人間精神の根本的堕落
その日、私は新宿駅で女を待っていた。と言っても待ち合わせ時間からとうに三十分は過ぎていたし、向こうから連絡も無かったからその時点で約束など無いようなものだった。有り体に言って私はフラれていたのである。
その女との約束以外に予定は無かった。だから私はあえてその場を去る理由を持たなかった。空は白々しいほどの青であったのを覚えている。日の光が肌に痛かった。駅の外壁に背中を預け、往来の人々を何の気なしに眺めていた。こうして見てみたら色々な顔をした人がいるものであった。馬のように面長な女性から、河馬のように顎の膨らんだ男性。不自然なほど赤らんだ唇、線を引くように細い目、採掘場染みたあばた面、黒ずんだ鼻、ゾッとするほど広大な額……
暫くして、突然、私の耳に騒々しい怒号が響いてきた。見ると、アトレ前の車道に一台の白いワゴン車が止まっていて、その上には、やはり白い装束をした丸刈りの男が、眉根を顰めて仁王立ちしていた。男は拡声器を口に当て、何事かを叫んでいるが、無関心な雑踏に阻まれて意味のある言葉として私までは届かなかった。特にやることはなかったし、私は近くに寄って話を聴いてみることにした。
「人間精神は根本的に堕落している!」男は繰り返し叫んでいた。「人間精神は根本的に堕落している! 恐るべきこの事態は、何も今から始まったことではないし、誰彼が主犯というわけでもない。既に人間一般は根本的に堕落している。そこに罪の軽重があるわけではない。軒並み堕落しているのだ! 右を見よ、左を見よ、上を見よ、そして、……下、水面に映った自らの顔を見よ」
彼の主張に従い足下に視線を移したが、直近一週間はずっと晴れで、水たまりなどまるで無かった。私は少し落胆して、視線を男に戻した。
「堕落している、全員が全員、堕落している。逃れの罪はない。彼女も、あいつも、お前も、落ちている。敗北している! 加えて言おう……私もまた、堕落し、敗北している! 何にだ? 何に敗北したというのだ? あえて問うてみる……何が我々を転ばしたというのだ? 何が我々を奈落に突き落とした!? ここは寒い……日の光届かぬ影の住人たちよ、ユラユラと揺らめく虚像に足をすくわれ続け、しかもそのことに気づかない愚鈍な盲の群れよ。哀しき暗闇よ、覆われた真理よ、渦巻く撞着よ……何もかも手に残らぬ空しさよ!
我々の生に一体何の価値があろうか! そもそも、生の根源的在り方とは何か。愛とは何か、結ばれるとは何か、友情とは何か、幸福とは何か。我々は何も知らないし、何も所有しておらず、何者でもないのである。知っているか? 我々の身体を含め広く宇宙に遍く物質は並べて原子により構成されるが、原子とは素粒子の集合たる原子核と電子により成り立つ。だが、素粒子も電子もその大きさはゼロだというではないか。では、我々のこの、ゼロから構成されながら、しかし確かな大きさをもった身体とは一体何だというのだ!」
「彼はミクロとマクロを混同しているようだ」
その言葉は私のすぐ右隣の、前歯の欠けた中年の男性から発せられたものであった。気づかない内に白装束の男の演説に耳を傾ける聴衆は一つの集団を形成していた。その中で、中年男性のグレーのスーツはひどくくたびれていて、鼻を突く酸っぱい臭いが大変不快だった。
「例えば、ミクロ系の量子論的揺らぎがそのまま我々の住まうマクロ系に直結するのであれば、我々のこのような社会生活は果たして成立するんだろうか? 答えはノーだよ。ミクロはミクロ。マクロはマクロ。棲み分けは大事さ。そうだろ?」
「私にはよく分かりませんよ。ただ私は、あの演説している男性はあまりに興奮しすぎていて、議論そのものよりも彼自身の存在論的危うさに危惧を感じます」
「学生さんも感じていたか」中年男性の口から黄色い吐息がこぼれた。「思想的高熱は人そのものを溶かしてしまう。彼は恐らく、この場で自殺するだろうさ」
「自殺?」
突拍子もない中年男性の言葉に私の声はうわずってしまった。中年男性が肯くのとほぼ同時に、演説する男の声に一段と熱が入った。
「知っているか? 我々が意識的な行為と思っている多くのものが無意識の産物だということを。知っているか? 我々が現に生きていると信じているこの生が実は単なる独りよがりな夢であるという可能性。知っているか? 我々が異性に恋し愛しそして愛されるというこの感情が単に性交を導くだけのトリガーでしかないこと。
死とは何かを問う前に現前する自らの生でさえこのように不確かで曖昧だ。確固たる基盤を持たず波間に揺蕩うだけの惨めな人生……かつて人類の生とはこのようなものではなかった。確たる世界観が神話により語られ、我々の人生には母なる大地が横たわっていた。我々は神の似像であり、それをまた喜ばしく感じていたことだろう。当時の人類は無知ではあったが、しかし堕落はしていなかった。確かに生きていた! 心身に生の汪溢を感じていたはずだ。今はどうか。我々は神の存在を留保し、実証できることのみに生の基盤を置こうとした。確かめられぬ物に対して悉く目を閉じた。天使、悪魔、巨人、天国、地獄、幽霊、妖怪、魔獣、倫理、道徳、生と、そして死……結果、どうか。我々の生に足場はあるか? 無い……神を捨てた我々の前には光を忘れた荒野だけが広がっている。そう、我々は堕落したのだ。
神の存在とは我々の生にとって一つの指針であった。ヤハウェは我々に「ふえかつ増して地に満ちよ」と言われた。それは疑問無しに我々の生の根本的命題であったはずだ。同様に神の存在が我々に愛の何たるかを示し、生の真実を明らかにした。それは一種のドグマではあったが、それを信じた人は救われていたし、堕落を免れていた」
それを聴いて再び中年男性が口を開いた。
「地に満ちよ、か。そんなことはわざわざ神に言われるまでもなく、遺伝子に刻印された動物的衝動が我々をして種族繁栄に導くだろうね」
涎を啜る音。それを無感動に受け入れながら私は乳首を掻いていた。
「しかし、今や我々の存在は毀損された。落ちるだけ落ちた。ソドムの火をかえりみたロトの妻は塩の柱と化した……何故か。その硫黄の火は神を軽んじた者を焼き尽くすものであった。ロトの妻は神の意に背き、罪深きソドムの民をかえりみたのだ。では、現代をかえりみて、どうか。ソドムの民よ、傲慢なる現代のソドムの民どもよ! 汝らを私は憂い、かえりみる! もはや我々に救いの道など無い! 羅針盤無き航海に充実した生などあろうはずがない! であれば、我々はどうすべきか、汝らに問う、我々はどうすべきか!」
「……自殺」中年男性は言った。
「自殺である!」白装束の男が叫んだ。
「自殺こそ神の愛に近づく唯一にして絶対の方法である。神はまだ微笑んでおられる。罪を贖うのだ!」
「しかし、」納得しかねて私は言った。「自殺などで罪を贖えるのでしょうか? 自殺とは即ち自らを失する行為、ともすれば逃げでしょう」
「存在が暴力からの勝利であるならば、」中年男性は一種遠い目をして語った。「即ち神とはカオス系の暴力に他ならない。我々の生の故郷とは秩序無き暴力の混沌であり、配色無きマーブル色の渦であり、主語無き述語の螺旋なのだ」
「あなたは神を信じますか?」
「今更旧弊な神など信じる者はいない。しかし、神は姿を変え、なお我々の生にその何たるかを波打たせている。硬き世界の岩盤が狂おしの泥粥と化しても、なお我々の宇宙は沈黙の火を絶やさない。厳かな光よ、七色の大天使よ、殺害する天空よ。世界は永遠に沈黙を保つ。暴力的沈黙。その美的静謐よ、究極の安寧よ、翻ってあまりに冷酷な無関心よ。人格が抜き出されたがらんどうの神よ、我々もまたエゴを捨て去り、肉体の牢を破り、無限の住人となろうか……」
「見よ!」
車上の男が棒状のものを掲げた。日の光に照らされて、眩き刀身が晒された。その瞬間、次に待ち受ける光景を予感し、私は、背徳めいた悦び、打ち震えるような衝撃を感じた。
「人類は自殺しなければならない。我に続け! 狭隘な認識を棄て、全知全能の神と共にあらん!」
そう叫ぶと、白装束の男は自らの腹に切っ先を突き立てた。ズブズブと沈み込んでいく刃の先から赤すぎるほどの血が噴き出ていた。男の口から吐き出された血は、ワゴン車の側面に滝の如く流れ、一筋の轍を作り上げた。男は宙に突き出すように左手を掲げると、一歩、二歩と進み、次には車上から転落した。路上に頭を打ちつけた男は、腹ばいになって動かない。ただ、鮮血があらゆる白を染めている。
「花のようだ、」中年男性が呟いた。「花のようではないか?」
「そうですか?」
「花はいい。花は生命を象徴している。その美しさよ、その華やかさよ、そして、哀しいほどの儚さよ。花に永遠はなく、また無限もない。有限の狭間に刻印された刹那の柔らかさ。私はその柔和な色を愛している……」
そう言って中年男性は去っていった。その背中は丸みを帯び、ひどく頼りなかった。
聴衆は解散した。私は白装束の死体を眺め、えも言われぬ哀愁に心を冷たくしていた。男は動かない。もしかしたら動くかもしれないと、微かな期待を込めて視線を投じても、その死は揺るがし難かった。私には理解しかねた。人の生を消滅させるほどの主義に、一体何の価値があろうか。価値とは、生あって成り立つ宇宙への愛ではないか。死によって閉ざされた内宇宙の広がり、銀河の煌めき、クオリアのさんざめく光……言い難き衝動に駆られ、私は空に手を伸ばした。生。その、最も美しい物語。奪われた生の充実。何にか? 神よ、お前の沈黙は許し難き不作為だ。我々の堕落は許されてしかるべきだ! そうであろう!
私はその場を去った。男はまだ動かない。