十一話 命懸けすぎる幻覚破り
「ここちょっと段差あるから、足元気を付けて?」
「………………はっ、……いぃ」
瀕死の精神的ダメージによる意識の喪失と、ラスボスの如く立ちはだかっていたはずの金髪青年の前触れのない消失、そして唯一無二の親友にして相棒だと信じていた従魔の突然の裏切り。
唐突に我が身を襲った異常事態の数々に目を白黒させて『?????』と疑問符を乱舞させることしかできないアルアリアだったが、そんな彼女を更なるピンチが襲う。
事態を理解することができず呆然としていた間にいつの間にやらエスコートされるように腰に手を添えられ片手を取られ、そんなまるで一度は終わったはずのダンスを再演しているかのような密着姿勢のまま、ぜのせんぱいに導かれて人気の少ない廊下を歩く。
足元をとことこ歩くみーちゃんが、ぴょいんとタップを踏むようにわずか数段の階段とも呼べない階段を身軽に降りる。
それに続くのは、臨月間近の身重な妊婦だってここまで過保護にされはしないぞというほど盛大に気を使われる、妊娠どころか赤ちゃんの作り方すらろくに知らないアルアリア。
そして、そんなアルアリアを有り余る愛で包みながら甲斐甲斐しくサポートする、お前は熱々の新婚家庭の夫かとツッコミを入れたくなるほどに蕩けた笑みでアルアリアを見つめ過ぎなぜのせんぱい。
アルアリアの表情を隠すフードが純白のヴェールのようにさらりと揺れ、階段を降りる度にローブの裾がまるでウェディングドレスのようにしゃらりと擦れる。
アルアリアは思った。ここ、結婚式会場なの? わたし、結婚するの??
もはや疑問符まみれで脳味噌がショートし始めたアルアリアを、三年煮詰めたはちみつよりも甘ったるい蠱惑的なイケボが無慈悲に襲う。
「ねえ、アリア。……あ、また呼び捨てにしちゃった。ごめんね、流石に馴れ馴れしかったかな?」
「だっだ、だだだだじょっ、……で、ふっ!!」
「そっか。ありがとう。……ねえ、アリア。俺のことも、好きなように呼んでくれていいからね? 『ぜのせんぱい』でも、ゼノディアスでも、この癡漢クズ野郎でも、このカンチガイ男でも、この拉致監禁及び婦女暴行未遂にして痴漢行為現行犯の最低男でも……」
砂糖一辺倒だった彼の中に唐突にアルアリアの知るぜのせんぱいが帰ってきて、まるで実家に帰ったかのような安堵に見舞われたアルアリアは、離れて行きかけた彼の手を思わずきゅっと握って繋ぎ止めてしまう。
「………ぜ、の、………せ、ぱ……」
蚊の鳴くような声でしかその禁呪を口にできないアルアリアだったが、物理的にも精神的にも近すぎなぜのせんぱいは一文字残さずしっかりと聞き届けたようで、またも虫歯必至な甘々砂糖菓子の笑みをふわりと花咲かせる。
嗚呼、さようなら、実家のぜのせんぱい……。
「……アリア? なんかちょっと、……悲しそう……? だけど、ほんとに大丈夫?」
「………だ、じょーぶ……ですぅ」
「……そうか? なら、いいんだけど……」
お互い、口では何事も問題ないことを確認し合ったが、気遣いの鬼と化しているぜのせんぱいはアルアリアの異変を察してほんのわずかに身体を離し、それ受けてアルアリアはようやく久方ぶりにまともに酸素を吸うことに成功した。
しかし、繋がれた手も支えられた腰も、相変わらずそのままであり。既に熱暴走を通り越して炉心溶解に至ってしまった彼女の脳味噌は、与えられた酸素で冷えるのではなく、むしろそれを燃焼剤として『ひゃっはー!』とアクセルをベタ踏みしながら、心臓とタッグを組んで仲良く爆走する。
(どっどどどどどど、どどっど、どどどどどっどどどっ……)
(にゃん? どした、ありあ。『ど』はどーなつの『ど』かにゃ? ありあもお腹減ったのね。しょーがないから、後であたしのゴージャス猫まんまもちょっとわけてあげるのよ。あたしってば、御主人様想いの良い従魔よねぇ)
(『ど』は、どーなってるのの『ど』だよ!!? い、良い従魔だって言うなら、いきなりごしゅじんさまを見捨てないで、ちゃんとこの状況の説明してよ!? なななんっで、あのねがてぃばーだったぜのせんぱいが、こんな全力全開で暴走しながらぐいぐい来てるの!!?)
(それはちゃんと自業自得だって言ったはずだにゃ。はい説明終了。ねっこまーんま♪ ねっこまーんま♪)
(ぐすっ。みーちゃんの、ばかああぁぁぁ……!!)
もはや御主人様を顧みることなく、ゴージャス猫まんまに心奪われて尻尾とお尻をごきげんにふりふりさせながらさっさと前を行くみーちゃん。
薄情な従魔を内心で泣きながら罵倒したアルアリアは、現実においてもリアルにちょっと泣けてしまい、涙目で鼻をずずっとすする。
――そんな弱った姿のアルアリアを、今のスーパーぜのせんぱいが見逃すはずもなかった。そして、悲しいかな、みーちゃんとアルアリアのやり取りが聞こえていないぜのせんぱいが、舵を正しい方向へ切ることはない。
「……ああ、そっか。ごめんな、気付かなくて……」
「……えっ? ………あ、……え、へへ、ぇ……」
よくわからないけど、なんだかすごく申し訳無さそうに何かに気付いてくれたと言っているので、思わず愛想笑いで話を合わせに行くアルアリア。
これでようやくホールドを解いてもらえるのか……と安堵の息を吐きかけたアルアリアを、勘違い男ぜのせんぱいによる更なる熱烈な抱擁が襲う。
(いや、なんで!!?)
実際はあくまでもエスコートの延長の域を出ない態勢だったが、それでもアルアリアの中でそれは既に愛欲溢れるハグだった。いっそ性行為と言ってもいい。
公共の場で突如性行為に及ばれて堪らず悲鳴を上げかけた生娘アルアリアだったが、そんな彼女をぜのせんぱいのじんわりとした体温と、そしてささやかな魔術による心地良い熱がぽかぽかとあたためてくる。
「風呂上がりだもんな。さすがに廊下まで暖房とか入ってないし、ずっと寒かっただろ? ……本当は俺が気付いて、もっとちゃんとした着替えとか出してあげるべきだったのに、鈍くてごめん……」
着替え。その単語に何か思い出してはいけない悲劇の気配を感じたアルアリアは、それを必死に誤魔化すかのように、恐怖に震える身体でぜのせんぱいに縋りついた。
「ぜの、せん、ぱ、い……」
「――――――――――――」
魔術的な『回路』を通してアルアリアに伝わり来る、ぜのせんぱいの心の声。それはなぜか、先程からずっと高周波のような耳鳴りにしかなっていなくて、全く言葉の体を成していない。
一度は『自分の望んだことじゃないから』と売り言葉に買い言葉でみーちゃんに文句までつけていたアルアリアだが、いざそのチートじみた裏ワザが使えないとなると、必要以上に心細くって堪らなくなってしまう。
嫌われて、いないよね? ここまで過剰なほどに気遣ってくれて、こんなに異様なまでに優しくしてくれているのだから、少なくとも、嫌われてはいない……は、ず。
――つまりは、探求者にあるまじき、ただの希望的観測。
さっきまでみたいに可愛いかわいいと褒めてもらえなくて、些細なことで喜ぶくせに予想外の事で傷付いてすぐ離れていってしまうぜのせんぱいだから、アルアリアは彼の向けてくれる好意の全てに確信が持てなくなってしまっていた。
だからアルアリアは、ただただひたすら『それ』を求めて、自らぜのせんぱいの胸板に頬を擦り寄せた。
また一層強く耳鳴りを奏でて、なぜか身を固くするぜのせんぱい。そんな彼の心音を、彼の衣服や自分のフード越しに聞きながら、アルアリアは『あぁ……』と感慨に満ちた溜息を零す。
(ぜのせんぱいも、すっごく、どくどく言ってる……)
それが、好意を抱いている相手に密着している興奮からなのか、それとも嫌いな相手に擦り寄られていることへの戦慄からなのか、チートを失った今のアルアリアにはわからない。
でも。できれば前者であってほしいと願い、そうだったらいいなと思って、アルアリアはぜのせんぱいも自分と『いっしょ』なんだと思い込むことにした。
いっしょ。それはつまり、アルアリアもまた、ぜのせんぱいに『――』を抱いているということで――。
「……っと」
アルアリアがその事実に思い至ろうとした時、不意にぜのせんぱいが抱擁を解いてアルアリアを背に庇う。
失った温もりと、代わりに与えられた、頼れる背中。アルアリアは、わけもわからぬまま、本能に突き動かされて彼の背にそっと手を伸ばしかけ――、その直前で心臓をどっきんこと飛び跳ねさせて全力で壁に縋り付いた。
「ぜ、ぜっ、ぜぜぜゼノディアス様……!!? なんで……」
「おう、こんちわー。食堂って今空いてた?」
「あ、い、いえ、知らないですけど……、じっ、じゃあ、自分はこれで!!!」
「……ああ、うん。いきなり引き止めて悪かった――」
ぜのせんぱいが言い終わらぬ内に、対面から歩いてきたはずのその男子生徒は、くるりとUターンして脱兎の如く逃げ去っていった。
その華麗なる遁走っぷりに思わず感嘆の溜息を吐くようにほっと胸を撫で下ろすアルアリアだったが、ぜのせんぱいがぽかーんと放心しているのに気付いて首を傾げる。
右確認。左確認。他に人影がないことを何度何度も入念に確認してから、アルアリアはいそいそとぜのせんぱいの正面へ回り込み、彼の目の前で控えめに手を振ってみた。
「………ぜの、せんぱい?」
「………………っ、あ、ああ、いや……」
なぜかアルアリアの仕草を必要以上に熱心に眺めていた様子のぜのせんぱいは、ちょっと恥ずかしそうに咳払い。そして、困ったような照れたような曖昧な笑みを浮かべる。
「今のやつ、俺の級友なんだけどさ。教室では一応多少会話するのに、やっぱプライベートでは俺に関わりたくないのかなって……。あんな勢いで逃げるのは、ちょっと、流石に予想外だった」
「………ぜのせんぱいに、かかわりたく、ない? ……なんで??」
「ああ、まあ、うん……。なんか俺、自分が意識してない所で、相手に失礼な態度取っちゃってるみたいでさ。……一体何が失礼だったのかっていうのすら、いくら考えてもわかんないこと、結構有って。そんなクズなぜのせんぱいだから、身内以外にはほとんど嫌われてるのが現状なんだよねぇ……」
いやあ困った困った、なんて軽く笑って見せるぜのせんぱいだけど、へにょりと情けなく下がってる眉が彼の内心を物語っていた。
(……身内以外に、嫌われる……?)
それは、身内以外を遠ざけたがる人間嫌いなアルアリアとは、また質を異にする悩みだろう。
一歩家を出れば全人類が仮想敵な状態で生きている孤軍のアルアリアにとって、そもそも身内以外の他人というのは、好かれるとか嫌われるとか論じる以前に怖くてたまらなくて可能な限り関わりたくない存在である。
どうも祖母は『それではアカン』と思って自分をこの学園につれてきたようだが、それでも現時点でのアルアリアは自分が他人とうまくやっていけるようになるなどとは毛ほども思っていない。
だからアルアリアは、ぜのせんぱいが言っていることを、本質的に理解することを早々に放棄した。
そもそも、自分のような対人経験値ほぼゼロのクソ雑魚根暗芋女が、ぜのせんぱいのような優しくてすてきでカッコよくてしかも可愛い最強の男の子の人間関係の悩みにアドバイスしてしんぜようなどとのたまうのは、おこがましいを通り越してそれこそ即刻処されて当然な大罪。
身内以外に嫌われてしまうぜのせんぱいに、身内以外を必要としないアルアリアができること――。
「………あ、そうだ」
それは、なにの解決にもならないものではあるけど。でも、落ち込んでいるぜのせんぱいに対して即効性と劇的な効果を期待でき、そして自分もとっても嬉しくなれて、ついでに祖母の願いもちょこっと叶えられるかもしれない、そんなお得な対症療法を閃いて、効率大好きアルアリアは思わずにっこにこの笑顔でそれを口にする。してしまう。
手まで、そっと差し延べてみせながら。その、悪魔の閃きを。
「ぜの、せんぱい。……わたしと、身内になろ?(※意訳:わたしとお友達になりましょう)」
それから、きっかり一分後。
長い硬直と、長い沈黙の果てに。ぜのせんぱいは突如己の舌を噛み切って凄絶なる自害を試み、盛大に喀血して大の字でブッ倒れた。




