五話 恋より早く
突如として湧いてきた黒い光に包まれて、驚きのあまり思わずぺたんと尻もちをついてしまったアルアリア。
そんな彼女の、年頃の娘らしいクッション性に恵まれていない貧相なおしりを、下草と土ではなく、より柔らかな感触がぽふりと包み込む。頭の上からずり落ちてしまったみーちゃんも、アルアリアと同じく予想外に柔らかいそれに包まれて着地を失敗し「みびゃっ」と悲鳴を上げた。
「……………?」
思わずぎゅっと目を閉じてしまっていたアルアリアは、おそるおそる、そ〜っと目を開ける。
――そこは、どこかの室内だった。
広くもなく、狭くもなく、ベッドや本棚やクローゼット、それにちょっとした水場とかがある、なんだかすごく普通の部屋。その中の、窓からの柔らかい光が差し込む壁際のベッドに、アルアリアとみーちゃんはそれぞれお尻と全身を埋めていた。
餅つきのせいで、俄に舞ったほこりが、日差しをうけて仄かにきらきらと光る。そのどこか幻想的な光景をなんとなく目で追っていたアルアリアは、やがて幻想とは程遠いリアルな生活感に満ちた室内の様子に気付いて身を固くした。
アルアリアとナーヴェが住むあの家とは違い、足の踏み場もないほど散らかっている、ということは断じて無い。だが、眼前に広がるのは、そこに確かに人が住んでいると実感できる生活の痕跡の数々。
ハンガーではなく椅子の背もたれにひっかけられた男物のコートだとか、机の上に出しっぱなしの本や書きかけのノートだとか、台所で乾かし中の僅かな食器類だとか。
そして。ベッドの枕元、先程尻もちをついてしまった時に思わず手をついた地点。そこに畳んで置いてあったであろう、今はアルアリアのせいでぐちゃっとなってしまった、男物の服だとか。
――ここ、きっと、さっきの男の人の部屋だ――。
「…………く、かん、てんい……」
【空間転移】。あの黒い光に包まれる間際、あの少年は確かにそう呟いていた。空間転移の魔術については、長いこと夢物語のように語られていたはずだが、確か近年になってナントカという凄い人が現代に蘇らせたと、祖母の話で聞いたことがある。
そしてそのナントカさんというのは、かつて祖母がちょっとした手ほどきをしたらしい、あの『異性化薬作って妹ごっこした、あほでおばかなわっぱさん』のことなのだとも。
「………ねーこ、……ねこねこ、ねっこ、ねこー……」
あの少年が木登りしながらうっきうきで口ずさんでいた、あまりにもあほでおばかっぽい謎のお猫様テーマソング。妙に耳に残るそれを反芻しながら、アルアリアは先程の少年が行使してみせた幾つかの魔術について――あまりもさらっと繰り出された、ありえない秘術についてを思い返す。
今、アルアリアの中で点と点が繋がり、何かの答えが導き出されようとしていた。
が、それより先に、アルアリアはハッとあることに気付く。
「ああっ、ぐちゃぐちゃにしちゃった……!?」
考え事をする時の癖で、思わずせっせと手を動かしていた、ワーカーホリック魔女アルアリア。今は別に薬の調合をしていたわけでもないのに、何をもみもみと薬草のごとく両手で揉み込んでいたのかというと、ちょうどいい所にあった『短パン』であった。
妙に生地が薄くて触り心地が良く、伸縮性に富んだその『短パン』。そこに刻んでしまったシワを、丹念に、せっせと伸ばし、光にかざして「傷んで、ないよね……?」と不安そうに独りごちる。
そんな彼女を見上げて、いつの間にか部屋の中をお散歩していたらしいみーちゃんが絶句していた。
「み、みぃ……(ちょっ、あんた、それ……)」
「えっ、せ、セーフだよ!? しわ、なってないし! 傷なんてつけてないし、ほらっ、ほらっ!!」
「み〜。みぃ……。みっ(見せるな見せるな。あ〜もう、この子ったらほんっと世間知らず……。このちじょめ)」
「いきなりえんざいっ!!?」
唐突に痴女呼ばわりされて素っ頓狂な声で抗議するアルアリア。
事実に反して全力で心外と言わんばかりのその反応の理由は、自らの手にしている布の正体を知らないからというのもあるが、そもそも異性という概念をよく実感したことのない彼女の中では、『男性の服』=『男性が直に肌に身に付けるもの』という初歩的すぎる関連付けすら成されていなかった。
自分の着るものにすら頓着しない彼女にとって、服とはただの布であり、或いはただの魔道具生成用素材のひとつでしかない。
それを契約経由で理解したみーちゃんは、これはからかっても面白くないな、ありあってばつまんない女ね、などと一方的にひどい評価を下しつつ、ちっちゃな鼻でくいっと自らの後方を指し示す。
「みゃー。むぁー?(残り香からして、ここはあの子の私室で間違いないみたいね。あっちにお風呂もあったから、お言葉に甘えてとりあえず入る?)」
「え、でも……、………さすがに、それは……いろいろともんだいがですね……」
確かに、お風呂に入ってていいと言われたし、それに部屋のものは好きにしていいと言われたのだから、おそらく勝手にお湯や着替えを借りたところであの少年が怒り出すということはないだろう。
むしろ、おしっこでさえ内心で異様に欲しがっていた彼の様子からして、アルアリアが浸かった後の残り湯や、使った着替えなんかをありがたがって喜ぶかもしれない。
でも、だからこそ、アルアリアは躊躇する。
「だって、あの人、へんたいだよ……? そりゃあ、表向きはすごくいい人だったけど、心の中はすっっっっっっっっごくヘンタイさんだったよ……?」
「むにぃ。みー? にゃあ(いや、そりゃあたしも最初は流石にドン引きしちゃったけどさぁ……。でも、ありあも今言ったじゃん。あの少年がヘンタイなのは、心の中だけだったんだよ? 実際にありあにえっちなことしたわけじゃないし、それに内心でだってきちんと欲望をせーぶできてた)」
「それは、そう、だけど……」
「みゃー、なぅー(あーあ、助けようとした相手にヒミツの性癖を勝手に覗かれたあげく、それでヘンタイ呼ばわりされて親切心を台無しにされちゃう少年かわいそー)」
煽るように鼻を鳴らされて、さすがのアリアも少しむっとしながら思わず売り言葉に買い言葉で応戦する。
「っ、で、でも、勝手にあの人と『回路』繋いで心の声聞いちゃったの、みーちゃんじゃん! わたしじゃないもん!」
「みゃーん。ふみぃ。なぅ〜?(そーね。あくまでもあの子は、あたしに対してだけ抱っことか噛み噛みとか心で意思疎通したりっていうのを許可してたのよね。なのにありあったら、あたしを通して勝手にしょーねんの体温を堪能したり指にちゅーしたり、勝手に心の声を盗み聞きしちゃったのよね。もしこれがあの子にバレたら、はたしてありあは許してもあえるかなぁぁぁ〜?)」
「………そ、れは、……それは、えっと、たぶん、……ゆ、る、して、もらえ………る、の、では? だってほら、あの人、わたしのこと……、…………か、かわいい、って……」
「……うがーう?(……あんた今、わりと最低なこと言ってるけど、自覚ある?)」
かわいいから、許してもらえるかもしれない。好かれてるから、ひどいことをしても大丈夫だろう。そんなふうに、好意に付け込んで厚意を踏みにじることを是とするのかと、みーちゃんは冷たい目でアルアリアに問いかける。
アルアリアは「うぅっ」と泣きそうな声を小さく漏らすと、零れそうになった涙をぐっと堪えてすんすんと鼻を鳴らす。本当は自分だって、あの優しい男の子にそんな恩を仇で返すような真似がしたいわけじゃない。
否。たとえ恩がなかったとしても、アルアリアは、あの少年を悲しませることはしたくなかった。嫌われたくない、という後ろ向きな気持ちではなく、あの少年が優しく笑っている姿が、あまりにも魅力的だったから。
アルアリアは悩んだ。みーちゃんにじっと見つめられて居心地の悪い思いをしながら、けれど簡単に流されて結論を出すのはあの人に失礼だと考えて、或る系に属する星々の運行が触媒に与える霊的作用と其れに付随する一部薬草の魔力変換効率変動係数について考える時並みに熟考する。
そこに至るまでの経緯が全て、策士みーちゃんの手の平で踊らされてのものだとわかっていても。それでもアルアリアは、きちんと自分で考え抜いて、納得しながらその結論を出した。
「……おふろ。はいろっ、か、な」
「にゃぁん? なぁお、なおっ、なぁ?(はーん? 後であの『ヘンタイさん』にありあの残り湯とか堪能されちゃうかもしれないけど、いいんだぁ? いやいや、あんな空間転移なんて使えるすげーヘンタイさんのことだから、もしかしたら直接お風呂の中に跳んでくるかもよ~? 事故とかなんとか言ったりしてさ~あ~?)」
わざとらしくにやにや笑いながら心にもないことを並べ立てて煽ってくるみーちゃんに、アルアリアはちょっとばかりむっとしながらも、わずかな憤りと多大な羞恥をぐっとこらえてぽしょぽしょと告げる。
「………………それで、も、……いい、もん」
「にゃう?(ふーん、いいんだぁ?)」
「………………むしろ、…………それ、ちょっと、こうふん、する? か、も」
「……………………ぎゅえっ(えっ)」
アルアリアはドン引きしているみーちゃんの様子に気付かぬまま、自分の中でもまだ咀嚼しきれていないその想いをそっと噛み締めて、脳裏にあの少年の姿を思い浮かべる。
みーちゃんを通して初めて見た時の感想は、ただ単純に、かっこいい人だな、というものだった。しかしそんな第一印象のアドバンテージは、その後の彼の残念すぎるアホっぽい行動の数々のせいで早々に擦り減り消し飛んでいる。
そうして砕かれたイケメンへの幻想は、その後二度と再建されることはなく。けれどその代わりに、彼の仕草の端々に滲み出る心遣いの数々は、アルアリアの中の彼を『ただのかっこいい人』ではなく、『やさしくてあったかい人』として新たに育て上げていた。
……残念なことに、そんな彼のやさしさやあたたかさの大半は、みーちゃんを通じて感じたものであって、アルアリアが直接受け取ったものではないけれど。けれど、そのことを残念と思うくらいには、アルアリアは既にあの少年に対して特別な感情を抱いていた。
それは、けっして恋ではない。いくら世間知らずで異性との交流が皆無だったアルアリアとはいえ、かっこいい男の子にちょっと優しくされただけで惚れてしまうような、そんな単純なメンタルは流石にしていない。
そもそも、人間関係の経験値があまりに乏しすぎるせいで、まだ『異性に恋をする』などという高度な心理を理解できるほどに情緒面が育っていなかった。
そんなアルアリアだから、今あの男の子に抱くのは、あくまでも自らの祖母に向けるのに近しい親愛の情でしかない。それも、大好きな祖母に対して抱く感情に比べたら、ほんの小指の先っちょくらいのものだ。
――ただし。そこに、無自覚で未成熟ながらも、確かな『異性への興味』の感情がプラスされている。
恋より先に、性欲の目覚め、到来。
「………ど、どうしよ、みーちゃん……、よく考えると、わたし、本当は、あの人のこと、あんまりへんたいだと思ってないかも……。おしっこ、もったいないって言われて、『汚いのに、なんで』とは思ったけど、えっちだなぁ、とか、嫌だなぁとか、そういうの、あんまり考えなかったと思う……」
ヘンタイ呼ばわりしていたのは、あくまで自分の持つ知識や常識と擦り合わせてそう言っていただけであって、アルアリア個人としては、特段生理的嫌悪を抱いていたわけではない。
むしろ、改めて考えてみると、先ほど自分でも理由がわからないまま口にしていたように、あの少年に自らの老廃物を見られたり求められるということに対して――、なんだか、背徳感にも似た謎の興奮を覚えてしまう。
「…………どうしよう、みーちゃん……。わたし、実は、へんたいさんだったのかもしれない、です……」
「………ぐにゃぁ~……なぁふ……(……まー、それならそれでいーんでないのぉ? しょーじき、もー付き合ってられへんわぁ……)」
「みーちゃん!!?」
絶対の信頼を置いていた相棒にいきなり見捨てられてしまって、アルアリアは半泣きになりながら、みーちゃんのぐったりとしたやる気の無い身体を持ち上げゆさゆさと揺さぶる。
わざわざ自分が嫌な役を演じてまで仲を取り成そうとしていたのに、そんなのは全くの徒労で余計なお世話だったのだと知ってしまったみーちゃんの疲労感はハンパない。
女の子のおしっこに興奮する男の子と、男の子におしっこ見られて興奮する女の子。傍から見ればただの愛称バッチリの変態バカップルなので、ほっといても勝手によろしくやるんじゃないの? と。
むしろ、横から余計な口出しをしない方が、変に羞恥心や常識に捕らわれずに仲を深めていけるかもしれない。
完膚なきまでに完全なる無駄骨を折ったことを悟ったみーちゃんは、泣いて縋ってくるアルアリアに無言でぐんにゃりと抱かれたまま、お風呂に運ばれてあの手この手でご機嫌取りをされることになるのだった。