一話 アイドルの堕天
男子寮内。元娯楽室にして、現在は大聖女一派支部となっている、貴婦人の私室のような格調高い一室にて。
適当な椅子に腰かけて、気だるげにテーブルに頬杖を突きながら、片手でてきとーにナイフでのダーツ遊びを愉しんでいた【聖天八翼】第一位〈熾天〉のオルレイア。
彼女は、小鳥型の《式神》を通して愚妹の恍惚の笑みなどという見たくもないものを見てしまい、思わず嫌そうな顔をする。
直後、『じゃあ見るな』とばかりに、愚妹によって片手間で式神を消し飛ばされて。それによって、対となっていた受信側の呪符が机上でボッと消失してしまうのを横目で確認しながら、オルレイアは眉間の皺を深くした。
「……ふん。相変わらず、忌々しい愚妹だ」
――本当に、忌々しい。
ひとが丹精込めて作った呪具を、毎度のようにあっさりと台無しにされたことが……ではなく。
敬愛する主人が十年近くかけても成し遂げられなかった偉業の成就に向かって、冷静且つ合理的に着々と王手をかけつつあるナマイキな愚妹が、心底忌々しくてたまらない。
中でも特に忌々しいのが、あの寒気すらしてくるような罪悪感に塗れた儚い少女の演技だ。なぁーにが『我は泥棒猫なのです……』だ、空々しい。本当に悪いと思っていたなら最初からゼノディアスと〈深淵〉の仲に割って入りなどしないし、そもそも愚妹は他人に自らの弱点をさらけ出すようなキャラではない。
もし愚妹が弱味を見せるようなことがあれば、それは必ず、より大きな罠へと繋げるための狡猾な布石である。
今回で言えば、同情を誘うことでゼノディアスからの親密度がぐっと強まる所までは最低でも織り込み済みのはず。更に深読みするならば、いずれは親密を通り越して依存――、というより『共依存』まで持っていくことが愚妹の本当の狙いなのかもしれない。そしてそれは、既に半ば実現しつつある。
愛されたいのに、来る者から逃げ。愛したいのに、去る者を追えない。そんな難儀な性質のゼノディアスに、愛していい理由や愛されていい理由を与えるためには、共依存という関係は中々の最適解。むしろ、実際見せられてみれば、これ以外に手は無いように思える。
……問題は、どうも愚妹がそれを『ゼノディアスを堕とすための合理的な一手』としてやってる風ではなく、あの蕩け落ちんばかりの恍惚の笑みからして、わりと本心からズブズブに共依存しかかっている様子なことだが……。
「…………私は知らん。勝手にしろ」
ゼノディアスをこちらの仲間に引き入れることができるのならば、この際つがいとなるのがレティシアでなくとも、ひとまずは及第点。レティシアの膜も健在なことであるし、オルレイアは突き放すようなことを言いながらも、どこか肩の荷が下りたような気持ちで体の力を抜いた。
そして、再び手慰みのダーツ遊びへと戻っていく。
人差し指と中指のみで軽く挟んだナイフを、カード投げの要領で軽く振りかぶり、手首のスナップを利かせて矢のように射出。狙い過たず部屋の壁へと直で当たったそれは、壁紙の向こうの石材に弾かれてきぃんと甲高い音を立てながらあらぬ方向へ飛んでしまい――、
そして、的よろしく壁際に大の字で立っていた『青年』の、震える太腿を浅く切りつける。
「―――――っ」
「おっと、すまない。またしくじったか。私はどうも単純な力業は不得手でね、なにせこの身は十代の非力な少女そのものなのでな。君も男なら、寛大な心で許すがいい」
「…………ああ、許そう」
「黙れ、貴様に許されねばならない謂れは無い。あと口調が偉そうだ、やり直し」
「……………………嫌だ――ぐっ」
反抗的な目で睨み付けて来ながら拒絶の言葉を紡ぎかけた青年――シュルナイゼは、しかし、今度はきちんと壁に突き立ったナイフに腕を浅く切りつけられて言葉と悲鳴を飲み込む。
ナイフを投げ終わった姿勢のまま、オルレイアは淀み切った瞳でシュルナイゼを漫然と眺めた。
主人を誑かしたクソゲス野郎に対する一切の興味の色が見いだせない、オルレイアの双眸。憤怒どころか、対象に対するありとあらゆる感情を喪失したそれは、もはや『人間』を見る目をしていなかった。
「なあ、君は何を勘違いしている? そこでちょっと他の凡百とは異なる気骨に溢れる所を見せれば、私が『ほほう』と唸って君の評価を改めるとでも思ったのか?
それとも、君が誑し込んだレティシア様が見かねて『もうやめて』と割って来てくれるのを見越して、わざと私を怒らせようとしたのか?」
「………………違、っ」
口答えしようとしたシュルナイゼは、今度は股下――ナニのすぐ下にナイフを刺され、思わず玉をひゅんと縮み上がらせながら息を飲む。
二人の間でおろおろしながらまさに今『もうやめて!!』と割って入る寸前だったレティシアも、機先を制される形で思わず無言となりながら涙を堪えておろおろ、おろおろ。
更にどうでもいいギャラリーとして、頭真っ白にしながら意味も無く笑って立ち尽くす田舎娘リコッタ、顔面蒼白にしながら目を見開いて固まる男装令嬢オーウェン、通算死亡歴二回の経歴を誇り菩薩の面持ちで蛮行を見守る赤獅子レオリウスを横に置いて、オルレイアは一同をぐるりと見回してからレティシア以外に言い放つ。
「私の言うことにいちいち反発するな。うっかり殺したくなってしまうだろう? これでも私は、それだけはすまいと主人の処女膜に誓っている身だ。その誓いを違えさせるようなことはしないでくれ」
「っ、だから、処女って言わないで!! なんでわたくしの膜にそんなにこだわるの!!?」
膜……とギャラリー達が思わずその単語を頭の中で反芻させる中、レティシアに詰め寄られたオルレイアは非常にめんどくさそうにしながらも律儀に相手をしてあげた。
「逆に聞きましょう。仮にもし、貴方の崇拝するゼノディアス様が、ぽっと出の頭がゆるくて股も緩い出来損ないの娼婦みたいな女に童貞をおいしくいただかれちゃったとしましょう。それ、赦せますか?」
「…………………、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆる」
「ちなみに、『ここで赦すと言わないと婚約者様がまた虐められちゃうから、今だけは自分の気持ちを曲げて赦すと言おう』などという姑息な謀りはやめてくださいね。それは私の忠義に対する裏切りであり、何より、ゼノディアス様に対する冒涜です。それを口にした時、私は再び貴方や八翼達の敵とならねばなりません。
……まあ、貴方がもし本当にゼノディアス様をそこらの娼婦にくれてやるようなことを是とするのであれば、もはやあの愚妹すらも、もう私に賛同する道を選ぶでしょうけれど」
「…………ゆるい、のは、よくないですわよねぇ、頭も、お股も……う、うふふ……。……………あ、あの、それはそれとして、イルマまで貴女に賛同するというのは、さすがに、ないんじゃ……? だってほら、貴女達って、いっつも仲悪いし……。だから、そんな見え見えの脅しで、主君をたばかっちゃうの、あんまりよくないかなぁって、わたくし思いますの……うふふ、うふふ……」
「私達の諍いの大本は、貴方への敬愛を競い、貴方からの親愛を奪い合っていたがゆえです。従って、貴方が敬愛に値しない存在へ堕ち、親愛を望む相手が貴方以外へと移れば、必然私と『イルマ』が争う理由も無くなります。そして、弑逆を企てた私は言うに及ばず、八翼最大の忠臣であるはずのイルマでさえも、今はもう貴方の元を離れて新たな宿り木へと居付きつつある。
貴方を聖女を超えし大聖女たらしめていた『八枚の翼』は、長年貴方に顧みられることがなかったために、とっくの昔にぼろぼろなのです。本国で起きたクーデターが良い証拠でしょう?」
「………そんな……」
現実をまざまざと突き付けられて、レティシアは言葉を失って項垂れるしかなかった。
ショックを受けた様子のレティシアだが、顔を蒼白にすることも、脳味噌をショートさせて気絶することもない。なぜなら、それは昨日オルレイアとイルマに二人がかりで現状を散々説明された際に幾度となく経験済みだからだ。
それによって耐性を得た――得てしまった今のレティシアは、全てを忘れてブッ倒れることもできずに、無慈悲すぎる現実さんにサンドバッグよろしく滅多打ちにされ続けるしかない。
そんな無残な姿のレティシアを見て、サンドバッグどころかダーツの的状態で全身から血の筋を流しているはずのシュルナイゼが、思わず男気に駆られて声を上げた。
――それが出来たのは、先程までシュルナイゼを封殺していたオルレイアが、敢えて邪魔をしなかったからだとも気付かずに。
「………ふざけんな……、ふざけんなよ、〈熾天〉のナントカさんよ……!! そんなにレティの元から離れたいなら、勝手にそうすればだけだろう!? なんでいちいち弑逆だのクーデターだのやらかさなくちゃいけないんだよ!!! そんなの、レティの都合も気持ちも何も考えてない、忠義の押し売りだろうが!!! そんなのは、忠臣じゃなくて、自己中心って言うんだ!!!!」
「ほほう」
なんか上手い事言ったシュルナイゼに今度こそ感嘆の声を漏らしたオルレイアは、けれど、シュルナイゼ自身の評価は地の底を突き抜けた奈落の底へと下げに下げながら解説してやった。
「なるほど、確かに私達は自分勝手にレティシア様に忠義を捧げているだけの有難迷惑な連中に過ぎない。
だが。捧げられた忠心を良いように使い倒して、自らがいたずらに拡大させた過去の戦火や戦死者達のことさえ何もかも忘れたように『大聖女』としての責務の全てを配下に押し付け、そうして自分はただの罪無き小娘のように振る舞いながら安穏と生きているのが今日のレティシア様だ。
貴様とて、イルマが愛情を盾に取られて奴隷労働を強いられていることには義憤を燃やしていたではないか。それなのに、私や他の八翼達がイルマと同じような扱いを受けていたことには、怒ってはくれないのか?」
「………だって、お前らは、レティのことを考えていない」
「考えていたからこそ、これまではずっと陰から支え続けて来たのだが。しかし、そうやって信じて耐え続けて来た結果が、敬愛する主がぽっと出のクソ野郎に奪われて処女を捧げ堕天することでは、あまりの報われなさにうっかり弑逆へ走っても仕方がないとは思わないか? なあクソ野郎」
「………いや、俺処女捧げてもらってない……」
「なら、今後も絶対にその予定は無いのだな?」
「………………………………し、知らねぇ」
明確な答えを避けて逃げを打ったシュルナイゼに、オルレイアはチッと舌打ちを漏らし、レティシアは「あ、あら……?」と期待とも残念ともとれない曖昧な声を上げてそわそわした様子を見せる。
リコッタ及びオーウェンとレオリウスは、自分たちの知らない間にシュルナイゼとレティシアの仲が桃色めいてきていることに驚愕し、詳しい話がものすごく聞きたくなってレティシア以上にそわそわ、そわそわ。
なんか話が脱線してしまい、むしろそっちに皆が興味津々なことに白けたオルレイアは、何もかもどうでもよくなったように溜息を吐きながら、片手で弄んでいた新たなナイフを手品のように消失させた。
それを見届けて安堵の溜息と弛緩した空気に満ちる室内に、だがオルレイアは再び皆を緊張の渦へと巻きこむ一石を投じた。
「では、余興はこれくらいにして本題に入りましょう」
「余興……いや、なんでもない」
余興で無駄に全身を切り刻まれたシュルナイゼが思わず声を漏らしたが、オルレイアにじろりと睨まれて目を逸らす。
そんなシュルナイゼに『すすっ……』とさりげない感じで近寄って行ってさりげなく【治癒の奇跡】を発動させようとしたレティシアは、怖い眼のオルレイアとうっかり目が合って全身をびくんと跳ねさせながらも――。
「…………だ、だめ、かしら?」
「…………はぁ」
オルレイアの諦念の溜息を消極的な了承と受け取ったようで、「ありがとう、オルレイア!!」と満面の笑みを浮かべたレティシアは、大手を振ってシュルナイゼの治療を開始した。
そんなレティシアを、にやにや笑いのギャラリーと、戸惑いながらもはにかみ笑いを浮かべたシュルナイゼが見守る姿に、オルレイアはより一層深々と溜息を吐いた。
――――これは、もうダメだな。
みんなに見られていることに気付いて、満面の笑みを仏頂面で覆い直しながらも、ほっぺの赤さとひくひく笑いが隠せていないレティシア。そんな主人のしあわせそうな姿を見て、オルレイアは自分の中に有ったたいせつだったはずの何かが吹っ切れたのを感じた。
自分が慕っていたはずの『大聖女』レティシア=ミリスティアという偶像は、もうこの世のどこにも居ないのだ。
わざわざ殺すまでもなく、とっくの昔に死んでいた。そう悟ったオルレイアは、もうただの小娘にしか見えない主人だった少女を――力無い微笑みと共に眺め、口にするはずだった本題を飲み込んだ。
我ら八翼の主人は、もういない。……ならば、全ての後始末もまた、我ら八翼の手で行うべきだろう。
「…………レティシア様」
「なぁに、オルレイア? まさか貴女まで冷やかす気? さすがにそろそろ怒りますわよ」
「いえ……」
決定的な決別の言葉を口にしようとしたオルレイアは、元・主人の少女がほっぺたを膨らませている愛らしい姿に思わず笑み崩れてしまい、またしても自分の言いたかったことを飲み込んだ。
――まあ、『言う』のは、ひとまずクーデターの件が片付いてからでも、べつに構わない……か?
土壇場で日和るというよろしくない悪癖が顔を覗かせてしまい、結果、オルレイアは結局まともに議論すべき話を何一つできないままでその場の面々に解散を告げた。




