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終章聖天 陰謀渦中で輝く我

 簀巻きにされたまま粛々と〈晴嵐〉の肩に担がれ、俄かに吹き荒れる暴風に乗って晴嵐諸共夜空の彼方へと消えて行った〈紅蓮〉。


 その様を大樹の影の『中』から見送った黒髪黒着物の少女イルマは、『荷物』と共に沼から浮き上がるようにどろりと地表へ姿を現し、持ち前の白い肌を淡い月光に輝かせる。


「なるほど、〈紅蓮〉はやはり二重間諜の類ですか。……いえ、本人的には間諜の意識はおろか忠誠心すら無さそうですから、やはりこれは〈無名〉がうまいこと彼女を動かしているのでしょうね」


【魔女機関】臨時総帥・エルエスタ。――通称、〈無名〉。

 名前以外、年齢も容姿も経歴も能力も一切不明。いくら調べても主だった経歴も戦果も無いにも関わらず、そうやって自身は決して表舞台には姿を現さないままに、晴嵐を筆頭に並み居る〈力有る魔女〉達を顎で使って世界のパワーバランスを見事に調整してみせている、間違いなくこの世界随一の狸女。

 彼女を調べようとして掴める情報といえば、ただの成り行きで総帥に祭り上げられただけの哀れな生贄だの、二つ名持ちですらないどころかそこらの魔女より貧弱だの、晴嵐に酔い潰されて王都の下町で泣きながらゲーしてただの、どう考えてもこちらをおちょくって嘲笑っているようにしか思えない愚にも付かない欺瞞情報ばかり。


 出来る諜報員のイルマちゃんは、決してそんな見え見えのブラフに引っかかったりなどしないのだ!!


「フッ……。我ってば、やっぱり超有能……! これはもう、お姉ちゃんのおぱんつのみならず、き、ききき、きっ、きききキッスとか貰えちゃう日も近いのでは……!!? なんちゃって、なんちゃって!! ぐふふふふふふふ♡♡♡」


「がはっ、が、はぁっ!!?」


「おっと、めんご」


 妄想著しいイルマちゃんにノリでばっしばっし叩かれて喘ぐその『荷物』は、イルマ配下の【羽】の一人である肉塊であった。


 ――肉塊。彼は、既に人として保つべき原型を留めていなかった。


 陰や裏といった概念を司る【異能】を持つイルマによって身体の表裏を入れ替えられてしまった彼は、生々しく瑞々しい肉と臓器を夜風に晒しながら、陸揚げされた魚のように剥き出しの心臓をびくんびくんと跳ねさせる。


 そんな見るも無残な姿の彼だが、血は流れておらず、外見の印象に反して今すぐ死んだりどうこうという様子も無い。なんなら、慣れてしまえばそのまま二足歩行で歩き出してしまえそうですらある。


 だが、それをした時、彼はきっと人間の人間たる尊厳の悉くを失ってしまうだろう。


 彼は、まだ人間でいたかった。たとえ、痛みすら与えられず、逆に自由すらをも与えられている現状においても、イルマの傍から逃げ出そうとしないのは、つまりはそういうことだった。


 生殺与奪を握られているどころではない。彼が人間としての在りし日の自分を取り戻すためには、全身全霊でこの幼い少女に媚び諂って、どうにかして元の姿に戻してもらうしかないのだ。


 ――ただし、彼が『彼』であるために必要だった股間のイチモツだけは、既にごっそり切除されてしまった後なのだが。


「いや、だって見たくないですし。そこらのゴミカス男のナニなんてナマで見るだけでも絶対嫌なのに、裏側なんて死んでも見たくないですし。普通にキモいし超激キモです。そりゃ真っ先に消し飛ばして当然ってものでしょう?」


「……もぁ、もぁあ、もぁああ……」


 あまりにもあんまりなことを言うイルマに、彼は心の底から屈服して心底同意しながら感涙と共に賛辞を口にした。ただし、彼は既に涙も言葉もまともに出せない身だったが。


 しかし彼の恭順の意思は過たずイルマへと届き、彼女に実に満足そうな笑顔を浮かべさせることに成功した。


「そうでしょう、そうでしょう? 我ってば貞淑な女ですので、初めて見たナニが最後に見たナニであってほしいのですよ。なので、おにーちゃん以外の男のナニなんて、この世からみんな消し飛べばいいのになって、我はとっても思うんです!!」


「もぉあ! もぉあ!! もぉもぉぁあっ!!!」


「ほうほう、あなたも中々わかってるじゃないですかぁ! それに思いの外その身体にも馴染んできたようですし、いっそそのままの姿で一生を過ごすという手も――」


「もぁあああああああああ!!!?」


「はっはっは、じょーく! いっつぶらっくじょーく! 我ってば陰の眷属ですのでね、隙あらば世のカス共を恐怖のどん底に叩き落さなくてはならない業を背負っているのですよ!」


「もぉぁぁ…………」


 彼の心は、もうどこまでもすっかりぽっきりと折られ尽くしていた。

 このどこまで本気だかわからないブラックジョーク好きの少女に、玉を取られ、命を握られ、あっちへこっちへ振り回されて、いつ元に戻してもらえるのかも、そもそも本当に戻してもらえるのかもわからないまま、この少女の気が済むまで手の平でころころ転がされ続けてわんわん可愛く吠えることしかできないのだ。


「いえ、可愛くはありません。なにちょっと調子に乗ってるんですか、図々しい」


「もぉぁぁぁ」


「うんうん、きちんと謝れる子は我も好きですよ! ほんのちょっとだけ命拾いしましたね、裏切り者」


「――――――――――」


 どっくん。彼の剥き出しの心臓が、イルマがさらっと放った言葉によって爆発せんほどに大きく飛び跳ね、一転して生命反応を失ったかのように凍り付いた。


 彼から命の火を奪い、溶けない氷の中に沈めた下手人は、けれど特に何の罪悪感も感慨も浮かんでいない眼で彼を見下ろし無慈悲に告げた。


「でもね。我って、一度自分の手を傷つけたナイフは使わないことにしてるんです。だって、縁起悪くないです? いくら血を拭って綺麗にして、鞘を付けて慎重に取り扱っても、既に我は傷つけられた後なんです。我、もう穢されちゃったの……。うっうっ、痛かったよぅ……血がいっぱい出たよぅ……」


「もぉぁああああ、もぉあああああああ!!!」


 ――いけない。これはいけない。まずい。この流れは不味い……ッ!!!


 彼は全力で土下座した。ぬちゃりと肉を引きずり、ぐにゅりと広がるようにして全力で五体を地に投げた。もう形振りなど構っていられない。そもそも既に原型を留めていない身だ、たとえどれだけ無様な姿を晒そうともそんなのもうどうでもいい。


 彼は、助かりたかった。ただただ助かりたかった。しかしそれすらも叶えてもらえないというのなら、それならばせめて最期の瞬間くらいは人間として迎えたかった。


 けれど、嗚呼。これまでの、確かに積み重ねて来た短くはない人生の全てを投げ打って、自分に与えられたものも掴んできたものも一切合切をかなぐり捨てて、たったひとつの望みだけを希っているというのに。




 もう、それは叶わないのだ。




「――二重間諜。まさか、奇しくも〈無明〉と同じ手を使ってくるとは、なんと小癪な。おかげですっかり『魔女機関の内ゲバ』だなんて思い込まされてしまったではないですか!

 いくら肩書の上では我より上位の第一位とは言え、我の子飼いを勝手に寝取って、あること無いこと吹き込まないでほしいものですね、ぷんぷん!!」


 そんな風に、『彼』を通してここにはいない誰かに向かって怒る彼女の眼に、もう『彼』は映っていなかった。


 否。正確には、彼女の眼には既に、彼は生き物として映っていなかった。


 闇の【異能】を称えた光の灯らぬ双眸に見据えられ、彼は己という存在が永遠の終わりを告げることを悟った。


「ま、有能な我はこうしてきちんと自分の足と目で情報と証拠を揃えて、『あなた』の不穏な動きにも気付いちゃったわけなんですけどね。それはそれとして、レティシア様の言いつけを破って【機関】に干渉し、我らを欺いて裏であれこれしようとしていたのは、やっぱりいただけません。


 ――なので、そのうち殺しに行きますね? ねぇ、『姉様』」


 呪詛返し、というものがある。


 ここにはいない誰かに向かって語りかけるイルマの台詞の途中で、どこまでもあっさりと昏き闇に精神を喰われて魂の死を迎えた彼。その儚く散った魂の残骸を生贄に捧げ、彼の死をトリガーとして発動したその強力無比な《呪詛》は、眼前のイルマに向かって怒涛の如く襲い掛かり――





「はうす」





 そんな、飼い犬を小屋に帰すかのような気の抜ける台詞に迎え撃たれて、ここにはいない『姉様』の元へと元気良く駆け出して行った。

姉様大ピンチ。

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