十三話 子猫母猫
拾われた直後に名付けられた時にしか本名で呼んでもらえず、それ以降は誰からも『みーちゃん』としか呼んでもらえない、ちょっと哀れな子猫の女の子。
手近な民家の影に隠れて顔を覗かせていた彼女は、自分の眼前で起きたことがまるで理解できず、ただただ呆然としていた。
――嘘でしょう?
一目見た時から、バケモノみたいな少年だな、とは思っていた。仮にも二つ名持ちの魔女であるご主人様よりも、より高度な技能によって、より濃密な魔力をその身の裡に押し留めてみせていた、彼。
だが、ご主人様には少々特殊な事情があるため、まさかこの少年が本当に〈力有る魔女〉すら凌駕する存在だなんて、そんなのは思ってもいなかったのだ。
そう。今、ただ瞑目して佇んでいただけの彼によって、生存すら赦されずに自害を強要された哀れな女は、多少の違和感はあれど、それでも確かに力有る魔女と呼ばれる存在であった。
そのことは、他ならぬ力有る魔女を主人に戴く従魔であるみーちゃんだからこそ、同朋特有の魂の共鳴によってこの上なく明確に理解できる。
力有る魔女と、そして、大量の血の臭い。
山頂の大樹の上でその二つを揃って嗅ぎつけてしまったみーちゃんは、必然的に最悪の事態が起きていることを想定して――、そして、何の迷いも無くこの『少年』にそのことを伝えた。
自らのご主人様に、ではなく。真っ先に、このゼノディアスという少年に。
場合によっては、というよりほぼ確実に、ただいたずらに死体をひとつ増やすだけに終わったはずの、自分の身勝手で浅慮な行動。
それなのに、その判断に今の今まで一切の疑問を抱いていなかった自分に気付いて、みーちゃんは今更ながらに納得した。
ああ、あたしは最初からわかってたんだ。
――このしょーねんに感じる絶大なる安心感は、完全に『ばっちゃ』と同格だ。
晴嵐の魔女と呼ばれ、この世界で知らぬ者はいないほどの歴史的偉人にして圧倒的強者。そんなばっちゃと同じ独特の空気を、このしょーねんもまた極々自然に纏っている。あまりに自然過ぎて、今の今までまったく違和感なんて感じてすらいなかった程だ。
存在自体が魔術と呼ばれる魔女の、体現者。鼻息ひとつで人一人消し飛ばすばっちゃと、そこに立っているだけで相手を自害に追い込むしょーねん。どちらも危険度においてどっこいどっこいである。
けれど、このしょーねんがばっちゃと一番似ているのは、たぶんそこではない。
「……………………」
無言。髪色を『白』から黒へと戻し、ようやく目を開いた少年は、ただただ無言で、つい先ほどまで言葉を交わしていたはずの女性の亡骸を何の感慨もなく見下ろしていた。
それは完全に、ゴミを見る目付きだった。
事実、きっと彼の眼には生ゴミ程度にしか映ってないのだろう。
なにせ、今朝親し気に話して笑い合って交流したばかりの大勢の村人たちの悉くが、今はすっかり血だらけの冷たい肉塊となってそこかしこに転がっている中を、ここまで平然と歩いてこれてしまった彼だ。
殺された村人達に対する執着心も伺えなければ、村人達を殺した犯人に対する義憤すらも見受けられない。
それでもこうして仇を討ったのは、おそらく、『真っ当な人間ならそうするから』という、もしかしたらその程度の理由でしかないのかもしれない。
何の感慨も浮かんでいない彼の双眸を見て、みーちゃんはぶるりと身震いし、思わずぽろぽろと涙を零した。
――ああ。どうして彼は、こんなにも壊れてしまったのだろう。
歪んでいる、とは感じていた。けれど、何をどうやったら、三百年の時を生き、数十万数百万の人が散っていく戦場を幾度も経験したばっちゃと同等レベルにまで、破綻しきった倫理観を抱く少年が出来上がるのか。
わからなかった。
けれど、それを怖いと思うのではなく、わかりたいと強く願った。
だってきっと、今の自分は、もし死んでしまったら彼に涙を流してもらえるくらいには、彼にとって『身内』であるはずだから。
「……みぃ(ねえ、しょーねん)」
気付けばみーちゃんは、物陰からとことこと歩み出て、しょーねんのすぐ足元から彼の顔を見上げていた。
生ゴミから『身内』へと視線を移したしょーねんは――、ちょっと戸惑ったように目線を泳がせると、ばつが悪そうに何事かを口にしようとして、けれど結局何の言葉も発さずに閉じてしまう。
――違うのよ、違うの、しょーねん。
「みぃ、みう、みぃ、みぃ……(悲しくないなら、それでいいのよ。怒れないなら、それでもいいの。あたしは、あなたがちゃんと誰かを愛することができるひとだって、わかってるから。だから、猫のあたしにまで『人間らしく』取り繕った顔なんてしないで?)」
「…………みーちゃんが、超優しい……。なにこれ、みーちゃんってば、もしかして俺のママなの……?」
「みゃうっ!(今だけママでもいいわよ、ぼーや!)」
「…………ありがと、ママン……」
冗談なんだか本気なんだかわからない呼称を口にしながら、大勢の死体を前にしても動じなかった少年は、ここにきてようやく一筋のあたたかな涙を見せてくれた。




