻いておりましたが。伯爵領の領民達が冷害に強い作物を作っている最中でしたから。お止めしたのです」
「領民達の為ならばこの結婚は続行しなくてはならないだろう?」
「いいえ。領地視察をしていた筈なのに、ご存知有りませんか? 私とポルト様の婚約はポルト様が14歳。私が12歳で調い。2年後には冷害による被害分の支援金は賄われ、立て直しの基盤が出来ました。そこから5年の歳月を目処に冷害に強い作物を作る事となり。つまり、私が学園に入学してからは冷害に強い作物を作り出す事に、領民達は心血を注いでいました。そして、本日の結婚式直前。4年を過ぎ5年目に差し掛かりましたが、無事に冷害に強い作物が作り出せたそうです。
その話を耳にしたお父様は即座に婚約をポルト様側の有責で破棄する、と豪語されましたが。もう結婚式まで10日程でしたから。私がお父様に話して予定通りに結婚して、その後、ポルト様も私も望む白い結婚を1年通して離婚します、と。この事は伯爵夫妻……お義父様もお義母様もご存知で、私の両親と合意の上です。ポルト様にお話するのは私から、という事で、今、話しています。ご理解頂けますか」
私がこの結婚を無くしても問題無い事をお伝えすると、ポルト様は顔面蒼白どころか真っ白の顔色になってしまいました。
「つまり、もう、政略的な意味合いも、無い、と?」
「はい。ございません。結婚式直前だったので教会やら招待客やらに破談の知らせをする手間を考えれば、互いが望む白い結婚で円満に離婚する方が手間が無くて良いだろう、とポルト様以外は皆が納得した結婚です」
ポルト様は、とうとう夫婦の寝室のソファーに座っていたのに、そこから頽れてしまいました。余程体調が悪かったのかしら。
それなら長く話しているのも悪いですね。
「そんなわけで、1年後離婚するために、私は客間に行きます。最初から離婚すると決まりましたから、私の私物は全て伯爵夫人の部屋ではなく、客間に置いて有りますから、新しい奥様をお迎えしても新しい奥様は嫌な気持ちをしないで済むと思いますので。それでは」
私は全てを説明しきって、夫婦の寝室を出ます。これから1年間ですけど、此処で暮らしますので、気に入った客間で過ごすのです。
「ま、待ってくれ!」
「まだ……何か?」
背後からポルト様に声をかけられて私は首を捻ります。説明は終わったと思いましたけれど、何かご納得出来ない部分が有ったのでしょうか。
「じ、条件を出しても良いだろうか」
「条件? 離婚の? それは無理です。結婚前に当主同士で条件も出し合って納得したのですから」
「い、いや、そうではなく! 結婚続行の条件を!」
何故この結婚に拘るのでしょう? 私の事を何とも思っていないお方が、拘る理由が見当たりません。……もしや、恋人様がいらっしゃらない寂しさを私で紛らわせるつもりでしょうか。何にせよ、返事をする必要が有ります。
「結婚続行の条件? と言うと?」
「1年間、僕にモーラとの関係を築く時間を与えて欲しい」
「嫌です。長年、その機会は有りましたのに、放棄していたのはポルト様でしょう。何故、私が、ポルト様に機会を態々作ってあげないとならないのですか」
「それは……で、では、毎日、モーラと2人だけの時間を」
「遠慮します。私はこびりついたポルト様への好意をこの1年で消したいのですから。それよりも、他の女性に目を向けて私と離婚した後のお相手を見つけておくのが一番良いと思います」
「そんな……」
絶望した顔みたいですが、繰り返し言いますが、望んだのは貴方の方ですよ。これ以上、話をする気にもなれず。私は今度こそ、1年間過ごす事になる客間へと足を向けました。
結婚生活はポルト様のこと以外が全て、概ね順調でした。
ポルト様のことは……毎日毎日、私に手紙を書き、贈り物をし、会話を試みてきますが。そんなポルト様を放置して、私はこびりついた執着心をコントロールする日々。今更こんな事をされても……という気持ちになって来ている事が、なんだかとても嬉しいのです。
毎日ポルト様にお会いしているせいか、客観的な立場で私の言動を振り返ると、恋心に似た執着心が落ち着いて来ました。やっと私は、ポルト様への好意を思い出に変えられそうです。
ポルト様が交流を図ろうとして来ますが、私のポルト様への信頼はとうにゼロになっていますから。好意が無くなれば、もう私はポルト様の事はどうでもいいのです。
ああこれで円満な離婚が出来ます。
来る日、私は晴れ晴れとした顔と消え去った恋心でスッキリとした心持ちで、実家へと帰りました。
ポルト様は何故か涙を流していましたけれど、何故でしょうね?
(了)
お読み頂きまして、ありがとうございました。