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二話裏 灰テンション魔女

 日付が変更されて既に数刻ばかり経過した、女子寮のとある一室にて。


 今年度の新入生としてそこの主となってから、約一週間強が経過し、すっかり荷ほどきも終え尽くして中々居心地の良い空間を整え終えたその少女。


 まるで実家の私室をごそっと移植してきたかのように、ナマの薬草や加工途中の雑多な素材類、薬研やら試験管やら蒸留器やらのごちゃごちゃした各種錬金器具、それにお気に入りの古文書や考察途中のメモの山なんかをどさどさと配置し、そうして心の落ち着く草の香りや紙の匂いに囲まれて存分に心を落ち着かせながら――。


 ランプの灯りに揺らめき照らし出される室内の『惨状』の中央。

 やけに甘ったるい香りの漂う、世にもおぞましい色合いのおどろおどろしいスープを大鍋でこぽこぽと煮込みつつ。本日でめでたく徹夜三日目を迎えた不健康な彼女――〈深淵の魔女〉アルアリアは、被りっぱなしのフードの奥で重苦しい溜息を長々と吐いた。


 そして、鍋をお玉でかきまぜる手をそのままに、死んだ目でぽつりと告げる。


「…………なんで、人の心を操れる薬のレシピ、どこにも残ってないんだろ……」


「にゃんにゃん。みぃ(そりゃ、あんたが他人を不要だと思って、そっち方面の『遺産』を速攻切り捨てたからでしょ。てか、薬でどうにかしようとすんなし)」


 アルアリアと違って適度にうたた寝を挟みながら、寝起きの眠そうな顔を前足でこしこし擦って、投げやりに返答してくる黒猫のみーちゃん。


 くぁっと欠伸をかいて背伸びをするみーちゃんを一切瞳に映さず、或いは彼女のごもっともすぎる指摘から逃避するようにして、アルアリアは眼前の鍋の中にただただ一匙の希望だけを夢見てひたすら錬成を続ける。


 だが、いつまで経ってもそこには絶望色のできそこないスープしか出来上がらなかった。試行回数は既に三桁の大台に乗るも、またもや成功の糸口すら見えないままに大失敗で終わる。


「……………………」


 無言。もはや泣き言を漏らす気力も体力も失って、それでも最後の力を振り絞って手近なメモ用紙にバツ印を引こうとしたアルアリアは、けれど鍋の混ぜ過ぎで腕と指が震えて言うことをきかず、しばし格闘した末に断念して力無くその場に崩れ落ちた。


 冷たい床にぺたんとお尻をつき、頭すらをも土下座のように項垂れさせながら、アルアリアはここにはいない『彼』の顔をぼんやりと思い浮かべる。


 甘ぁい微笑みといやらしい笑みが似合う、とっても優しくて、とってもえっちな彼。




 ――けれど。今アルアリアの瞳に映る彼は、何もかもどうでもよさそうな、或いは気まずくて全部投げ出したいと思っているような、悲しみと苦みだけを舌に載せた顔をしていた。




「…………ちゅー、したかったな」


 うっかり聞いてしまった心の声として、それに冗談交じりに見せかけた本音の肉声として。アルアリアは、彼が折に触れて何度も何度もちゅーはおろか、それ以上の肉体的な接触や体液の交換を熱望し、切望していたことを知っている。


 正直、最初は戸惑った。その後も、結構ドン引きしたりとかしてた。けれど、彼の向けてくるえっちな欲望のあれこれを、心底嫌だと思ったことは――、たぶん、彼と出逢ってから今の今まで、ただの一度も無い。


 数日前の、昼間。えっちな彼にまたしても言われた、なんだかやけくそ気味な『ちゅーを贈ってもいいでしょうか?』という言葉。




 ――――はい、喜んで。


 


 などと人間嫌いで人見知りで上がり症の自分が即答できるわけもなく、うっかり周囲のどうでもいい人達の確認などという無駄な工程を挟んでいるうちに、みーちゃんが帰って来てうやむやになってしまった。


 助かった。――そう思ったのは、ただの一瞬のこと。


 窮地を脱したことの安堵も、会いたかった相棒が帰ってきたことの嬉しさも、その後に『彼』が――ぜのせんぱいが浮かべた表情と態度の前には紙切れの如く吹き飛んだ。


 二度と取り返しのつかない、果てしない後悔に塗り替えられて。


「…………もう、ちゅー、しようって、言ってもらえないのかな……」


 全てを投げ出したような顔で、何もかもを諦めたような態度で、今日はもう帰る、と。他を当たってくれ、と。そんなふうに、言葉でも態度でもすっかり逃げたがっていた、ぜのせんぱい。


 それでも、きっと、彼はまだ期待していたはずなのだ。


 彼の振ってくれた色んな話に対して気の利いた相槌のひとつも一切返せず、彼には愛想笑いしか見せないのにみーちゃんのことはこれ見よがしに笑顔で迎えて、何度目になるかわからないちゅーのお願いすらをも曖昧な態度でまたしてもスルーしてしまう。

 そんなつまらなくて酷くてどうしようもない女に、それでも、彼はまだ期待してくれていたはずなのだ。


 だって、彼は、席を立ちあがっても、まだ待ってくれていた。――ちゅーでなくてもいい。ただの言葉でも、或いは彼の袖をほんの少し摘まむだけでも、きっと彼の心を引き留めることはできた。


 しかし、いつまで経ってもたったそれすらもできなかった自分に、見かねたみーちゃんがとうとうタイムアップを言い渡した。


「…………ちゅー、できなかった、なぁ……」


 幸い、他ならぬみーちゃんのおかげで、彼との縁はまだ繋がっている。明日――というか既に今日だが、とにかく【魔女機関】からの二人揃っての呼び出しということで、彼と一緒にお出かけすることになっているのだ。


 ――チャンスだった。


 アルアリアの頑張りの結果ではなく、魔女機関という個人では抗えない絶対的な組織からの圧力によるものとはいえ、まだ彼との繋がりは切れていない。


 ここが勝負所だ。むしろここしか戦える場所が残されていない。

 ほんの少しのことで傷つき離れていってしまうはずの彼は、それでも歩み寄ってくれた果てに結局数えきれないほどの致命傷を負わされてしまって、その大量の血を流させた酷い女の元からすっかり心が離れてしまっているはず。


 ここでキメなければ、もう二度と会ってすらもらえない気がする。

 なにせ、毎日同じ時刻・同じ場所で『彼を待ち続けて』、こっちがいつもそこにいることを実際彼は何度も遠くから視認していたのに、網を張り始めてから彼がこっちに声をかけてきてくれたのは、偶然を装って相談事を持ち掛けて来たあのたった一回こっきり。

 その邂逅があんな気まずさを煮詰めた内容で、しかも最後は、自分の浅はかな行動の煽りを受けて【魔女機関】なんていう世間一般から見たら厄介事の権化みたいな相手への強制出頭という債務まで負わされてしまったのだ。


 これで、まだ前みたいに関わってもらえるなどと考える方がどうかしている。


 だから、ここでキメるのだ。





 ――〈深淵の魔女〉謹製の、とっても危ないおクスリを!!!





 勿論、彼にではなく、自分自身に対して、である。


「するぞ……。わたしはぜったい、ぜのせんぱいと、人前でも臆せず『ちゅー』するのだ……!! 人見知りも、あがり症も、わたしの頭脳とおクスリで捻じ伏せてやる……!!! そして世界よ、わたしの本気と、本気のちゅーをとくと見るがいいわ!!!! ふ、フハッ、ふは、ふはは、ふはははははははははハハァ――――!!!!!」


 今一度自分を奮い立たせ、その勢いのままに両の脚でしかと立ち上がって、再び謎スープとのあくなき死闘へと全力で身を投じる神風少女アルアリア。

 徹夜三日目を数える彼女の使い物にならなくなったご自慢の頭脳からは、当初の『ぜのせんぱいと仲直りしたいな』という至って普通のささやかな願いなどは全力でビンタされて跡形もなく消し飛んでいた。


 そんな風に、既に危ないおクスリをキメているかのように逝った目つきで高笑いしながら完全ラリってるご主人様を見て、みーちゃんは『もう好きにして……』とばかりに呆れきって傍観を決め込み眠りの中へと落ちてゆく。

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