十三話 貴方の罪と私の罪
クリスは今、アンネと向き合っている。彼もケインのように、ちょうど起きたばかりに呼び出されたのだ。
正直、クリスはその事が意外だった。アンネがそこまで積極的に向かい合ってきた事などなかったから。
前々から互いに何か感ずるものがあると脳裏で理解していながらも、クリスは敢えて話し合おうとはしなかった。それはまた、アンネもそうだった、はずだ。
むしろ避けていたかもしれない。理由は分からないが、とにかく深くまで探り合う事を忌避していた。
「まずは、ケインさんを助けに行ってくれた事、ありがとう。それに、生きて帰って来てくれた事も」
「別に、あれは僕が助けなければいけない理由があったから助けただけです。そんな、感謝をされるような立派なものではないんです」
アンネはパチパチと瞬きをして驚いた。彼女の予想していたものとは違った答えだったからだろう。
「クリスさんがそんな事を言うなんて思いもしていませんでした。クリスさんは…… 私の考えていたような人ではなかったんですね」
その言葉に、悪意は無いのだろうけど。クリスはアンネの言葉の中に棘を感じ取ってしまう。
クリスは期待を裏切るのが嫌いだ。幼き頃の記憶が、未だに嫌悪感を引きずり続けていた。
だから、怯えている。アンネの中の自分が綻んだのを知って、この先に何が起こるのか。
「私はケインさんを置き去りには出来ないと言って、それでも助けに行く勇気の無い臆病者ですから。
私ができなかった事をクリスさんがやってくれたのが、嬉しくて、そして悔しかった」
勇気の無い、臆病者。そんな訳があるはず無い。少なくとも、アンネは自分の欠点を外に打ち明けている。それは十分立派なものなのに。
その言葉は、むしろ。
「貴方は、自分の為に善を行っているのでしょう?」
心臓を掴まれた気分だ。アンネは、クリスの事を理解している。してしまっている。
クリスはそれが恐ろしかった。誰かの為に動くという名分で、自分の欲を満たしている事など知られたくなかった。
「それはッ!」
クリスは叫ばずにはいられない。弁明し、自分が、自分が偽善的な人間である事を隠蔽しなければ。
その叫びをも意にも介せず、アンネはそのまま語り続ける。
「私は羨ましいんです、貴方が。クリスさん、貴方は貴方の為に善を積む事ができるから」
クリスはその考えが理解できなかった。
「それなら、それほどまでに分かっているのなら、どうしてそんな事を言えるんですか。以前、僕はアンネさんに【小傷】しか使えない事を伝えたのに。医術師であるアンネさんなら、それが何を意味しているかなんて分かっているでしょう」
呪術に無くてはならないものは、己の意思。だから適性が無い者は、特定の呪術を一生使用できない場合すらある。
攻撃呪術を除いた、医術師の呪術に必要なのは、他人を慈しむ心。
医術師としての才能を持った騎士──聖騎士と呼ばれる存在なら、持っていないはずの無い力だ。
「だからこそ、ですよ。偽善だからこそ、素晴らしいんです」
「どういう、意味ですか」
「そのままの意味です。偽善こそがこの世界には必要なんです。だって自分の為に誰かを助けるからこそ、何よりも強い力になるから。現に貴方は、ケインさんを見捨てずに救い出してきた」
……そうなのか?そうなのかもしれない。僕は僕の為に力を尽くし、結果としてケインを救った。
「許されて良いんでしょうか。こんな、邪な気持ちが。相手の事をどうでもいいと思っている癖に、自分の都合で助けるなんて事が」
アンネはゆっくりと瞼を閉じる。そして、迷い子に諭すような柔らかな声でこう話した。
「本当に清く澄みきった善行はとても儚いもので、強い人しか続けていくなんて事はできません」
例えば、ある物語。一人の善人が飢えた男を養うとして。金が尽きてしまえば、男を養う事もできなくなった。
次に、一人の商人が彼を引き取った。商人は男に学を与え、仕事をやった。すると男は力を発揮し、商人は優秀な右腕を得る事となったのだった。
簡単に言えば、これのようなもの。善とは身を削る行為である。善の道を進めば、その道は苦悩に満ちたものだろう。
「ええ、だから貴方は間違っていません。他ならぬ、善の戒律を刻んだ私が認めましょう。貴方の行っているのは紛れもなく善なんです。どうして自ら蔑む必要がありましょうか」
アンネは瞼を軽く持ち上げ、薄目を開く。そこからは、紅玉のような美しい赤光が漏れ出していた。
まるで、おとぎ話の『聖女』の瞳と同じような優しさに包まれている。
クリスは、いつの間にか不安になっていた。自分が昔から覆い隠してきた欠陥を暴かれて、軽蔑されるものだと思っていた。
こんなに、いとも容易く許されたって、今まで悩んできた事はどうなるのだろう。
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしくて堪らない。認められるというのは、これほどまでに恐ろしいものだっただろうか。
こうも満たされてしまうと、不安でしょうがなくなってしまう。こんな欠陥だらけの自分が、認められていい訳が無いのに。
「それでも、それでも僕は駄目なんです。幾ら偽善を行おうとも、僕は僕自身が騎士として失格だということを知っているから。こんな欠点だらけの僕では、認められてはいけないんです」
「多かれ少なかれ、誰でも欠点は持っていますよ。違うのは、それに立ち向かうかどうかだけ」
それを言ったアンネの手は、震えていた。
「クリスさんは、自分の事を話してくれましたから。私も話さなきゃいけませんね。クリスさんが【軽癒】を使えないように、私が【小傷】を使えないのは。それは同じ、覚悟の問題でした」
「アンネさん、そんな事をしなくても。僕は確かに、貴女に励まされた。だから震える体を抑えてまで、言わなくてもいいのに」
アンネはまた、クリスの言葉を聞かなかった。けじめを、区切りをつける必要があるからと。
「私、この都市に来るまで、色んな戦場で医術師をしてたんですよ。
魔物の攻撃は迷宮の怪物の何倍も凄かったから、医薬品だけでは全く治らなくて。だから【軽癒】を使える私は駆り出されたんです。いえ、望んで行きました」
赤く染まりあがった荒野と、むせ返るような臭い。正にあの、汚泥のようなおぞましさ。
【軽癒】では、全力を奮っても欠損は治せない。戦いに挑んだ戦士達は、死して腹を裂かれた魔物の内か、或いは剣を振るえなくなるか。それが大半の者であった。
「それで、ある時、私の居た治療所が魔物に奇襲されました。戦う術の無い人達が、ことごとく殺されていきました」
「そんな……」
「クリスさん、どうして私が助かったんだと思いますか?」
「……」
大体の想像はつく。そういう場合は、逃げるか隠れるかだ。そして大抵はろくな目にはならない。
「私は、後輩の子に助けて貰ったんです。とても、可愛い子だったのに。私よりも非力で、呪術も使えなくて頼りなかったのに。あの子には魔物に立ち向かう勇気がありました」
アンネはその後の事を話さなかった。「そして、赤い血肉がアンネの頬に飛び散った」というのが事の顛末だろう。
「私には覚悟が有りませんでした。戦場に立つという事も理解していなかった。私は、自分が傷つけられる事も、誰かを傷つける事も嫌がっていたんです。
あの時、【小傷】を使ってさえいれば。あの子だって死ななくて済んだのに」
……どうしてなんだろう。彼女はどうしてこんなに傷つく必要があるんだろう。献身的で、慈愛の心を抱き、いつも僕達を癒してくれる彼女が。
それは偶然、彼女が不幸な目に会っただけだろう。人が傷つく為には、どんな小さな切っ掛けだけでも十分だ。
どうしてなのだろう。震えながらも僕達を助けてきてくれた力強い彼女が、こうもか弱く見えるのは。
それは、彼女もまた人間だからだ。ただ一人の人間だから、こうもか弱い少女なのだ。僕が、勝手に大きく見てしまっていただけで。
そしてきっと、僕が彼女を傷つけた。彼女が自身の過去を明かすのが、互いが互いの心を読み解くのに必要だった。
そうまでして僕の中を知る必要なんてないだろうに。
それでも、彼女の目から落ちる涙に、僕は僕の傷口を少しだけ開こうと思う。
「僕は、本当は騎士になった事なんて一度もないんですよ」
後悔はしない。
「え?」
突然の発言に、もちろんアンネの口からは驚愕が零れ落ちる。
「僕は、僕の父が騎士だったように騎士を目指して、そして何にもなれませんでした。それでも、こうやって騎士になる事に固執しているんですよ。
貴方の言った通り、立派な人間ではありません」
自分は立派な人間では無かったのだ、とクリスは心の中で繰り返した。
ただ自分が立派だと認められたくて、褒められたくて何かをしていた。
「僕は他人をどうでもよく思ったままで、それでも認められたくて誰かを助けようとしたかったんだ」
でも誰かを助け、認められるには何かを想う必要があって。
「私は傷つくのも傷つけられるのも恐れたままで、それでも苦しんでいる人を助けたかったんだ」
でも苦しんでいる人を助ける為には、危険へと飛び込んでいく必要があって。
必要な事から目を逸らしたままに、そのまま進んでいってしまった。だから、より深い傷痕が心の中に刻まれた。
「私とクリスさんは、同じなんです。だから、私はクリスさんを掬い上げる事で、私自身も救おうとした。でも、そんなの何の意味も有りません。それにすら気が付きませんでした」
自分の心の弱さからは、どうしても目を背けたくて、逃げたくなってしまうけど。そんな事ではずっと停滞したままだ。
いつかは変わらなければいけない。でもその最初の一歩を踏み出すのには、とても大きな勇気がいる。
ウダウダと考えていても、結局はそうだ。アンネがクリスを救ったとしても、それはクリスが立ち直っただけ。
それを見て元気づけられる事が有っても、自分の弱みを超克し、駆け上がっていく為の決め手にはならない。
最後は自分が自分自身の意思で前に進まなければ。
「でも、私は弱くて。こんな小狡い事をしなければいけないほど弱くて。勇気が欲しかったんです。だからこうやって……」
縋りついた。
「だから、クリスさん。私を助けてください」
クリスは応じざるを得なかった。こうやって助けを求められたなら、助けずにはいられない。
それは、いつものようにクリスがやっている事と同じ、自分を慰めるものでしかないのかもしれない。
それでも。クリスは初めて、アンネの事を心の底から助けたいと、そう思った。
「分かりました。貴方を助けましょう」
……
『小傷』
敵に過剰な回復を掛け、腐敗させる
過剰なほどに込められた民の祈りは、やがて勇者を灰へと変えた