終章新世 最後の王、カタルナハト
かつて。この世に生きる全ての人間は、魔法による富と繁栄が約束された楽園――今では『旧世界』と呼ばれている地域に住んでいた。
それなのに何故、祝福に満たされた揺り籠を放棄してまで、新世界などという荒れ地と枯れ草しか無いような土地へと進出する人々が現れたのか?
答えは簡単。祝福に上手く適合出来なかった者達は、魔術師や魔女との生存競争に敗れ、未開の地への逃走を余儀なくされたからである。
どれだけ鍛え上げられた肉体を持つ偉丈夫であっても、身体強化魔術が扱える少年を相手にすればあえなく力負けする。もしまかり間違って魔女と敵対でもしようものなら、もはや両の足で立つことはおろか呼吸すらままならず、生存どころか存在さえ覚束なくなってしまう。
非魔術師、それも魔術の素養が無いというレベルではなく『一定以上の魔力に適合できない』者達にとって、魔法の世界で勝ち残ることなどは文字通り現実的でなかった。
だから、劣等人種達は適応した。
――端から勝ち目のない戦から全力で逃げ出し、魔法の脅威が存在しない『外の世界』の環境へと、長い時をかけて徐々に適応していった。
今新世界に生きている人間達の歴史は、元を辿れば、そういった敗北と恥辱から始まっている。言うなれば、それは原罪だ。
恥を雪ぎ、罪を贖うべく、回天の志を掲げて旧世界奪還を叫ぶもののふ達は幾度となく現れた。叫ぶだけではなく、千や万の軍勢を束ねて実際に攻勢を仕掛けた漢達もいる。
だが。祖先が見た在りし日の故郷の土を、その子孫達は未だに踏むことができていない。
……皮肉なことに、故郷への帰還を夢見る者達にとっての最大の『敵』は、故郷の大地そのものであったが故に。
揺り籠の外の世界で生きるための、適応。それは即ち、無にも等しい希薄過ぎる魔力を呼吸によって掻き集め、ようやく集めた僅かばかりのそれを最大効率で燃焼させることで生命エネルギーへと変換するという、行き過ぎた省エネ体質の獲得であった。
もしそれを、魔力の潤沢な旧世界で行ったとしたらどうなるか?
答えは、『破裂』。比喩ではなく、物理的な爆発四散だ。
体質ゆえに、能動的な制御は出来ず。体に収まりきらない魔力を延々と吸い込み続けては、必要以上の生命エネルギーで体をはち切れんばかりに膨張させ、やがて本当にはち切れる。
ただ足を踏み入れるだけでこれなのだ。そこへさらに魔術師や魔女による魔術攻撃等を見舞われれば、パンパンに膨れた風船に針を刺すよりも容易く盛大に弾け飛んでしまう。
それでも、と。いつの世も、それでも父祖の無念を晴らしたいとか、或いは単に周囲にイイトコ見せたいとかの理由で、旧世界への凱旋を目論む者達は後を絶たない。
そして、新世界最大国家の頂点に君臨する青年王、カタルナハト=スオウもまた、己の理由により旧世界への侵攻を企図していた。
ただし、カタルナハトの場合は本当に旧世界に用事が有ったわけでも、栄誉や名誉が欲しかったわけでもない。
齢十にして父王を戦で無くし、その後継者として急遽大国蘇芳を纏めねばならなくなったカタルナハトは、まず真っ先に『血の気の多い連中の去勢』が急務と考えた。
父王逝去に伴い俄に本性を現し出した、反王家勢力や、周辺国への侵略を訴える開戦派など、そういった間違ったやる気に満ち満ちた連中の『間引き』こそが、国の安寧に繋がると考えたのだ。
ゆえに、カタルナハトが此度の旧世界奪還作戦へと望むのは、血気に逸る戦バカどもの戦死、ないし勢力縮小。
それによって起こる自国の国力低下より、革命反乱戦争侵略しか能の無い内憂共を排除出来るメリットの方が遥かに大きいと判断しての、正に王の決断であった。
無論、自分がそういう思惑を持って動く以上、逆に自分が戦場で罠に嵌められる可能性もカタルナハトは考慮している。
だが、問題は無い。場所が戦場であるならば、カタルナハトは最強だ。
第一子でもないのに刀の技量ひとつで王太子へと推挙されたその実力は、好戦的とは言えない性質のカタルナハトであっても、己の最大の武器であると認めないわけにはいかなかった。
そして、その武器を確かな知略の下に正しく運用さえすれば、此度の作戦で『正しく敗走する』ことは比較的容易であると結論付けた。
だが。カタルナハトは、エンリに出逢ってしまった。
旧世界から落ち延びてきたという、生きたホンモノの魔女。彼女は時空属性なる特異な魔術を操り、此処ではない何処かから魔力を直接引っ張ってくることで、新世界の劣悪な魔力環境に左右されず大魔術を行使できるという、大概ふざけた存在であった。
それだけで、彼女の価値は計り知れない。神無き世界でただ一人、神の奇跡を行使できる天上人。その運用によっては、わざわざ旧世界にケンカ吹っかけて敗走してくるなどという面倒な手間をかけることなく、ダイレクトに内憂勢力に脅しをかけて従わせることが可能だ。
内憂だけではない。あらゆる外患に対してさえ、エンリは正に無敵だ。戦場である必要すらなく、この新世界のありとあらゆる時代と地域において、エンリは本物の神にだって成り得る。
だが、エンリの価値はそれだけではない。むしろ、ここからが真価だった。
エンリは、齎した。『新世界の人間が、魔女を殺して故郷に帰る』――そのための、確かな理論を。
元々は『総帥』なる人物の研究所から持ち出して来た物らしいが、この際出処などどうでもいい。
問題は、敗戦前提で組み立てていたはずの侵攻計画が、いきなり『勝てる見込みの有る戦』に変わってしまったことであった。
とんだ誤算で、望外の――――不幸。
「そこは、僥倖ではないんですね?」
「不幸だよ。……俺は――、『余』は、そもそも戦が好きではない。その上、果たし合いならまだしも、『人数揃えてボコれば普通に勝てる』などと言われても、やる気なんか出るわけないだろう」
「でも、結局やるんですよね? 勝ち戦」
「……ああ。なにせ、勝ち戦、だからな。為政者として、労せず得られる眼前の林檎を手に取らないなど、有ってはならない。それは個人の好き嫌いや王の資質以前の問題だ」
「ふーん」
幾千。
幾万。
――幾千万。
果て無き荒野を擦る軍靴の群れの、最前線。
先頭を征く馬上で背中合わせに座りながら、物憂げに前を見つめるカタルナハトと、同じく物憂げに背後の軍勢を眺める少女は、行軍中とは思えぬ平素極まるテンションで無意味にダベって時間を潰していた。
戦いの幕が、もうすぐ開く。
蘇芳国だけではない、此度の勝ち戦に乗っかろうとやって来た大小数十の国家による連合軍の大遠征。その果てに有るのは、かつて数多の父祖父王達が幾度となく求めてやまなかった、瑞々しい黄金の果実。
今こそ、その実を手に入れる。
「……やりたくないなら、やらなきゃいいのに」
「そっくりそのまま、お返しするよ」
「…………ぶー」
ギラついた眼の精兵達とは対象的に、総大将とその相棒はどこまでも憂いの拭えぬ面持ちで決戦へと向かう。
――戦いの幕が、もうすぐ開く。
その認識自体がそもそも間違いであったことなど、今は、誰も気付けない。




