十話 本能
「ゼノ……お前、とうとうやっちまったのか……」
そこに込められていたのは、まるで前々から怪しいと思って目を付けていた不審者がとうとう過ちを犯した現場に遭遇してしまったかのような、底冷えのする侮蔑と嫌悪、ただそれのみ。
まさかそれが親しすぎる者に対するブラックジョークの一種であるなどとわかるはずのないアルアリアは、いきなり現れていきなり酷いことを言ってくる冷たい雰囲気のその人に、心臓を一思いにきゅっと絞め殺されるほどの恐怖を抱いた。
おかげで轟雷の如き熱いビートは完全に鳴りやんだが、今度は勢い余って凍死一歩手前である。あまりの寒暖差で心が砕けてしまいそうだった。
「兄様……。唐突に現れてなんですかその言い様は。清廉潔白をこじらせて清い身を貫き続けている、聖人の如きこのゼノディアス改めぜのせんぱいに向かって、いささか不敬というものでは?? おぉ~ん??? ほれほれ、なんとか言ってみそ????」
「どの口が言っとるんだおのれは……。不敬というなら、次期公爵に向かってそんなクッソ腹立つ煽りカマしてくるお前の方がよっぽど不敬だろうが。公爵家の名を以て命ず、下座れや愚弟」
「おやおやぁ!? まさか、未だその身が公爵ではないことをわかっていながら斯様に権力を振りかざそうとは! いよっ、さすが次期バルトフェンデス公爵様! 並み居る貴族派の皆様も裸足で逃げ出すそのお貴族様っぷり、ヒュー! カックイー!!」
「よしわかった、お前後で絶対不敬罪からの晒し首な!! 泣いて謝ってももう遅いからな!!? あと絶対俺に晒し首宣言されたとかレティには言うなよ、俺はもうリバーブローと血と地面と涙の味を知りたくはないのだ……」
「……兄様って……。いや、ほんと兄様って……」
ばるとふぇん。次期こうしゃく。――『晒し首』。
ぜのせんぱいと闖入者の口からぽんぽん溢れ出してくる言葉の洪水に翻弄されながら、タイミング良く先程みーちゃんによる予習を受けたばかりだったアルアリアは、かろうじて幾つかの聞きたくなかったキーワードを聞き取ることに成功してしまった。
腕の中のみーちゃんが毛を逆立てて絶句しながら成行を見守っているのを他所に、アルアリアは冷え切りすぎて凍った頭を焦燥という名の火で炙り始める。
(……ぜのせんぱいのおうちは、お貴族さま……。……にいさまって、ぜのせんぱいのお兄ちゃん、ってこと、だよね? ………それで、ええと、この人が、次のこーしゃくさんで、……ぜのせんぱいは、ふけいざいで、さらしくび……、…………えっ、晒し首???)
――万が一のときは一緒に晒し首にされてあげるわ。どうせあんたに貰った命だし――。
先程みーちゃんが、彼女らしくない神妙さを伴って伝えて来た、そんな台詞が思い出される。
こーしゃく様が実際どのくらい偉いお貴族さまなのか、貴族社会に縁も興味もなかったアルアリアにはわからない。しかし、そもそもお貴族様という時点で天上の人だし、そういった天上の人々というのは、もし気に入らない輩が視界に入ったらその人をまるでチリかほこりのように呆気なく無礼打ちにするものだ。
少なくとも、自分がある意味王侯貴族より遥かに貴い存在であるという自覚の無いアルアリアにとって、『お貴族様』というのは、そういう悪意と理不尽の権化みたいな認識だった。
つまりは、アルアリアの知る『ぜのせんぱい』とは、完全なる対極にある存在である。だからこそ、ぜのせんぱいはやんごとなきご身分なんだぜーとみーちゃんにわざわざ忠告されても、ぜのせんぱい=お貴族様という公式を成立し得ないものとして無意識にスルーしてしまっていた。
しかしここにきて、きちんとみーちゃんの言葉を咀嚼しなかったことを大量の冷や汗と共に悔いることになる。
そしてその後悔は、自分達の生殺与奪を握っているであろうその人を、怖いもの見たさではないけれど、ついつい無意識に目にしてしまったことで決定的なものとなった。
「やかましいわ、そんな哀れむような目で俺を見るな。本気で処すぞお前」
そんなおそろしいことを、まるで軽い冗談か何かのように口にする、まさに天上の人といった雰囲気のその人。
これでもかとキラキラに輝き、見る者の目を焼かんとする金色の髪。果てなく透き通りすぎていて、見渡す限りに寄る辺のない大海を思わせる碧の双眸。そして、周囲の全てを見下ろすことが生まれた時から宿命付けられているかのような、小柄すぎるアルアリアと比較してあまりにも高すぎる背丈。
――アルアリアの想像にしかいなかった『わたしの考えたさいきょうのきぞく』が、今、目の前に確かな血肉を伴って立ちはだかっていた。
「はわ、はわ、はわわわあわわわ……!!?? (みっみみみみみみみぃちゃ、ちゃ、ちゃっちゃ、ちゃちゃちゃちゃ――)」
「み、みぎゃ、みゃみゃみみみ……!!?? (おちお、ちつけっつけつけつ、ありありありありありありあり――)」
貴族に対して大体アルアリアと似たようなイメージを持っていたみーちゃんも、たまらずアルアリアと一緒に仲良く脂汗をだらだら流しながら、二人して声にならない悲鳴を上げて抱き合いながらがくがくぶるぶると震えあがる。
ヤバい。この人、ほんものの貴族だ――!!
「ぎにゃー!! (助けてありああぁあ!! あたし、やっぱりまだ死にたくないよぉおおぉぉ!!!)」
「はわぁ…………………………」
「うにゃう!!? なうなぁにゃう!!!(一人で勝手に気絶してないで!!? お願い、ひとりにしないでよぉ、あたしも一緒に夢の世界へ連れてってよぉぉおおお!!!)」
ぴょんぴょん跳ねて死に物狂いでアルアリアに心臓マッサージを施すみーちゃんだったが、薄情なご主人様は一人で安全地帯へ旅立ったまま返ってくることはなかった。
取り残されてしまって涙を流しながら孤独に震えるみーちゃんに、キラキラのお貴族様が顔を寄せてくる。
「なんだ? いきなり騒ぎ出したな、そいつ。お腹でも空いてるのか――っと……?」
その時。まるでみーちゃんとアルアリアをお貴族様から庇うかのように、二人を抱く少年が身体の位置を入れ替えた。
「兄様。そうやって、あんまり女の子の胸元を凝視するものではありません。
――殺すぞ、糞が」
「え、なにそのションベンちびりそうになるくらいの殺気……。え、やめて、怖いこわいこわいこわい……、ちょ、お、お前、わりと本気で、怒って、る……?」
泣く子も黙るお貴族様を視線ひとつで震え上がらせる、血に飢えた黒狼の如き輝きを金の瞳に宿す少年。
今にも食い殺さんばかりに牙を剥く大狼を思わせる雰囲気に至近距離であてられてしまって、お貴族様より先にまたおもらしそうになるみーちゃんだったが、幸い今は膀胱が空っぽなので難を逃れた。もうちょっと溜まってたら確実に景気良くじょばあっといっていただろう。
ありあはおしっこ大丈夫かしら、と主人の身を案じかけたみーちゃんだけれど、そういえばこの子既に安全地帯に退避してたわね……と一気に冷めた気持ちになってしまう。
「にゃう(ありあのばか……)」
「………………………………はわっ!!」
「んにゃっ?(え、ありあ、起きた?)」
寝落ちしかけた時によくあるアレの如く突如びくんっと跳ねたアルアリアは、焦点の合わない眼であたりをふらふら見回しながら、魂の籠らぬふらふらとした手つきで、なぜか少年とみーちゃんを押しのけようとする。
この子……、まさか、まだ意識戻ってない……?
「……? アリアちゃん……?」
「はひぃ…………ひぃぃ…………」
か細い息を震えながら吐き出すアルアリアの異様な様子に気付き、少年が心配げに声をかけてくる。だが未だ正気を取り戻していないアルアリアは反応を示すことなく、ただただ弱すぎる力で少年の抱擁から逃れようとしていた。
「……おい、それ、やっぱ嫌がってるだろ。何があったか知らんが、いくら女に飢えてたからといって、無理矢理女の子を男子寮に連れ込んで手籠めにしたら駄目なんだぞ?」
「い、いや、そんな、こと……は……、…………」
金髪青年に、先ほどまでとは違ってどこか親身にも感じる優しい口調で当然すぎる常識を説かれて、少年は押し黙る。
アルアリア同様、少年の心の声が聴けるみーちゃんは、少年がなぜ事実無根の冤罪に反論しないのかが気になってなんとなく耳を澄ませてしまい――そして呆れた。というか、恐怖も尿意も忘れるほどに心底あきれ返ってしまった。
(この子、今の台詞をちっとも『冤罪』だと思ってない……)
痴女的な行動を取りまくった挙句に身の潔白を主張していたアルアリアとは、全くの正反対。
明らかな善意であれこれとご主人様の世話を焼いてくれたはずの少年は、そこに自覚していた自らの『下心』ゆえに、自分のおこないの全てを『訴えられても文句は言えないレベルの痴漢行為』と捉えてしまっていた。
どうして、と、みーちゃんはその時初めて、その少年の心の歪みに疑問を持った。どうしてそんなに、自分のことも、相手のことも信じられないんだろう。過去に、何かトラウマでも抱えているのだろうか?
――残念ながら、猫の身にはそれを理解することはできない。もしそれを理解できるとしたら、それは、あたしではなく――。
「……はひっ、…………ひ、ひゅっ……」
「ほら、『離して』ってさ。いい加減、未練がましい真似はやめろって。な? ……流石にこれ以上は、俺もちょっと、迂闊に庇えなくなっちまうから……。頼むよ、ゼノ……」
「………………、は、い」
咎めるのではなく、諭すのでもなく、最後には哀願のように悲し気な目で礼までされてしまって。それで少年は、ようやく金髪青年の言葉と現実を受け入れた。
ゆっくりと、解かれる抱擁。ぴょいと地面に降り立ったみーちゃんに見守られながら、意識喪失状態のアルアリアは座り込んだままぺたんと床に手を置き、そのまま――
「……ひ、ひゅっ…………、ひゅぅ、ひ、ひ……」
肺に穴でも空いてしまったかのような、聞いていて不安になる甲高い呼吸音を僅かに響かせながら、
「はひぃ、ひっ、……、………ふぅっ、フぅっ……」
のたのたと。厚いローブをずるずる引きずりながら、どこまでも鈍くさい動きで、四つん這いとなって、無様に床を這い、
「………は、ひゅっ、…………ふぅっ、ふぅっ……!」
思わず一歩後ろに退いた金髪青年と、そしてへたり込んだまま呆然と見守る少年の間に、小さい身体を割り込ませ、
「………………ふ、ふしゃー……!」
ぷるぷる震える両手を心持ち左右に広げたと思ったら、そんなまるで少年とみーちゃんを背後に庇うようなポーズのまま、金髪青年に向かって牙を剥いて威嚇音を発する。
『………………………………』
「……ふ、しゃっ、……、ふしゃー……!!」
呆気に取られて目を見開くことしかできない一同の中にあって、ただただアルアリアだけが、明確な意思と主張をその行動によって示していた。
――いじめるな。ふたりは、わたしが護る!!!
「ふしゃあぁ――!!!」
ご主人様の意識は、相変わらず戻っていない。
そのことをみーちゃんだけはわかっていたし、そもそも正気だったら絶対ご主人様にこんな真似はできないだろうな、命賭けてもいいわ、などと冗談っぽく思ってたりする彼女だが、ちょっと謎の感動で胸が詰まって何も言えなくなってしまっていた。
命を、賭ける。――『万が一の時は一緒に晒し首になってあげる』なんて言った自分だけど、まさかこの気弱なご主人様が身命を賭して自分のことを護ってくれるだなんて思ってもいなかったので、ほんのわずかな罪悪感と、そしてそれを容易く燃やし尽くしてしまうほどの熱く滾る何かがこみ上げて来て、たまらず「なぁおぅッ!!!」と遠吠えのように叫んでしまう。
いきなり聞いたことの無い鳴き声に打ち据えられた男二人は、固まっていた身体をびくんと跳ねさせてしどろもどろ。
「お、おう、な、なんだ、まあ、ちょっと、色々俺の勘違いだったみたいだな、うん、悪かったなゼノ、なんかこう、えっと、マジごめん」
「い、いや、べつに勘違いってほどじゃないし、俺はその、実際、二人を無理矢理部屋に連れ込んだのは事実で――」
「ふしゃー!!!!!」
「……………え、俺、今なんか怒られた……?」
そうだよ、あんたがあんまり馬鹿なことを言ってるから、うちのご主人様が激おこだよ、しょーねん。
みーちゃんは思う。もしかしてありあったら、正気を無くした状態の方がうまく人と付き合えるのかしら? 先程へべれけ状態になっていた時も、少年に向かって実に素直に『ここにいて!!』って自分の気持ちを言えていたし。
ほんと、難儀な娘ねぇ……なんて、お姉さん風を吹かせながら、みーちゃんは愉快な妹に笑いが堪えられない。
どうやら件の金髪世年は思っていたようなわがまま貴族というわけでもない様子だし、もう良い感じに話がまとまりかけている気配でもあるけど、みーちゃんはご主人様の雄姿に報いるべく彼女の隣に並び立った。
「なぁおーう!!」
「ふしゃぁー!!」
二匹のけものに闘争心剥き出しで吠えかかられて、金髪青年は泣きそうなほどにへにょりと眉尻を下げると、くるりと身を翻して鼻を啜る。
「…………そんな吠えなくても、いいじゃないか……」
「……えっと、兄様……、なんか、ごめん――とは、言わないぞ」
「ああ、わかってるよ。お前はカンチガイ野郎なクソ兄貴を慰めるより、自分のためにがんばってくれる女の子達を選ぶような兄不幸な弟だもんな」
「いやそれ当然では?」
「そうだな。だから、謝るな。……むしろ、俺もほんとごめんな。……あと……」
金髪青年はずずっと鼻を大きく啜ると、『え、まさかガチ泣きしてた……? この子も残念いけめんなのね……』と若干態度を軟化させたみーちゃんや、未だに「ふしゃー!!」をやり続けてるアルアリアにきちんと正対し、腰を折って深々と頭を下げた。
「――ゼノにも、キミ達にも、勘違いで失礼なことを色々言ってしまって、本当にすまなかった」
「…………ふ、しゃ……?」
お貴族様が、たかが小娘と子猫に、誠意を以て謝罪する。その重大なエラーが不可避なあまりの意味不明さにより、アルアリアの脳が事態を理解すべくようやっと正常な動きを取り戻し始める。
とはいえ、まだまだ本調子には程遠い。目をぱちぱちと瞬いて白黒させてるご主人様に代わり、みーちゃんはちょこちょこと金髪青年の足元に歩いて行って、彼の靴にぽんと前足を乗せた。
「みぃ。みーぅ?(ま、許してやんよ。てか、あたしらも怖がらせてごめんな?)」
「……そう言ってくれるか。ありがとう」
「……み? (え? こいつ、まさかわたしの言葉が聞こえ――)」
「さて、な。……無事にお許しも頂けたことだし、俺はそろそろ行くとするよ。またな、みんな」
意味深な態度と別れの挨拶だけを残して、すっきりとした顔の金髪青年は言葉通りに何処かへと去っていく。
中々裏とか含みの有りそうな青年だったが、みーちゃんの中にはもう彼への恐怖や猜疑心は無い。しょーねんと同じく、見た目はともかく中身は全然お貴族さまっぽくない好青年で、そしてやっぱり猫とかに語りかけちゃう系の残念いけめん。
最初はどうなることかと思ったが、終わってみれば、ご主人様の胸を熱くさせるような雄姿と愛に触れられたり、しょーねんの抱いていたらしい変な罪悪感もほぐれたり、お貴族様にもいろんな人がいるんだなと世界が広がったりと、みーちゃんにとっては収穫尽くしでほくほくの邂逅だった。
しかし。ここに一人、時代に取り残されしいにしえのアルアリア有り。
「……みっみみみみみみみぃちゃ、ちゃ、ちゃっちゃ、ちゃちゃちゃちゃ――、あ、あれ、おきぞくさま、どこ……?」
「みゃお……(そっからかい……)」
気絶前の時間からタイムスリップしてきたご主人様に、呆れたような鼻息を吐きつつ。みーちゃんは、世話の焼けるご主人様と、そんなご主人様にいつからか無言で熱すぎる眼差しを送り続けていたしょーねんを見比べて、再度溜め息を吐いた。
(――ありあ。あんた、これからしょーねんにぐいぐい来られても、もう自業自得だからね。あたし、しーらないっと)
(いきなり見捨てられた!!?)
愕然とするご主人様をさらっと捨て置いて、みーちゃんは『ねっこまんま♪ ねっこまんま♪』とまだ見ぬお昼ご飯に向けて妄想を膨らませるのだった。




