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二話 伏魔殿

 ほんの一週間前まで、侯爵家令息〈赤獅子〉レオリウスを旗頭に、彼の一派に属する貴族子弟達が集い、退廃的ながらも緩やかな安寧が紫煙のごとく満ちていた、男子寮の一角にある娯楽サロンの一室。


 だが今、そこにかつての住人達の姿は無く。部屋の主も、名としても実としてもレオリウスではなくなって。

 今では、室内に漂う空気も、或いは物理的な内装の隅々に至るまでもが、まるで貴婦人の私室のように品も質も良い、明るく甘やかなものへと様変わりしていた。


「……まったく、変われば変わるものだな。ここがあのむさ苦しくて男臭かったなんちゃって落語者共の溜まり場だったとは、到底思えん」


 そう言って、かつてレオリウス専用だったはずの豪華なソファーに腰掛けて辺りを見渡しているのは、登記上のこの部屋の現借用主である、公爵家嫡男・シュルナイゼ=バルトフェンデルス。


 感慨深げに溜息をつく彼の後ろでは、揃いのアンティーク机と椅子の側に佇み、優雅な仕草で紅茶を『淹れている』この部屋の真の主・レティシア=ミリスティアの姿があった。


「そうでしょう、そうでしょう。なにせ、うちのイルマが見つけてきたリフォーム業者の匠の手によるものですからね。仕上がりが完璧でないわけがありません!」


 レティシア渾身のドヤ顔である。ソファーの背もたれに片腕引っ掛けて振り返ったシュルナイゼは、親バカかよと言いたくなるのをぐっと堪えて、レティシアが淹れたばかりの紅茶のカップに手を伸ばし、そして即座に『小手ェ!!!』みたいにティーポットの底で打ち落とされた。


「痛っっってぇな!!? 何しやがる!?」


「それはこっちの台詞ですわ。あなた何勝手にひとの紅茶を横取りしようとしていますの? あさましい……いやらしい……すけべえ……しゅるないぜ……」


「ひとの名前を悪口の一種みたいに言うな。あと普通に手首滅茶苦茶痛いから治してくれ」


「まったく、手のかかる婚約者様ですこと」


 べつにシュルナイゼの手首がヒビ入ろうが粉砕骨折しようがどうでもいいレティシアだったが、例のごとくおとうと様にチクられるのを恐れて【治癒の奇跡】でさくっと治す。


 そんな茶番を演じているうちに、レティシアが淹れた紅茶を飲む権利を持つ地味〜な女子生徒がキッチンスペースから帰ってきた。


「はーい、今日のおやつは『にんじんスティック』でーす!! はぁーい、みんなお食べー。喧嘩せんと、仲良くわけるんよ〜?」


「――お待ちなさい、リコッタ。にんじんスティック?? えっ? あなたまさか、この皿にいっぱいの生の人参がおやつだと言い張るつもりですの??」


 公爵家嫡男とその婚約者の間に極々ふっつーに割り込んできて、極々自然にテーブルについたその地味な女子生徒――リコッタは、驚愕に打ち震えるレティシアを無視して紅茶をがぶ飲みしつつ不思議そうな顔をする。


「え、もしかしてレティシア様って人参差別主義者です? はあぁ〜、お貴族様ってやつはこれだからもー……。いいから黙って食べてみてくんろ。このあたしが、一回でもマズいお食事出したことあります??」


「……………。まあ、そうですわね。食わず嫌いは良くないですわよ? まったく婚約者様ったら本当にワガママなんだから、もうっ!」


「なんで俺が人参差別主義者の筆頭みたいになってんだよ……」


 レティシアもテーブルに着き、シュルナイゼも背もたれ越しに手酌で自分の紅茶を用意して、そのままなんだかんだで三人仲良くもっきゅもっきゅとにんじんスティックを食べてみる。


『………………………』


 なぜか真顔且つ無言で黙々とニンジンかじってる彼らを、壁に寄りかかりながら遠巻きに眺めているこの部屋の元主・赤髪の大男レオリウスは思った。


 うさぎさんかな?


「……赤獅子、お前も食うか? 思いの外イケるぞ、これ」


「…………ハッ。悪ィが、俺はてめぇらとウサギさんごっこに興じるような、お可愛い趣味はして無ぇんでな。普通に遠慮しとくわ」


 スティックをふりふり振りながら勧めてくるシュルナイゼに、レオリウスはいつもの調子で小馬鹿にしたような嗤いを返す。


 その偉そうな態度にも拒絶の言葉にも、シュルナイゼは何か文句をつけることはなく、ただ「ん、そうか」とだけ返事をしてウサギさんへと戻っていった。


 そんな二人のやり取りをレティシアが何の気無しに見ていたことに、レオリウスは気付いている。

 けれどレオリウスはその視線に対して頑なに目を合わせることなく、不遜な態度を取り繕いながらひたすら壁にもたれかかり続けた。


 ――胃がひっくり返るほどに吐くものを吐くだけ吐いて来て、それでようやくこの『バケモノ』共と同じ空間で粗相せずに立てているレオリウス。

 彼はただただ張り子の獅子として、請われるまでは黙して語らず、バケモノ共の会話と咀嚼音に耳を傾ける。


「……で、結局あの子はガチで〈深淵の魔女〉だったわけだ。流石ゼノだな、毎度のことながら意味わからん」


「流石に今回は、わたくしも同意見ですわ……。イルマの裏付けがなければ、おとうと様が悪い女に騙されているだけ、という可能性もまだありましたけど……。入学式に、まさかの〈晴嵐〉様まで来襲ですからね。これ以上は、さすがに自分を騙しきれません」


「〈晴嵐〉って、あれだよな、歴史書の。これまたゼノとも関わりあるんだろ? あいつほんと何なんだろな、そのうち世界でも手に入れにかかるつもりなの?」


「おとうと様がその決意を固めたならば、わたくしは今一度『大聖女』として汚名を背負い、【聖天八翼】一同と全【羽】共を総動員しておとうと様に世界の頂の風景を見せて差し上げる所存ですわ」


「そういやここにもとびっきりアレなゼノ関係者がいたなぁー……。もう好きにしてくれ。あ、リコッタちゃん、こっち無くなったからそっちのもうちょっともらっていい?」


「もっきゅもっきゅ? ――もきゅもきゅもきゅもきゅもきゅもきぃもきゅもきゅもきゅ!!!!」


「べつに横取りしようってわけじゃないからな!!? いいよ、そんな嫌ならいいよ!!」


「やっぱり、婚約者様ってば、度し難いほどにしゅるないぜなのですわね……この世全ての悪を煮詰めたかのように醜い心をお持ちでいらっしゃる……下種が……死ねばいいのに……」


「死なねぇよ? お前どんだけ俺のこと嫌いなの?」


 ――そこまで聞いて、レオリウスは理解することを改めて放棄した。


 晴嵐。深淵。大聖女。聖天八翼。……彼と彼女の口から、まるで天気について語るかのように、おやつタイムの他愛のない雑談の中で飛び出した、それらの言葉。


 そのうちのどれかひとつでさえ国が動くレベルの一大事だというのに、このうさぎさん共は、それをきちんと理解した上で普通に雑談として処理してやがる。


 かつて、自分より身分が上の貴族であるシュルナイゼを、勝手にライバル視していた自分。

 だが今では、自分とシュルナイゼの住んでいる世界の違いをまざまざと思い知らされてしまって、レオリウスは胸を締め付けるいたたまれなさに負けて思わず現実から目を逸らし、居眠りするフリをした。


 その様を横目で見ていたレティシアは、しかし何も言うことはなく、静かに紅茶を傾ける。


 そんなレティシアに、「そういえば」とシュルナイゼが思い出した風を装ってレティシアの気を逸らすように訊ねた。


「イルマちゃんって、今日は来ないのか?」


『……………………』


 イルマの名が出た途端に全身から失禁じみた脂汗を噴出させて脚をがくがくがくがく地震の如く震えさせるレオリウスと、そんな彼の様子を眺めていたレティシアは今心をひとつにした。


 こいつ気の逸らし方下手過ぎかよ。


 ……とはいえ、レオリウスは頑としてただの置物を決め込んでいるし、レティシアとしてもレオリウスに過度に気を遣う気はないので、話題は普通にイルマのことへと移った。


「……そうですわね。今朝はまだ見かけていませんわ。呼べばすぐに来るとは思いますけど……。あの子に何かご用事ですか? いやらしい」


「うん、いやらしくないからな? ただ、あの子を見かける時って大抵お前に言われて仕事でちょこちょこ動き回ってる時だからさ。この『拠点』のこともあの子に丸投げだったみたいだし、ちゃんと休みはあげてるのかなって。あと俺は全然いやらしくない」


「穢らわしい……。あの子に休みなんて必要ありませんわ」


「……………。お前、それ本気で言ってんのか? そうだったらお前の魂のほうがよっぽど穢らわしいぞ」


 珍しく本気で怒ってる様子のシュルナイゼに、レティシアは意図せぬ語弊があったことに気付いてすぐさま言葉を付け足した。


「すみません、言い方が悪かったですわね。……あの子は昔から、わたしのために働くことが大好きですの。――というより、そうすることでしか自分の存在意義を確認できない子なのですわ」


「……なんだそりゃ。わけわかんねぇ理屈で奴隷労働正当化してんじゃねぇぞ、この人でなし」


 思わず低く唸って睨みつけてしまうシュルナイゼだったが、そこに横から予想外のうさぎさんがもっきゅもっきゅしながら合いの手を入れた。


「――それって、口減らしで売られそうになってる子が、お母さんに捨てられたくなくて『あたしこんなにがんばってるよ!』っていつもアピールし続けてないと不安で不安でたまらなくなっちゃうアレです?」


「…………リコッタ……? 貴女……」


「うぇはー」


 レティシアに真ん丸に見開かれた目で見られて、間抜けに笑んでみせるリコッタ。


 唐突な重い話の気配にひるんで若干身を引いたチキンなシュルナイゼを他所に、リコッタはの〜んびりとニンジンをしゃくしゃくとかじる。


 ――彼女が愛してやまない故郷から、彼女が愛してやまない母によって送られてきた、産地直送の新鮮で甘ぁ〜い、そのニンジンを。


「………ねえ、リコッタ」


「はいはい、なんでげす?」


 思わず魔眼を発動してしまっていたレティシアは、その怪しく輝く瞳で視られてもまったく気にした様子のないリコッタの笑顔を前に、えもいわれぬ罪悪感を覚えながら静かに訊ねた。


「貴女は、その……。………自ら望んだこととはいえ、それでお母さんに、色んな仕事を押し付けられるのって、……嫌だった?」


「あー。まー、あの頃はそういうのよくわかんなくて、普通に『あたし、頼られてる! あたし、要らない子じゃないんだ!』って思えて、普通に嬉しかったですけどねぇー。でも今同じことやれって言われたら、『ふっざけんなくそばばぁ!!!!』くらいは言っちゃうかもですです」


「く、くそ、ば……!? …………そ、そうなの……」


「そうなのー!」


 立場的にくそばばあ氏に感情移入していたレティシアは、無垢なリコッタの予想外すぎる罵倒におもいっきりショックを受けてふらりとよろめいた。


 溜め込んでいた長年の鬱憤を晴らしたかのようなリコッタの晴れやかな笑顔を直視できず、しばし俯いてふるふると動揺で震えたレティシアは、やがて縋るような涙目でシュルナイゼを見た。


 シュルナイゼはぼそりと呟く。


「やーい、くそばばぁー」


「…………………決めました。次イルマが帰ってきたら、強制的に幾らかの休暇を取らせましょう。そして婚約者様には今すぐ永久の眠りを与えます」


「おおっと、そんなことをいいのかなぁぁ? 俺の背後には、天下無双のおとうと様が付いてるんだぜ!!」


「…………貴男、それ自分で言ってて情けなくなりませんの?」


「ハッ!! そんな感情、あいつとガキの頃からつるんでるうちに擦り切れ炎上し灰になったわ!!! 弟に何ひとつ勝てるものがない哀れな長男ナメんじゃねぇぞゴルァア!!!」


「…………わたくし、身近な人たちが唐突に闇をぶちまけてきすぎて、もう脳の処理が追いつきません……」


 テーブルに肘をついてとうとう頭を抱えてまった敗北者レティシアを前に、リコッタとシュルナイゼの勝者コンビが意味もなく『イェーイ!!』とハイタッチ。


 いつの間にか狸寝入りを諦めて成り行きを眺めていたレオリウスは、お前ら仲良いな、とドン引きしながら内心でツッコんでいた。


 と、そんな時。終始雑談の輪から外れていたぼっちの大男の耳が、遠方から響いてくる聞き慣れた足音を捉えた。


 ――ああ、お前ももうあっち側の人間なんだろうな。と、何もかもを諦めきったレオリウスの気持ちなど露知らず。


 駆け込んでくる勢いそのままに、部屋の入口の扉を『どばあぁぁん!!』と威勢良く開け放ったその『男装の少女』は、荒い息を整える間も惜しいとばかりに、皆から向けられた様々な視線に真っ向から対峙して力の限り叫んだ。


「たっっっ、大変だぁっ!! あ、あ、あの、怪獣『おろろぉぉぉぉぉん』が世界を滅ぼそうとしてるんだあああぁぁぁあああ!!!」


『な、なんだってええええええぇぇぇえええええ―――――!!?』


 と、ノリ良く叫んだのは、ハイタッチの余勢を駆ってそのまま手を取り合ってびっくり仰天してみせたリコッタとシュルナイゼのみ。


 未だ机に突っ伏したままのくたびれレティシアと、人生への諦観からうすらぼんやりとしていたレオリウスは、口を動かすのもめんどくさいとばかりに無言で脱力しながらも、謎のシンパシーゆえに二人してなんとなくアイコンタクトを交わした。


 ―――――怪獣おろろぉぉぉん……って、何?

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