六話前 唐突な愛は時にてろる
その日。昨夜の疲れから思いの外遅い目覚めとなってしまったレティシアは、鈍い重みに苛まれる頭を片手で支えてふらふらしながら、眠気覚ましとも寝る前の散歩ともつかない形で、王都の街並みを行くあてもなく散策していた。
時刻は既に正午近く。こんな時間まで寝過ごしたというのに、まだまだ睡眠時間も休息も足りていないように思える。
それもそもはず、なにせ昨夜は思いの外興が乗ってしまい、『彼』の部屋で一晩中盛り上がってしまったのだから。
彼――バルトフェンデルス公爵家『長男』、シュルナイゼその人と。
つまりは、レティシアの表向きの婚約者である男との、熱い一夜。事の最中にはすっかりテンションが上がっていたレティシアだが、その負債を今こうして治癒不能の生理的な頭の重みという形で支払わされていると、もはや胸中には後悔しか浮かんでこない。
まったく。なんで自分はあんな男と、
(一晩中、討論大会なんてしてしまったのかしら……)
もう何度目になるかもわからない溜息を吐き、とうとうレティシアは、手近な塀に手を当てて身体を支えながら立ち止まってしまった。
この国に留学に来て早々に、弱みを握って手下とした、公爵家嫡男シュルナイゼ。
あのおとうと様の兄なだけあって、常識外れの出来事に対する順応性が異様に高く、ろくな説明もないままに卑劣な手段でレティシアの婚約者にさせられておきながら『まあそんなこともあるか』で済ませてしまう、中々の剛の者。
おとうと様ほどではないものの、シュルナイゼ本人も能力的にはわりと優秀であり、こと政治や人間関係上の交渉等においては、そういった方面にだけは難のあるおとうと様やレティシアらでは足元にも及ばない才を発揮する。
使えそうだと思って買った捨て値の安物が、思いの他便利でだったので、いつしか愛用品になっていた。
レティシアにとってのシュルナイゼとは、なんとなくそういう、無くなってもいいけど実際無いとそれはそれで困るといった、そんな感じの微妙な立ち位置になっていた。
微妙で――、何より、絶妙だった。
おとうと様の邪魔になりたくなくて歯噛みしながら遠巻きに見守っていた時、気付けばあの男はいつも近くにいてサンドバッグになってくれた。
拳で殴られ、言葉で殴られ、無慈悲で理不尽なそれらに『お前いい加減にしろよ!!?』と全力で抗議しながらも、結局は何回だって殴られに来て、いつまで経ってもそばにいる。
こいつマゾなのかとドン引きしつつも、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、『中々骨の有る男だ』なんて、いつからか評価を改めていたように思う。
八翼ではない。異能者でもない。貴族としての爵位すら持ち合わせていない。それでもシュルナイゼは、レティシアにとって八翼にも匹敵するたいせつな存在になっていた。
もし仮に、おとうと様とシュルナイゼのどちらかしか選べないのなら、迷うことなくおとうと様を選ぶ。
だが、それ以外の何かと――、たとえば、古き盟友である八翼のみんなと、シュルナイゼのどちらかしか選べないとなった時。
レティシアはもう、迷うことなくシュルナイゼを切り捨てることができる自信がなかった。
(こんなことを言ったら、八翼のみんなは怒りますわよね……)
当然だ。なぜ、長年尽くして来てくれたみんなが、ぽっと出の男と比較され、あまつさえ天秤にかけられなくてはならないのか。そこは八翼一択でなければならないし、八翼のみんなはいつだってレティシアのみを選んでくれていた。
それなのに、自分はこの体たらく。あまりに呆れ果てすぎて、もはや乾いた笑いしか出て来ない。
「…………シュルナイゼ、……様」
なんとなく、彼の名前を口にしてみた。ついでになんとなく、様とか付けちゃったりもしてみた。するとなんだか胸の奥がむずむずしてきちゃって、レティシアは更なる自己嫌悪の海に沈む。
昨夜の彼との討論大会を思い出す。最初はおとうと様に関するあれやこれやをお互いに持論推論織り交ぜて神様談義してたはずなのに、気付けば全く関係の無い最近の話題や過去の話などに脱線し、最終的にはむしろそっちの方がメインに成り果てていた。
最近靴が臭くてヘコむ?
――そんなの、適当な消臭剤でも振りかけておきなさいな、くだらない。……でも、そんなに臭いますか? わたくしは、言われるまで全く気にしたこともなかったのですけど……。
どれ、では少々失礼して――臭っ!!!? 鼻が、鼻がぁああああああ!!! 今すぐ、今すぐ洗いますわよ、靴もあなたの足も擦り切れるほどに洗って差し上げますわ!!!!
わたくし、最近ちょっと枝毛が減ったと思いません?
――そんなとこまでいちいち見るかよですか、そうですかそうですか。でもそのわりにはわたくしのお胸や股はよく見ていらっしゃるようですわよねぇぇ???
おとうと様以外の他の男なら即抹殺案件ですが、優しいわたくしは精々半殺しに留めておいてあげましょう……あら、何処に行かれるかしら、婚約者様? さあさあ、早くベッドに横におなりなさいな、このわたくしがめいっぱい『新技』を試してさしあげますわぁ、うふふふふふふふふ♡
あら、貴男、意外と肩が凝っていらっしゃるのですわね?
――はあ、大体お前のせいだ、ですか? 自信を持って全部と言い切らないあたり、やっぱり惰弱な男ですわね。……え、さすがに全部ではない? あら、そう? まさか、まかり間違っておとうと様のせいだなどと言い出しは……。
え、最近普通に領地運営の手伝いがキツい……? えっ、いきなりそんな真面目な話をされても困ります……。えっ、いきなりそんな困らせるつもりはなかったとか普通に謝られても困ります……。あの、お、お疲れ様ですわね? あのぉ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、普通にまっさーじをして差し上げますわ……。
―――あら? あなた、股間に何か入れてますの? ………………えっ??? で、でも、あなたはまだ不能者のままのはず……です、わよ、ね?
「あわわわわわわわわわわわわわわわ」
思い出したくない記憶まで思い出してしまい、レティシアは脳から煙を吹いて完全に壁にもたれかかってしまった。
――油断していた。なんで気付かなかったのだろう。
いや、理由はわかる。何事も如才なくこなしてみせ、真っ当な手段で人心を掌握する術を心得ており、何よりいつもレティシアの傍に寄り添っていて心を覗かれまくっていた、そんなシュルナイゼ。
魔眼頼りでしか他人の心を理解できないレティシアが、才能と経験と努力の人であるシュルナイゼの『本気の隠し事』など、見抜けるはずはない。
救いは、彼の隠したがっていたものが、まだ恋情には至っていなかったことか。そこまで行ってたら流石に『困る』が、少なくとも今は性欲止まりであるらしい。
……なら、まあ。…………今は、いいか。今はまだ、慌てふためき話を逸らしにかかる彼を、寛大な心で見逃して、おとなしく誘導に乗ってあげよう。
だって、正直、悪い気はしないし――。
「………………気の迷いです」
あの時感じた思いを一刀両断し、けれど断ち切るまでに結構な間が空いたことでまたもや自己嫌悪スパイラルに陥りながら、それでもレティシアはここに立ち止まってはいけないという強迫観念のようなものに見舞われて、ゾンビのようにふらりと歩き出した。
ああ、世界が憎い。太陽の日差しが憎い。街の喧噪が憎い。道をゆく人ごみが憎い。そして、さっきから無視し続けているのに延々とナンパしてくる有象無象の男共が憎い。
――ああ。こんな奴ら、全員爆発四散してしまえばいいのに。
思わずそんなことを願ってしまった、レティシアの眼前で。
彼女の望み通り、突如何の前触れも無く、人の群れが爆発四散して血煙を撒き散らした。




