八話 主観的かわいいの定義
「……えっ、と……。…………本当に、休まなくて大丈夫か?」
「……………だ、じょ、……で、ふ」
――あの後。俺に抱き留められる直前で、まるで見えない糸に釣られるマリオネットのようにビクンと跳ね起きたアルアリアさんは、それから程なくして正気を取り戻したものの、背筋を痛めて「うひあ!!?」と悶絶してへたり込むこととなった。
すかさず俺が治癒を施したから体調的には問題ないはずなんだけど、それでもなぜか彼女の顔色は優れない。
そういえばさっきみーちゃんが何か呟いてたな、何をそんなにショック受けてんだろ……と疑問に思って深堀りしようとしたところ、
『…………ご、……は……』
『え?』
『…………ご、はん、……いき、ま、しょう……!! いま、すぐ、に……!!!』
と、なぜか鬼気迫る――というより進退窮まって切羽詰まったようなお顔で熱烈に懇願されてしまったので、目まぐるしく変わる彼女の顔色を心配しながらも、自室を後にして。
そうして、無人の廊下を食堂へと向かって、二人と一匹が連れ立って歩いてる、現在。
一歩歩くごとにまるでスリップダメージを受ける女勇者のようにみるみる顔を青ざめさせ、脚の震えを大きくさせてとうとう壁に両手をつき、それでも大して重くもない身体を支えきれず突っ伏すように壁にもたれかかってしまった、疲労困憊のアルアリアさん。
まるで喘息の身の顧みずフルマラソンを完走した小鹿のような風情だが、まだ俺の部屋を出て十歩も歩いていない。どんだけ体力無いのこの子?
もはやみーちゃんを抱く気力すら無い様子で、それを察したみーちゃんは自らアルアリアさんの元を離れて俺の腕の中に収まっている。
みーちゃんってば、御主人様想いの良い子だなぁ――と思ってたんだけど、彼女の御主人様を見る目は完全にしらけきっていた。
「……なぁーお……(あんた……)」
「ゼひっ、………ひヒゅっ、…………な、ぁ、にっ、みー、ちゃ……?」
「………みゃう〜? (べっつに〜?)」
それきり、哀れな姿の御主人様に興味を失ったみーちゃんは、俺の腕の中でごろんと寝返りを打って「なぁ〜お♡」と俺に喉コリコリをせがんでくる。
マドモアゼルの御心のままにもふもふをこしょこしょしてたら、アルアリアさんがまるで家主の不貞を目撃した家政婦のごとく壁際からフード越しにこちらをガン見していた。
「―――――――――ずるい」
「え? ………あ、アリアちゃ――じゃなくって、アルアリアさんも、体調回復したら撫でさせてもらうといいよ」
「………………そっち、じゃ、………なくて……」
じゃあどっちやねん? と一瞬疑問に思ったけど、生まれたての小鹿より尚哀れを誘う彼女の姿を見れば考えるまでもなかった。
「……………あー、っと。……よければ、俺がアリアちゃ、じゃなくって、アルアリアさんも抱っこ――じゃねえや、おんぶしていこうか?」
「……………………………………ひぇぇ」
下心無しに純度百パーセントの親切心からの提案だったんだけど、しばし呆然としたアルアリアさんは、やがてまるで夜道で颯爽と裸マントとナニをたなびかせる変態紳士に行き逢ったかのごとく顔を真っ赤にしながら戦慄し、砕けそうな腰に鞭打って壁伝いにこちらから距離を取る。
その間、まるでモノホンの不審者でも見るような怯えきった目で見られてしまって、俺のクリスタルハートは密かに軋みを上げていた。
けれど、それを表に出すほど子供でもなければ初心でもない。俺は『まったく気にしてませんよ〜』とアピールすべくへらへら笑いながら軽く片手を振って見せた。
「ああ、いや、ちょっと言ってみただけだから。冗談、じょーだん」
――何が冗談だ。自分に都合の悪い反応が返ってきたからって、そんな卑怯な言葉でセクハラ紛いの行いを誤魔化すのか?
「……………えっ……」
「………………なぁう(……しょーねん……?)」
やっぱり俺渾身のセクハラジョークはなんもおもしろくなかったようで、アルアリアさんもみーちゃんもきょとんとしちゃってる。
ああ、やっぱり俺って女の子と楽しくおしゃべりするとか心底向いてないな。そもそも存在自体が産まれる前から煩悩まみれで下心アリアリの色欲魔な時点で、このゼノディアスに女の子と真摯に向き合って真っ当な恋心を育めなんて無理があるのだ。
いくら紳士の皮をかぶろうとしても、この身に宿る下劣で強烈な性欲は誤魔化せない。そもそも、それを誤魔化そうと思った時点で、俺は全然真摯じゃない。
そう、俺はまさに変態紳士。コートの如く身に纏った薄っぺらい外面の中身は、いつだってマッパでナニをブラブラさせているのだ。
「(――そんな穢らわしい俺が、こんなに純粋できれいなアリアちゃんのお耳やお目々をこれ以上汚すわけにはいかない。……食堂に案内したら、メイドさんか職員さんを捕まえてあとを頼んで、汚物は早々に消えるとするか……)……あのさ、アリアちゃん、じゃなくって、アルアリアさん。この後のことなんだけど――」
「――――――『アリア』」
「え……」
「………アリア、で、いい、です……。………さっきから、すごく、言いにくそう、な、ので。……あ、あるありあ、って、舌、からまっちゃい、そ、ですよ、ね……、うぇ、へへ……」
未だに、壁をベッド代わりにして寄りかかりながら。下賤の輩に割く余力なんてまったく残っていないはずのアルアリアさん――アリアちゃんは、息も絶え絶えになりながらも、人見知りを押して俺に笑いかけてくれた。
それは、すごくへったくそで、相変わらず卑屈にも見えかねないへらりとしたぎこちない微笑みだったけど。それでも、そこに込められた予想外の誠意と真心が、俺の心を覆いかけていた氷を溶かしていく。
「(―――――アリアちゃん、やっぱりかわいい……。天使……。見た目も心も、なにから何までマジ天使すぎる……尊い……)ああ、じゃあ、そう呼ばせてもらおうかな。ありがとね、アリアちゃん」
「ぅあああああ、あああ、あの、あのですねっ!! それでっ! あのっ、あなたぁ、たっ、の、おなまえ……」
「あ、ごめん。言ってなかったっけ? 俺、ゼノディアス。バルトフェンデルスっておうちの次男坊で、このアースベルム王立学園の一年生。……いや、あと何日かしたら二年生になるから、アリアちゃんのひとつ先輩ってことになるのかな?」
「………ぜの、あす、……ばるへ、……るむ?」
何もわかっていない様子で、こてんと首を、傾げてしまうアリアちゃん。ああ、いきなり初出の固有名詞多すぎたか。アリア呼びが許された嬉しさと、自分に興味を持ってもらえた喜びで思いっきり先走ってしまった。
浮かれポンチな心を押さえつけ、もうちょっと伝える情報の量を絞って再挑戦を図ろうとする俺だったが、それに先んじて、〈深淵の魔女〉による世界を爆発四散させかねない極大の核弾頭がブチ込まれてきた。
こてんと傾けていた首を、逆方向へこてんと傾けて、何の気無しにぽしょりと呟かれたその言葉。
「………ぜの、せんぱい?」
◆◇◆◇◆
悲劇の短パン事件を必死に見ないフリして記憶の奥底へと厳重に封じ込め、少年が自分に気を遣ってくれるのをいいことに、勢い任せに強引に話を反らしたアルアリア。
そのことへの重すぎる罪悪感と、そして歩くたびに生のふとももに擦れてどうあがいても意識せざるを得ないピーの感触にガリガリと精神力と体力を擦り下ろされ、部屋を出てから数歩も歩かぬうちにもはや壁の支えなしでは満足に立つことさえ覚束なくなってしまう。
もはや死の淵一歩手間であっぷあっぷと酸素を求めて喘ぐことしかできない彼女だったけれど、目の前に自分以上に『心が死にかけている』その人の姿を見つけて、思わず手を伸ばさずにはいられなかった。
(――穢らわしい俺が、こんなに純粋できれいなアリアちゃんのお耳やお目々をこれ以上汚すわけにはいかない。……食堂に案内したら、メイドさんか職員さんを捕まえてあとを頼んで、汚物は早々に消えるとするか……)
顔ではずっと、わたしを安心させようとして優しく笑ってくれているのに。彼の心の中には、ずっと身を引き裂かれるような暗い悲しみばかりが渦巻いていて。
こっそりと慣れない『回路』の同調率を調整して、どうにか彼の心の言葉として受信できたと思ったら、彼の心は自分の想像よりずっとずっと凍えきっていた。
どうしてこの人は、こんなにわたしのことを想ってくれるんだろう。
どうしてこの人は、それなのに自分自身のことは、こんなに傷付いてるのに蔑ろにしてしまうんだろう。
――触れたい、と思った。好ましいと思っているはずの相手にすらあっさり背を向けて、離れていこうとするこの男の子の、全てを諦めて力なく垂らされてしまった、寂しげな手に。
――触れさせてほしい、と希った。今にも壊れてしまいそうなほどに彼の心をぎりぎりと締め上げている、その呪縛めいた鋼鉄の【鎖】に。
きっと、わたしの手は――【それ】に、届く。
「……あのさ、アリアちゃん、じゃなくって、アルアリアさん。この後のことなんだけど……」
――だってこの人は、こんなにもわかりやすく、何度も何度も、わたしがその手を取るのを待っていてくれたのだから。
「………『アリア』」
「え……」
「………アリア、で、いい、です……。………さっきから、すごく、言いにくそう、な、ので。……あ、あるありあ、って、舌、からまっちゃい、そ、ですよ、ね……、うぇ、へへ……」
なんだか自分らしくもない大胆さだったなと今更ながらに気付いて、アルアリアはしどろもどろになりそうな口を必死に回して愛想笑いで取り繕う。
なんだか、とってもぽえみーで恥ずかしいことを考えた気がする。思わず顔がかあぁぁぁっと熱くなってしまって呼吸まで乱れてしまう始末だけれど、それでもアルアリアは『勇気出してよかったな』と心底思った。
(――――――ああ、やっぱり届いた)
〈深淵の魔女〉は、ルビーに輝く双眸でその光景を幻視する。
たかが根暗な小娘に、愛称で呼ぶことを許可されただけ。たったそれだけで、彼は自らの心臓を締め上げていた【鎖】をまるでマッチョが筋肉で服を破るが如く『ぱーん!!』と豪快に弾き飛ばし、おっと自重しなくっちゃと手遅れすぎる感じで粉々になってしまった鎖をいそいそと拾い集め、それを自分の心に巻きつけて『ふぅ、これで元通り』なんていい笑顔で額の汗を拭っているのだ。
「ああ、じゃあ、そう呼ばせてもらおうかな。ありがとね、アリアちゃん」
なんて、表面上はなんでもない風を装って爽やかな好青年を演出している彼だけど、その心の内でひたすら『アリアちゃん天使、尊い、マジ天使』と連呼しまくって脳味噌あっぱらぱーになっていることは回路経由で筒抜けである。
ひとのことをやたらと可愛いかわいいと褒めちぎる彼だけど。アルアリアからすれば、こんなに素直で不器用で頑張り屋さんでとってもゆかいでステキな彼のほうが、ずっとずっと、
(かわいい――――ハッ!!?)
「ぅあああああ、あああ、あの、あのですねっ!! それでっ! あのっ、あなたぁ、たっ、の、おなまえ……」
自分は今、成人済みのおのこを前にして一体何トチ狂った感想を思い浮かべとるのか。たかがむねぺったん芋娘の分際で一体何を勘違いして思い上がっているのだろう。こんなの失礼なんてものじゃない。もし彼がお貴族様とかだったら、一瞬で無礼討ちされてしまうほどの赦されざる大罪である――
一瞬でそんなネガティブ思考を突っ走らせたせいかは知らないけれど、アルアリアは保身のためにとてもスムーズ(当社比)に会話のキャッチボールを成立させて、これまで謎だった彼の正体を尋ねるという偉業を成し遂げることに成功した。
勿論、ちょっと考えればすぐに、彼が自分にひどいことなんてするわけないと確信できたけど。それに、考えるまでもなく、自分みたいな芋女にこんなに優しく接してくれる彼が、お貴族様だなんてことあるはずもないけれど。
「あ、ごめん。言ってなかったっけ? 俺、ゼノディアス。バルトフェンデルスっておうちの次男坊で、このアースベルム王立学園の一年生。……いや、あと何日かしたら二年生になるから、アリアちゃんのひとつ先輩ってことになるのかな?」
「………ぜの、あす、……ばるへ、……るむ?」
アルアリアは思った。新手の詠唱魔術かな?
「……みぎぇっ(げえっ!!?バルトフェンデルス……!!!?)」
彼の腕の中で大人しくまるまってたみーちゃんが、詠唱の一部にぴくんと反応を示し、上げかけた悲鳴を押し殺してそのまま絶句する。ますます意味がわからない。腐っても魔女のはしくれである自分に理解できなくて、従魔のみーちゃんにだけわかる呪文?
(なんだろ……? もしかして、今のって猫語?? この人のことだし、それあり得る――)
(ち、ちちちょっと何とぼけたこと言ってんのよアリア!!? バルトフェンデルスよ!? 『あの』バルトフェンデルス!! あんた、なんで野良猫だったあたしより常識無いわけ!!?)
(……ばると、ふぇ、でるんでる……、…………うぅ、あるありあ並みに、言いにくい……)
(そんなんどうでもいいわこのおバカっ!!! ととととにかく、あんたうかつなこと言うんじゃないわよ、もう何もかも手遅れだけどせめてこれ以上は罪を重ねないでぇ!!)
(………????)
みーちゃんに念話で怒涛の勢いで念押しされるも、ますます疑問が深まるばかりで何の答えも得られない。
余計なことを言わない。罪を重ねない。それはアルアリアの希望に合致する要望だったので、ひとまず失礼のないようにきちんと彼との会話を継続しようと試みる。
理解できない設問にぶち当たった時、便利なのは文章の最初と最後をピックアップすることだ。序論と結論だけ押さえておけば、本論は自ずと見えてくるものである。要するに、古文書の解読法と似たようなものだ。
なのでアルアリアは、彼が発した猫語(仮)の始めと終わりだけをサンプル抽出してみた。ええと、確か――。
「…………『ぜの』、『せんぱい』?」