七話前・3 ヒトでないものども
「アリア、さん……? いきなり、どう――ひぅえぇ」
顔を覗き込もうとしたイルマが、カウンター気味に近付いてきたアルアリアの顔を間一髪で避けるも、ぺろっと頬を舐められて空気の抜けるような悲鳴を漏らす。
――なめられた。ほっぺ。なめられた。はぇぇ、ナンデぇ??
策士の癖に、或いは策士だからこそ、予定外の出来事に滅法弱いイルマ。それでもなんとか正気を取り戻して戦略的撤退しようとするも、いつの間にかアルアリアの両手によって後頭部や腰をがっちりと抑え込まれており、アルアリア比1000000%増しの予想外過ぎな圧倒的パゥワーから逃れることができずに完封負け。
はぇぇぇ、ナニコレぇぇ????
「ちょ、ちょっ、ちょちょ、ちょちょちょちょ」
「ぺろぺろ♪ ちゅっ、んちゅっ♡」
「あぃえぇぇぇぇぇ……………」
ぺろぺろなめるのみならずチュッチュと情熱的なキスまで始めちゃったアルアリアが理解できなくて、もうイルマは困惑の極地を通り越してオーバーフローを起こしていた。
いや、一応アルアリアが何を目的としているのかは見当がつく。これはつまり、先程扇子で付けられてしまった傷の消毒と、ついでに血を拭ってキレイにするための処置であろう。それはわかる。
だが、なぜか完全に【深淵】の権能発動させてヤバい眼してる上、めちゃめちゃ恍惚の笑みと吐息を漏らしている、その意味が全くもってこれっぽっちも理解出来なさすぎてヤバい。
――どっからどう見ても、これ、発情中のヤンデレ女では……? えっ、我、アリアさんに発情されてる……??? アイェエェェェ、ナンデぇぇぇぇ??????
「いるまちゃん」
「ヒェッ。な、なんですかぁ……??」
「まだ、痛い? わたしの唾液、そこそこよりは治癒効果有るはずだけど……」
「…………え? ………あ、いえ、その、…………痛いというか、ちょっと、……まだ、じんじん痺れてるような、気は……」
「ん。じゃあ、もうちょっと続けるね」
「…………………お、おなしゃぁす……」
今のアルアリアに真っ向から反発する勇気が起きず、しかもなんだか予想以上に効果が有るっぽい治療行為だったため、イルマはビクつきながらも唯々諾々とぺろぺろちゅっちゅを受け入れる。
最近の我ってば愛されキャラすぎて困ちゃいますねぇウフフ……などと現実逃避を始めつつも、アルアリアがあまりに一生懸命尽くしてくれるものだから、なんだか段々普通に嬉しくなってきちゃうイルマ。
その気持ちが伝播してか、アルアリアも「ふひひっ♪」と子供のように屈託なく笑う――が、横合いから無粋な怒声が飛んで来たことで、またしてもヤンデレめいた恍惚の笑みへ。あ、これめっちゃキレてる顔なんですね、とイルマは今更ながらに理解した。
「ちょっと……、ちょっと、貴女達っ!! わたくし達を無視して、こんなところでいきなり、え、え、えち、えちちエッ……、は、ハレンチし始めるなんて、一体何を考えて――」
「えい」
ハレンチって、動詞でしたっけ? とどうでもいいことを考えてるイルマを他所に、アルアリアがレナへ向かって片手を軽く差し伸べ、間の抜けた掛け声と共に指先をしゅっと擦る。フィンガースナップをしくじったわけではなく、それはまるで、ちり紙の端を撚って糸状に丸めるような動作。
それに合わせて、ぐりん、と捻れて、バキボキ砕けて、千切れて、落ちて、盛大にブシャァと赤い飛沫をまき散らすレナの左腕。
否、『元』左腕。
絞られた雑巾のように綺麗にツイストしているそれを暫しぽかんと眺めて、レナはきょとんと首を傾げた。
「……………………。んん?」
これはいったい何ですの? と、まるで知らない鳥でも眺めるような顔をしているレナに視線で尋ねられ、呆然としていた親友モニカは「えぇと」と思考を再起動させた。
モニカが本来口にすべき答えは、とてもシンプルだ。『それは貴女の元左腕です』、以上。些細な報告は面白おかしく、重要な報告は簡潔に、そんな上司の教えに則れば、ここはこの上なく簡潔に回答すべき場面だろう。
何の前触れもなく、貴女の腕が突然捩じ切れて落ちました。……これを重要な報告と呼ばないのは、少々以上に無理がある。
だが、モニカは目に映る光景が未だに脳で処理できておらず、なんと答えたらいいのかわからなくて、おそるおそる尋ね返した。
「…………痛くは、ないのですか?」
「いたい? ………なんで?」
「え、だって、腕……」
「うで」
どこか、単語の意味さえわかっていないような無垢な声で返されて、モニカは思わず口籠る。
これはどういうことかと視線で上司に尋ねてみれば、上司は――、まるで部下やレナ以上に何も理解できていないような最上級の呆け顔でツイスト雑巾を眺めていた。
―――――え、なぜあなたがそんな顔なのです、上司……? あなた、知らないことは何も無いみたいな高慢ちきな態度がデフォルトの智天様のはずでしょう?? ほらほら、今こそいつものようにドヤ顔でご高説をペラペラ垂れ流すべき場面ですよ???
「自称部下さん。次期の捨て駒筆頭はおまえが繰り上がり当選です、おめでとう死ね」
「ごめんなさいでした上司、死にたくない助けて」
「……………はぁ。まあ、いいでしょう」
なんか知らんが赦されたらしいので、ほっと安堵したモニカは、もう余計なことは考えまいと固く誓って路傍の案山子役に徹する構え。
そんな部下を横目に見て溜息を吐きつつ、あと正気を取り戻させてくれたことにちょびっとだけ感謝したりなんかもしながら、イルマはぺろぺろちゅっちゅ魔女さんに問いかける。
「……アリアさん、今のは【権能】ですか? 聞くところによると、アリアさんは『概念』を物理世界へ引きずり下ろせはするものの、肝心の物理的な腕力が足りない、ということだったはずですが」
「んちゅっ? ……あれ、言わなかったっけ? 『現実を己の望むままに歪める」のがアルアリアの真髄だって。だから、わたしが『今手元にあるこれは、ただの汚いちり紙だ』って『思えれば』、あんな感じにぐしゃぐしゃにできます」
「きたないちりがみ」
レナが相変わらず何もわかってない様子で反芻しているが、イルマは逆に全てを理解して思わず絶句した。
望むまま――というより、この場合は『思うまま』というのが正しいか。要するに、アルアリアが『そういうもの』と思い込むことさえ可能であるなら、距離も強度も一切関係無く、彼女はこの世の全てはおろか、この世ならざる全てのものでさえ、細腕ひとつでいとも容易く破壊できるということだ。
普段はきっと、常識や固定観念といった己の認識が邪魔となるせいで、そこまで簡単に『思い込む』ことが不可能なのだろう。だが、感情が極度に昂ぶっている時――つまりはブチ切れて思考や自制心がトんでいる時は、その限りではない。
しかも見たところ、リミッターが解除されたからといって、特段の不都合や消耗の増大が有るわけでもない様子。むしろ、普段自分戒めている『枷』がようやく外れたぜとばかりに意気揚々でテンションアゲアゲ。まるで発情でもしてるのかと見紛うレベルで上気しきった恍惚の笑みを浮かべながら、しょぼい指パッチンひとつでこの世に遍く全ての汚物共をぐしゃぐしゃにする、と。
――うん。これ、もう完全に魔王様ですね。なるべく、怒らせないでおきましょ……うん……。
「うで、うで、うで、……うで……」
「うでうでうるさい」
現実を受け入れられずに意味の無い呟きを漏らし続けるレナへ、アルアリアの――珍しくイラッとしたコメントが飛ぶ。
次の瞬間、今度はレナの『右腕』がぱぁんと弾けて塵となった。
指パッチンすらしていない。ツイスト雑巾すら残さない。『アルアリアがイラッとした』、ただそれだけで、ヒトの腕が跡形も無く消し飛んだ。
更にはもののついでとばかりに両足までぱぁんと消し飛ばし、ついでにばっちぃツイスト雑巾もぱぁん。
喪った四肢の断面から大量の鮮血をジェット噴射しながら、推力不足の胴体がどちゃっと墜落。
事ここに至っても何が起きたのかさっぱりわかっていないままのレナは、ただただ眼を軽く見開き、視界いっぱいに広がる黄昏の空を瞳に映していた。
――まだ死んではいない。だがこの出血量では、保って精々数分――
「死なないよ? それは『わたしが許可してない』」
「…………そう、ですか」
経験則からくる確かな見立てを魔王様の一声で百八十度覆されてしまい、イルマはもうそのことについて深く考えるのをやめた。魔王様の御前では、生き死にすらオール許可制。それがルールなのである。
死なない。レナは、死なない。たとえ四肢を失い、血を失い、そのうち干からびた胸像のように成り果てようとも、それでもレナは死なない――死ねない。
……こんなアクシデントを起こしてしまったことに少しばかりは罪の意識を感じてしまうイルマだったが、それは本当に少し程度だ。
火のない所にいくら薪をくべたところで、キャンプファイヤーにはならない。そして、最初の火種は、確かにレナ自身が悪意と共に生み出したものだった。
ならやっぱり自業自得ってことでいいですね! と、たった数秒の間に結局なけなしの罪悪感さえ捨て去る大悪魔イルマ。
そうして。ぺろぺろちゅっちゅを満面の笑みで継続するアルアリア、それを満更でもない笑顔で受け入れるイルマ、そのすぐそばの血溜まりの中で呆ける五体不満足のレナ、以上全てを視界に収めてただただ立ち尽くす顔面蒼白のモニカという、あまりにもシュールな状態で場が安定の様相を見せた頃。
「…………………え? これ、一体どういう状況……?」
イくのは早いくせに来るの遅すぎな某ゼノなにがしが、ようやくのこと姿を見せたのであった。はい七話へ。




