終章 私が無双になる理由
「……お帰り、アリア」
軽すぎる体重の全てを乗せるようにして、肩まで押し当てながら軋む扉を開けた先。
鮮烈な黄金色に輝く窓の向こうの景色と、そこからそよいでくる風にあてられ、思わずアルアリアは目を細める。
思わず目をぱちぱちと瞬いて、潤いを補給してから見つめた逆光の中。
よく実った穂麦畑を思わせる光景を背後に背負い、窓辺で心地良く風に吹かれていたその若く美しい女性――〈晴嵐の魔女〉ナーヴェは、アルアリアの姿を認めてゆっくりと向き直った。
「おやおや。あんなふうに泣いて逃げ出しちまったあんたのことだから、まぁたすーぐ泣きべそかいて逃げ帰ってくるかと思ったけど、こりゃまたずいぶんと遅いお帰りじゃないか。……学校は、そんなに楽しかったかい?」
聞きようによっては色んな意味で煽っているとしか思えないナーヴェの台詞は、しかしそれを語る彼女の優しさに満ちた笑顔と、労りに満ちた声調によって百八十度真逆の印象を聞く者に与える。
アルアリアの腕の中から、「みゃーお」と帰還の挨拶をしながら床に降り立ったみーちゃんは、口は悪いけど女神のような美貌と慈愛を兼ね備えたナーヴェへ擦り寄り、上機嫌に喉をごろごろと鳴らした。
そんなみーちゃんを「どっくらしょ」と外見に見合わぬ年寄り臭い掛け声と共に抱き上げて、赤子のようにあやしながら、ナーヴェはアルアリアにも『おまえも抱っこしてあげようか?』と言わんばかりの笑顔で「ん?」と首を傾けてみせる。
その魅力的な提案に思わず飛びつきたくなったアルアリアだったが、ちょっと迷って、少し躊躇って、さらに二の足を踏んで。
最終的に、ちょっぴり寂しげな微笑みを浮かべながら、微かに首を横に振って抱擁のお誘いを丁重に辞退した。
だって、今日のアルアリアは、昨日までよりちょっぴりおとなになったアルアリアだから。
「………へぇ……?」
少し意外そうな顔で眉を上げたナーヴェに、アルアリアはほのかな笑みを浮かべたまま、先程の問への解を静かに口にする。
「………がっこうって、すっごく、こわい所だったよ」
「ほーん? それにしちゃあ、随分とゴキゲンそうじゃないか。このおばあちゃんの眼は欺けやしないよ、小娘風情め」
「ううん、本当に怖いところだった。……いきなり魔術で攫われちゃったかと思ったら、原因不明の謎の高熱に見舞われて死にかけたり、冗談みたいに気軽に処そうとするお貴族様と遭遇したり、優しかった男のせんぱいが突然舌を噛み切って自害しようとしたり、毒劇物や流れ弾で二人の女子生徒が非業の死を遂げ」
「ちょっとお待ち、あんた一体どこの異次元の学校に迷い込んだんだい……?」
ナーヴェちゃんドン引きであった。しかも、事の真偽を腕の中のみーちゃんに視線で尋ねてみても、悟りを開いたような遠い目で頷かれてしまって、二度ドン引きであった。
絶句するナーヴェに、なんか変な方向に経験を積んで斜め上のおとなになってしまったらしいアルアリアは、「あ」とトドメの追い打ちを叩き込む。
「……わたしの服とぱんつ、せんぱいの部屋に置きっぱなしだ……。せんぱいの服も、借りっぱなしだし……」
アルアリアが何気なくばさっと開いて確認したローブの中。そこに存在したのは、紛うことなき彼シャツ――
どころか。あろうことか『彼パン』ですらある、すっかり男の情欲に穢されきった愛しい孫娘の姿だった。
「キイイイィィィエエエエエェnufwェェエエエbgtceエァァァァァあああfrdsあッッhhgッッjftdsa―――――――!!!??」
有り得ない、有り得てほしくない、だが現実にそこに存在する凄惨極まる光景に網膜をジュッと灼かれてしまったナーヴェは、この世のものとは思えぬ怪電波染みた絶叫を上げながらがくぅんと膝を突き、取り落としたみーちゃんが着地失敗して「みぎぇっ」と悲鳴を上げていたいることにすら気付かない様子で頭を抱え天を仰いだ。
今ナーヴェの胸中に溢れ返るのは、信じて都会に送り出したかつて清楚だった愛娘が、いつの間にかガングロギャルになった挙げ句に金髪ピアスのチャラ男彼氏を連れて帰ってきた時のような、筆舌に尽くしがたい果てなき後悔と底無しの絶望だった。
――あたしが望んだのは、こんな方向の成長じゃない!!! あんのわっぱめぇ、なんであの時手紙なんか送って来やがったんだクソがァアア……!! 殺す、次会ったら絶対殺してやるぅぅぅ………!!!
そんなふうに全ての責任をにっくきわっぱに理不尽に擦り付けようとしたところで、ナーヴェちゃん、はたと気付く。
「……ん? そういやあんた、今日はあの『わっぱ』に保護されてたはずだよね? あいつは色々フザケたヤツではあるけど、女の子を護るってことに関しちゃ一家言持ってるやつだ。なのになんで、アリアがそんな目に遭うことに……」
「あ。さっき言ったやつ、大体『わっぱ』さん――っていうか、『ぜのせんぱい』が絡んでて。もちろん、このシャツも……。……………きゃっ♪」
「貴様がせんぱいの正体かクソがああああああああああああァァァァァァ!!!!!」
〈晴嵐の魔女〉ナーヴェ、全てを理解する。
迂闊……っ! なんたる、うかつ……!!
やはり、あのわっぱこそが全ての元凶にして黒幕。あの時送ってきた手紙も、今日困ってるアルアリアを助けたことも、その後取り乱しきった自分を優しく慰めてくれたり不意に心の傷を見せてきて自分から同情や譲歩を引き出したのも、何もかも全ては純真無垢だったアルアリアを性欲に穢れきったきゃつ手で己色に染め上げるための布石……!!
いや、もしかしたらかつてナーヴェと出逢った所から既にきゃつの奸計は始まっていたのかも知れない。あの非常識が服着て歩いてるわっぱのことだ、それくらいやりかねない。むしろそんなの、鼻歌交じりに片手間で朝飯前。
――鼻歌交じりに片手間で朝飯の前に、裸のアルアリアを抱いて余裕の笑みを見せながら、ついでにグラスワインなんかも優雅にくゆらせつつ、哀れなナーヴェを鼻で嗤うわっぱ。
そんな絵面を脳裏に描き、晴嵐の魔女はとうとうブチ切れた(←理不尽)。
「……………ォォォオオオオォォォォォォォ………」
枯れ果てた荒野を吹き抜ける終末音のような呼吸を漏らしながら、ナーヴェは涙をぼたぼたと鼻水のごとく垂れ流してぬらりと立ち上がる。
――鉄槌を。純情だった孫娘を俺様色に染めやがった怨敵に、魔女の裁きと鉄槌を……!!!
「なーんちゃって! えへへ、おばあちゃんどう? びっくりした? びっくりしたっ??」
などと、まるで手品の種明かしをする無邪気な子供のような笑顔のアルアリアの様子からわかるように、実の所、先程までの色々と言葉が足りてなかったり思わせぶりだったりしたアルアリアの態度は、半分くらいは意図的にやっていたものだったりする。
本当にあった怖い話への畏れより、彼シャツや彼パンへの羞恥より、大好きなおばあちゃんに今日学校であったことを面白おかしく話したい、そんな純粋な愛情が勝ったがゆえの行動。
今のアルアリアはちょっぴり大人どころか、むしろ子供のように甘えたさんなのであった。
……しかし、時に子供は大人より残酷である。愛する孫娘のかわいいじょーくに原型を留めぬほど脳を破壊されてしまったナーヴェは、もはや怪人おろろおぉぉぉんを超える新たなる超生物への存在進化の扉を開けようとしていた。
「オオオオォォォオオオオォォォォォォォ………」
「……お、おばあ、ちゃん……?」
だが、まだ足りない。かつて晴嵐と名付けられた若かりし日の自分にすら、まだまだ遠く及ばない。
それは、『肉体的な理由ではなく』、平和な時代のぬるま湯に浸かり、優しいアルアリアによってすっかり骨抜きにされてしまった自分には、かつてのような飢えた獣の闘争心が抜け落ちてしまっているからだ。
これでは、ナーヴェの牙は、あの巫山戯た存在である反則小僧に届かない。まだ五歳かそこらの時点で既に〈晴嵐の魔女〉をも驚かせる存在だったあのわっぱは、今では、到底勝ち目の無いはずの戦略兵器〈魔女〉とのガチンコ魔術勝負でさえ互角以上に渡り合う力量を備えていた。
そして。自分に殺されかけていたはずの今日のわっぱに、あの時確かな余裕があったことにも他ならぬナーヴェは気付いている。
――奴には、有るのだ。〈力有る魔女〉をも畏れる必要のない、魔女殺しを容易く成し遂げる切り札が。……それも、おそらくは複数。
「……力が、欲しい」
「お、おばあちゃん……?」
自分の人生に残された、たったひとつの希望にして最期の心残りである愛しいこの娘を、護れるだけの力が。
「力が、欲しい……!」
「ねえおばあちゃん、ねえってば、さっきのじょうだんだってば、ねえ」
血を。闘争を。殺戮を。惨劇を。
幾千の戦場を駆け幾万の屍を築くことになろうとも、屍山血河の向こうで嘲笑うあのわっぱの喉笛に、牙を突き立て得るだけの力が。
「力が、欲しい――――!!」
「おばあちゃーん? おーばーあーちゃ」
――そして、何より。
「孫娘が連れて来たカレシに精神的マウントを取れるだけの、圧倒的な『力』が欲しいいぃぃぃィィィイああああぁあああ――――!!!!!」
「………………えぇぇぇぇぇ……」
ほんの数秒前まで耳の遠くなった祖母を心配する孫娘のような顔をしていたはずのアルアリアは、祖母のガチすぎる魂の訴えを聞いて身体をすすすと後退させる。
そんな彼女の腕の中に、みーちゃんが「みゃう……」と飛び乗って避難。ちょっと前まで喧嘩のようなものをしていたはずの主従は、今ここに心をひとつにする。すなわち、ドン引き。
孫娘とその相棒に胡乱な目で見られてることなどおかまいなしに、ナーヴェは自らの両頬をギリギリと掴んで迸る激情を抑え、食い込む爪で涙のように血の線を走らせながら、地獄の底を這うように低く唸る。
「口惜しやぁ…………、あな、口惜しやぁぁ…………!!」
当初、アルアリアが売れ残って、いつまでも自分の手元に残ってしまうことを懸念していたナーヴェ。
しかし実の所、もし愛娘が今後自分の所から誰か元へと貰われていくことになったとしても、その時は当然のように自分もくっついて行くつもりでいた。
当然である。かわいい孫娘を幸せにするのはこの世でただ一人、この自分だけに許された特権であって、孫娘の『婿』というのは、あくまで自分の望みを叶えるための道具のひとつに過ぎない。
だから、ナーヴェの描く未来絵図というのは。
嫁いで行った孫娘にまるで嫁入り道具かさもなくば怨霊のように取り憑いて行き、〈晴嵐の魔女〉のネームバリューと圧倒的戦闘力を以て婿殿を従順な下僕へと調教。そうして鎖に繋がれた忠犬と化した婿殿を孫娘が可愛がっている様をニコニコ眺めながら、自分はの~んびりとお茶をすする……と、そんな感じの実に素晴らしくて理想的ですこぶる平和で幸せな青写真だったはずなのだ。
だが。もし仮に、孫娘が連れて来たのが、〈晴嵐の魔女〉を凌駕し得る名声と、そして何より、魔女をも物理的に圧倒できる戦闘力を持つ、そんな男だったとしたら?
名声。戦闘力。どちらもまだ自分の方が勝っているだろう。だがあの『わっぱ』は既に自分を脅かすだけのモノを持っており、それが今後どうなるかはわからない。
むしろ、あのわっぱがまだ十六歳の成長途上の少年であることを加味すれば、天秤はナーヴェにとって部の悪い方向へとじわじわ傾いていくことだろう。
――あのわっぱが、アルアリアの婿になる?
その仮定の意味する所は、完璧だったはずの計画の根本からの瓦解と、そして犬小屋に押し込まれて犬扱いされるのはこの自分の方であるということ。
ちなみに犬扱いされようとも、ナーヴェの中にアルアリアの傍を離れるという選択肢はない。
選択肢はない……が、だからといってそれが許容できるかとなると、答えは明確に否。〈晴嵐〉という呼び名にプライドを持っているわけではないが、嵐のように破天荒な性格をしているという自覚と自負はある。
単純な気性の問題として、自分が誰かの靴を舐めて生きていくことを、ナーヴェは断じて良しとしなかった。
――ただでさえ、自分は『寿命』を奪われているのだ。望まない生活を強いられたまま過ごすだなんて、考えたくもない。
だからナーヴェは決意する。
「よし、あのわっぱ殺そう」
「ダメだよ!!? いきなり何言ってるの、絶対だめだよっ、おばあちゃん!! めっ、メぇッ!!!」
「あ、間違えた。――あのわっぱを小指の先で消し飛ばせる程の、圧倒的な力を手に入れよう」
「まだ何もかもぜんぶ間違えてるよ!!?」
まるで怪我して帰って来た幼子のようにびーびー泣いて縋ってくるアルアリアに、ナーヴェは『しょうのない子ねぇ』とでも言いたげな包容力と優しさに満ちた笑みを向け、何もかもわかってますよーとばかりにうんうんと頷く。
「そうだよねぇぇ。やっぱり間違ってるよねぇぇぇ」
「そうだよっ!! よ、よかったあぁぁ、ちゃんとわかってもらえ」
「指まで使うだなんて、〈晴嵐の魔女〉と呼ばれたあたしらしくもない。やっぱりここは、鼻息ひとつで塵も残さず消し飛ばせなくっちゃ間違いってものだよねえぇぇぇェェェ……!! それこそ、〈晴嵐〉の名を付けられたころの――あの頃の『私』のように……」
「………………。ごめん、おばあちゃん。ちょっと色々言いたいことあって、よくわかんないんだけど、昔のおばあちゃんって、魔術無しの鼻息でひとを消し飛ばせたの……?」
「当たり前だろ。魔女だもの。鼻息吐いては一個小隊を吹き飛ばし、鼻クソ投げては一個大隊を爆殺する。それが『存在自体が魔術』と言われる、あたしら〈魔女〉の真骨頂ってもんだ」
「それ絶対、わたしの知ってる魔女と違う……」
どこまで本気にしていいかわからない話を語る祖母の、どこまでも素面すぎる表情に、アルアリアは心の底からの戦慄を禁じ得なかった。
ちなみにみーちゃんはというと、この件にはノータッチとばかりにアルアリアに大人しく抱かれたままあくびをかいている。
ばっちゃくらいの魔女ならそれくらい出来てもおかしくはないと理解できる反面、流石に鼻息鼻糞はどうなの……と内心でアルアリアにも一票入れておく、立ち回りの上手いお利口さんなみーちゃんであった。
言葉を失うアルアリアと喋る気の無いみーちゃんに見つめられながら、ナーヴェはくるりと身を翻すと、宵闇迫る外の景色と相対しながら窓枠に「よっ」と脚をかける。
「ま、そういうわけだから。あたし――いや、『私』は暫く王都を留守にするよ。しばらくは、あの頃の私を取り戻すために、山に籠って修行漬けの日々と洒落込もうかねぇ……? ひぃ~っひっひっひっヒッヒッヒッヒィィ!!」
「は? え? えっ、え? …………えっ、待って、ちょっとおばあちゃん、留守って――」
「待ったなーいよっと。あ、でもあんたの入学式にはちゃーんと戻ってくるから、そこは心配しないでおくれよ? ばあちゃん、あんたの晴れ姿をかぶりつきで『きゃめら』に撮るからね!! めいっぱいおめかししておくんだよ!!?」
「えっ、はい……。………………えっ??」
「そいじゃ、みーちゃん。後はこの子を頼んだよ」
勢いに呑まれて頷いてしまった、惚け顔のアルアリアを他所に。何やらアイコンタクトを受け取ったみーちゃんは「みー!(おっけー!)」と片手を上げて元気良く依頼承諾を表明し、それを見届けたナーヴェは至極あっさりと窓の外へと飛び降りる。
消える祖母。落ちる夕日。人が減り、闇に這い寄られ、急に物悲しくなってしまった薄暗い部屋の中で。アルアリアは唐突過ぎる祖母の退場に呆然としたまま、ひたすら立ち尽くすことしかできなかった。
数分後。ようやく再起動を果たした彼女は、もはや毎度のことのようにその呻きを悄然と口にすることになる。
「…………ええぇぇぇ……?」
寿命の件はミスリードです。




