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三話横 伏せられた札は翻る

 ――侯爵家長女、レナ=リィンダーナ。


 同性の友人達と共にいつもの通学路をゆっくりと消化していた彼女は、「大聖女様のお通りだ!!」という名も知らぬ男子生徒の警告を遠くに聞き、木陰でそっと立ち止まった。


「……レナ様……」


「……………」


 とりわけ仲が良く勘も良い親友の伯爵令嬢が、全てを察して気遣わしげに名を呼んでくる。

 それに無言で微笑み返したレナは、そのままの表情で遥か遠方へと視線をスライドさせ、他の友人達の視線を暗に誘導した。


「あれは……、ああ、いつもの『大聖女サマ』ですわね。今日も大層お元気なご様子で、本当に羨ましい――」


「お騒がせと言えば、ほら、あそこにいらっしゃる小さなローブの少女。実は『あの機関』所属の魔女様だとかいう、荒唐無稽な噂の――」


「あっ、それわたくしも知ってますわ! あそこの黒髪娘が、そこかしこで号外配りながら吹聴して回ってましたもの。

 気でも触れているのかと思いましたら……、あの様子を見る限り、もしやゼノディアス様の気を引くためにわざと騒いだり三流のゴシップを――」



「―――――ゼノディアス様」


 友人達が結構な毒と共にきゃいきゃい楽しげに語る噂話から、その単語だけを抽出して。レナは、たいせつなものを宝箱にしまいこむかのように、己の豊満な胸へそっと手を当てた。



◆◇◆◇◆



 かつて、文字通りの意味でぽっかりと穴の空いていた其処。

 だが今そこには、肉があり、体温があり、女性として申し分ない大きさの母性の象徴があって――、そして何より、自らを真に乙女たらしめているたいせつな『想い』がある。


 気を抜くと今にも溢れ出しそうなそれを、しかしレナはただひたすらに秘め続ける。


 わかっている。この身は、国の勃興を支えし古き名家の一柱にして、今も尚変わらぬ報国の誓いを掲げしリィンダーナ侯爵家の、たった一人の跡取り娘。

 己の為ではなく。御家の為ですらなく。ただ『御国の為』となる伴侶を迎え、その者に尽くし、その者の子を産み育て、それが終われば人知れずひっそりと息を引き取る。ただそんな人生だけが、レナ=リィンダーナとして生まれた自分に許された唯一の道であった。


 ――それでも。レナは一度だけ、そんな確定した己の未来に異を唱えようとしたことがある。

 否、異を唱えるというよりは『それよりこっちの方が良くありませんか?』と、微かな願望を交えて父にそれとなく提案してみたことがあった。


 だが、それに対して侯爵家当主たる父が返してきたのは、どこまでも明確でどこまでも端的な、一切議論の余地は無いとばかりに頑なな否定の言葉だった。




『あの男だけは、ならん』




『………なぜ、ですの? お父様だって、あの御方が齎した奇跡の、生き証人ですのに……』


『人の治世に、神の奇跡など必要無い』


『っ………、な、ならば、わたくしもあの街も、何もかも全て蹂躙されて滅んでいればよかったとでもおっしゃいますの!!?』


『………。今となっては、そうなっていた方が良かったと、常々後悔している』


『………………そん、な……』


『我等はリィンダーナ。仕えるべきはアースベルム王家只一つであり、「神」に傅くことなど有ってはならない。


 ――まして、「人形師」共に我等が家名を態々貢ぐなど、絶対に有っていい筈も無い』


『……っ、ですが、そんなことを仰られたところで、王家は既に――――』



 ……その会話の続きの記憶が、レナの中には無い。気付けば全治数ヶ月の重症を負っており、ベッドの上での療養生活を余儀なくされていた。


 レナの中に、父への恨みや隔意は無い。むしろ、いつも何を考えているのかわからない父の『本音』に触れられたことで、少しだけ親子の絆が深まったような気さえしていた。


 そう。自分達は、リィンダーナ。アースベルム王家の忠実なる下僕であり、それはたとえ主君が女狐共に誑かされて正気を失っていたとしても、決して揺らぐ事はない。

 ……内心で、どんな忸怩たる想いを抱えていたとしても、だ。



 ようやくリィンダーナの宿命を正しく理解したレナは、己の恋心に鉄の鎖で蓋をして、愛する男性をただ遠くから見つめることを選んだ。

 視線の先にいるそのひとが、たとえ孤独に震えていようとも、或いは財産や肩書き目当てのろくでもない女に騙されかけていようとも、そして気の許し合える少女達と心から笑い合っていようとも、レナが『彼』の隣りに侍ることはない。


 レナの居場所は、もう、そこにはない。



 そう。その場所には既に、彼と気を許し合い、心から笑い合う、あの少女達がいるのだから。




 ――本来レナがいたはずの、その場所に。



 ◆◇◆◇◆



「―――――殺したい」



「……………レナ様」


「…………」


 未だに口々に毒花を咲かせ続ける友人達を、横に置いて。

 躊躇いがちに諫めるような声音の伯爵令嬢に呼びかけられ、レナはいつものように笑顔で『なんでもありませんわ』と返して話を濁そうとした。


 だが、できなかった。引き攣ったように口元を歪め、掠れた吐息を震えながら漏らすのみ。


 ――ダメよ。笑いなさい。なんでもないって、大丈夫だって、ちゃんと言いなさい……!!


 勘の良い親友に、このドス黒く醜悪な願望を悟られる前に――


「憎い、ですか?……あなたが欲しかった、手に入れるはずだった場所を、他ならぬ『彼』自身から無償で与えられ、それが当然のように振る舞っている……そんなあの娘達が」


「……………ええ」


 誤魔化せなかった。誤魔化す気さえ起きないほど、バイアス塗れの主観のことごとくを看破されてしまい、レナはただただ無表情で頷いた。


 まるで、これから悪魔の取引でも持ちかけようとしているかのような、親友の言葉。

 いっそ本当に、彼女が悪魔であってくれたなら――などと人として堕ちきった願いを一瞬抱いたレナだが、残念ながら、目の前の親友はどこまでも人間めいた苦悩の面持ちで何事かを考え込んでいた。


 ああ、自分は間違っていた。自分がひとりで背負うべき咎を、こんなに真剣に悩んでくれるたいせつな親友にまで背負わせようだなんて、一体自分はどこまで愚かな女だったのか。

 やはり、全ては秘すべき想いで、口にしてはならない願いだったのだ。


「ごめんなさい、さっきのは冗談――」


「では、ないのでしょう?」


「…………………そうだけど」


「なら、やっぱり少し、今のうちに少しだけ『ガス抜き』をしておきませんか?」


「? ガス抜き、ですの? ……火山のお話?」


「似たようなもの、でしょうか。つまり、悪い気持ちが溜まりに溜まって大噴火する前に、その気持ちを程良く小出しして、せめて大事故になるのだけは未然に防いでおきましょうということです」


「は、はぁ……」


 わかったような、わからないような。でも、少しとか程良くとかマイルドな感じで『小出し』にするとか言っていたので、少なくとも殺人なんかよりはよっぽど軽めの――『わるいこと』をしましょうという提案のようだ。


 それは、なんというか。


「――たいへん、たいっっっっへん、興味深いお話ですわね……。貴女、やっぱり実は悪魔のご親戚がいたりしませんこと?」


「やっぱりってなんですか!!? 私『は』普通に人間――ッ、…………………………あー」


「お待ちなさい、そのなんとも言えないあーは何ですの? あと私『は』って何ですの、私『は』って」


「い、いいいえ、なっなんでもなんでもないのです、ほんとになんでもありませんわガクガクブルブル」


「そんなにあからさまに怯えておいて、いったい何を仰っていますの!?!?」


「はひぃ、はひィ、か、かひゅ、ひゅーひゅーっ……!!!」


「過呼吸……!?! ちょ、ちょっと、とりあえず、早く保健室へ――」


「いえ、それよりっ、先に『ガス抜き』の詳細を、煮詰めないと……!! レナ様が、レナ様が、取り返しのつかないことに、ウゥっ!!!」


「待って!!!? なに、わたくしはなぜどうなってしまうの!!? ちょっと、ねえ、モニカ!!!」


 ――親友の名を叫び縋るレナも、呼ばれ縋られるモニカも、ついぞ気付くことはない。




 自分達の騒ぎが作り出した野次馬の壁の、遥か向こうから。

 悪魔の親玉と呼ぶべき無慈悲なる陰の者が、じっと見詰めてきていたことを。

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