十話 深淵より這い出よ、泥濘の騎士(前)
はぁっ、と強く肺を潰して息を吐く。そうして込められた力を使って、犬鬼の振り下ろしを円盾によって弾き返した。
隠しきれない獣の臭いと、パラパラと零れ落ちていく円盾の破片の匂いと。そして、微かにこびり付いている汚泥の臭い。
短槍の刃を打ち付ければ、犬鬼が突き出した爪が削れて、炭化していく。ガリガリと削れては、少しずつ熱が犯していく。
噛みつきに突進に振り払いさえ全て円盾で受け流す。木板は凹み、骨は軋む。それでも何度か傷を受けながら、浸透する火傷の烙印を刻んでいった。
最後は喉を突き破って打ち倒す。地面に倒れ、消えていく死体を尻目に通路を見渡すと。
後には一、二、三……ああ!どうしてこんな狭い通路にこうも集まるのだろうか。
八体──ケインが今倒したのを含めると九だ──もの犬鬼が涎を垂らし、牙を剥き出しにしているではないか!
「シエラ、早く【入眠】を唱えてくれると助かるんだが?」
「ええ、ちょうどそう言われると思って、もう準備できてるわよ。【入眠】」
薬粉は一塊となって床に投げつけられ、地を這うように犬鬼達に絡みついた。
鼻腔へと確実に薬が侵食していって、残りの立っていたのは三体だけだ。
最初から使っておけよ、とケインは一瞬思いかけた。だが、遭遇自体は偶発的なものだったから、先手を取れなくても仕方がない。
そう考えつつ目の前にいた犬鬼に対して刺突を放つと、雑念のせいか、急所は外れて肩に刺さる。やはり、戦闘中に気を抜くような考え事は禁物だ。
抜こうとしても引っかかっているので、ケインは槍を諦めて、犬鬼を殴りつけた。
左、右と軽快に正拳を放ち、時に円盾を叩きこんで見るけれど、獣の筋量に阻まれてあまり損傷を与えられていない。
鉤爪を円盾越しに押し込めたり、失敗してわき腹を抉られたり。
大きく口を開く噛みつきには円盾を噛ませて、返しに空いた右手で目を潰す。
悲鳴を上げて倒れ込んだ犬鬼の首を締めようとしたケインは、あの鉤爪で暴れられては堪らないと思い直した。
胸に足を置き、犬鬼の肩に刺さった短槍を思い切り引き抜く。そのまま掲げた槍を下に下ろせば、刃は心臓を食い破って命を奪った。
その間、エイベルは二体の犬鬼を危なげなく捌いており、クリスとドナは寝沈んだ者共の喉を突き回っている。
犬鬼の鉤爪と強打がエイベルの大盾に当たるたび、重く粗い金属音音が鳴り響く。
二匹ほどは余りの煩さに目を覚ましつつあるが、残りは血溜まりに溺れて二度とは目を覚まさない。
【火弾】
しかし起き上がる事を許してやる理由もなく、無慈悲にシエラは火を放つ。
ケインはエイベルに纏わりつく二体の脳髄を穿ち、クリスも火の破片で焦げた犬鬼をなます切りにした。
もう他に敵影は無いだろう。
戦闘が終わったと分かるやいなや、ドナは金貨を拾い集め、他の皆は傷の点検を始め出す。
【軽癒】
この探索で何度目かの光を眺めつつ、ケインはその温もりに身を委ねた。
「アンネ、いつもありがとうな」
ケインがお礼を言えば、アンネは誇らしげに、少し胸を張った。
「いいえ、これが医術師としての役目ですから!」
そうしてわき腹の痛みも失せた所で、ドナ達も金貨を拾い終わったようだ。
布袋に収められていった金貨は二十九枚。珍しい事に、犬鬼は金貨を落とすだけでなく、幾つかの布袋や背嚢をも置いていった。
所々に飛び散った血痕を見るまでもなく、これは探索者の遺品なのだろう。
宝箱へと納められる前に、ケイン達が運び屋を襲撃した形になったのだ。
全ての袋の紐を解いて、要る物は近場に置き、要らない物は遠くへ放るなり雑に分別していく。
……ああ、必要なものを貰っていくとはいえ、こうも残っていると嫌気も差すな。
鎧の一つや銀貨数枚などなら、まだ死が希薄だから耐えられるものの。
人数分の背嚢をまじまじと見ていると、あの汚泥のようなおぞましさすら感じられる。
ケインの口から、言葉がポロリと零れ落ちた。
「いつになったら慣れるのやら」
袋という袋をぶちまけて、刺繍で縫い付けられていた隠し銭さえ剥ぎ取った。
水薬──それもケイン達の持っている最下級希釈霊薬よりも高等な下級希釈霊薬だった──が二本、未鑑定の短剣が三本に巻物も一枚。ついでに銀貨三十五枚と金貨十七枚だ。
他のものは、瓶が割れて中身が無くなっていたり、荒縄などのもう持っているものだったりした。
恐らく、金持ちの子女だったのかもしれない。資金を注ぎ込んで装備を整え、迷宮に来て何体かの怪物を狩ったはずだ。
それで、汚泥か何かに殺されたのだろう。徘徊していた犬鬼達や、他の怪物に遺品を漁られた。
元あった水薬三本を後衛に一人ずつ、そして今手に入ったものをケインとクリスが手に取った。
……これは俺達が上手く使ってやるさ。だから恨まないでくれよ。
カリカリと自分の善性が削れていくような後ろめたさから目を背けて、ケインは自身を正当化しようとしていた。
少なくとも彼ら、あるいは彼女らの願いも、迷宮の先にあったのだろうから。その意志を少しでも受け継いでいく為に、前に進んでいかなければいけないのだろう。
……更に先へ。下へと潜る階段を探せ。それはきっと、この通路を辿っていけば見つかるから。
靴の鋲を絶やすことなく鳴らし続け、更に奥深くへと、一党は進んでいく。
……
血飛沫を上げて、怪物共が倒れていく。
玄室に入ったケイン達は、瞬く間に大コウモリ、大ミミズの群れを倒していった。
犬鬼にはまだ、完全に実力が上回っている訳ではないのだが、そろそろ下の階層に降りても良い頃なのだろう。
金貨を広い、そしていつものように宝箱に群がっていく。
それからまた、いつものように。ドナの持つ小さな刃が、罠を少しずつ解いていく。
「あっ……」
ドナは手先に僅かな違和感を感じ取ったらしい。今解除している罠は、確かにドナの見立てでは毒針の罠のはずだ。
なのに構造は全く違っていて、刃の先が触れてはいけない場所に触れてしまっていた。
ドナが咄嗟に身をよじると、腹に太矢が深々と突き刺さる。
「い、たい……」
ドナは斥候だから、痛みにも、傷そのものにも、全く耐性が無い。
このまま放っておけば死ぬ可能性だってあるだろう。
これはまずいと、アンネは蹲るようにして座り込んだ。傷を庇っているドナをひっくり返して、傷を癒す準備をする。
「太矢を抜いた瞬間に、私が【軽癒】を唱えます。合図を出すので合わせてください」
そう言ったアンネは、少しでも早くドナを苦痛から救おうと、すぐさま【軽癒】の祈りを始めた。
「……少しの我慢だ。耐えてろよ」
エイベルが励ましの声を投げかける。
「ドナは確かに変わった奴だが、それでもここで死んでいいはずはない」
その言葉が届いたのか、ドナの体に入った力は少しだけ弱まっていく。
そして、そのちょうど良い瞬間に、アンネも呪術の準備を終えていた。
「今です!」
ぐい、と力を込めて太矢を引き抜くと、潰れた鏃が現れた。それに加えて、ドナの血が、鮮やかな赤色も吹き出してくる。
「アアア゛ッ!!」
悲鳴をかき消すように行われる、呪術の宣言。
【軽癒】
光が傷口を縫い進んで行く。幸い、すぐに塞がった肉のおかげで出血はすぐに終わった。
それでも勢いが凄まじかったものだから、それなりの血が失われたのだろう。ドナの顔は少しだけ青白くなっていた。
エイベルはドナの背嚢から水薬を取り出し、少しずつ飲み込ませる。瓶を傾ける度に、喉がか細い音を立てて薬を流し込んでいく。
「こうやってると、死にかけの妹に薬をやったのを思い出すんだ。お前は死んでくれるなよ」
ドナは黒い瞳の中に、エイベルの憂いた顔を見た。そしてコクリと大きく首を傾けて、もう大丈夫だ、と言った。
それからしばらく休息を取って、水薬がドナの血を補うのを待った。引くにしろ、進むにしろ、ドナがまともに動けなければどうしようも無い。
ドナが回復したのを見計らって、ケインは話しかける。
「ドナ、お前が本調子じゃないなら、迷宮は進んでいけない。だから今日は帰還しようと思うんだ」
ドナは何かを言おうとして、その寸前に口を閉ざした。目を閉じて少しだけ考える。それから目を開けて、代わりの言葉をケインに送った。
「そうですね、体力はもう問題ないですが。呪術の回数も考えないといけませんし、ちょうど良いんでしょう」
ドナは、滅多に見せない笑顔──とはいっても慣れていないのだろう、随分とぎこちない笑顔だった──を見せた。
それから宝箱の中身も取り出し、何事にも問題ない事を確かめる。
欠落している荷物も無い。もう傷を負っている者も居ない。それじゃあ行くか、とケインを先頭に歩いていく。
行きはドナが先頭で索敵していた。けれども、流石に負傷して早々先頭に、というのは酷だろう。
そういう訳で、ドナはシエラの横でお留守番だ。なに、後方警戒をしてくれている分、前衛の負担はそう変わらない。
──罠を踏む可能性が高まってはいるが。
少なくとも、今の強さなら一層では即死しないだろう。強化された戦士の肉体はそれほどヤワではない。
実際、エイベルが感知板に足を置いて、太矢が放たれたけれど大盾で防ぎきった。
冷や汗は出たが、罠を乗り越えられたという事実は、一党に勇気を与えた。
戦闘においても、確かに先手を取れないのは痛くはある。だが何事もなく小鬼共を鏖殺できた。
ドナは自分が仕事をしない分、危険が増えると怒っていた。でも、帰還するだけならこのままでも間に合う。
ケインは、案外危険もなく帰れるなと思った。
その通り、少し前に汚泥を殺したあの場所まで残り半ばといった所。そこまでは接敵もなく進んでいけた。
──少なくとも、そこまでは。
……
『汚泥』
探索者の亡骸を塗り固めて作られた不定形の怪物。
汚泥は探索者を倒すことで数を増やし、その生命の維持を迷宮に依存していない。
汚泥の目的は──【規制済み】