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「ひどい顔してるね、お姫さま」
厨房を後にしたエマに声をかけたのは、セルジオだった。
──セルジオ・ガランツェ────この屋敷に来て数日経つが、彼とはほとんど会話らしい会話をしていない。あいさつ程度はするが、どうにも近寄りがたいのだ。
リカルドと違っていつも笑顔を浮かべているのに、何故そう思ってしまうのだろう?
「屋敷はどうだ? ここ数日、歩き回っていたみたいだが」
セルジオはにこやかな笑みを浮かべているが、ちっとも友好的とは感じない。
むしろ敵対心すら感じてしまうほどだ。
「…………他にすることもないので」
窓から差し込む日の光を受けて、セルジオの銀色の髪は宝石のように輝いている。
ただ自分を見下ろすはしばみ色の瞳は、氷のように冷ややかだ。
────そうか、この瞳か。この瞳があまりにも冷たいから、たとえ笑顔を浮かべていても親しみやすさを感じないのか。人間味が薄い、とでも言えばいいのか。
こちらに向けられる笑顔が、貼り付けた仮面のよう。
「だろうね。ずっと屋敷に閉じ込められてるんだ。でも仕方ない。あんたは次のトラモントのボスだから。傷物にでもなったら大変だ」
冷ややかな視線と、感情のこもらない言葉。
それだけで痛感してしまう。
この男は自分の存在を認めていないのだ、と。
ただボスの娘だから、表面上、受け入れているように見せているだけ。
「────ボスになる気はありません」
屋敷に来てからずっと、言わなきゃと思っていた言葉。
アパートメントに帰ることは諦めた。
けどそれは、トラモント・ファミリーのボスになると決めたからじゃない。
ここを去ればまた、いつもの日常が戻って来る。たとえ生まれ育ったアパートメントに帰ることができなくても、ここじゃなければ、あの日々を取り戻すことは可能だ。
そう信じているからこそ、一旦諦めただけ。
それを彼らはわかってない。
いや、わかろうとしていないのかもしれない。
エマの気持ちなんて、彼らにはなんの価値もないんだろう。
彼らが優先すべきなのは、彼らが信じて付き従うボスだけ。
「あんたになる気がなくても、もう決まったことなんだよ」
ほらね。
私の気持ちなんて、気にもしてない。
「あなた達が勝手に決めたことでしょう? 私には関係ありません」
「じゃあなんでここにいる?」
セルジオの眼光が鋭くなる。
普段なら怯えてしまうかもしれない。
けれど今のエマに、そんな敵意剥き出しの目線は怖くもなんともない。
オルガとの会話が、今も頭の中でぐるぐると駆け巡っているのだ。意識はそちらに集中していると言っても、過言ではない。
だからつい、勢いのままに言ってしまった。
「出て行けと言うのなら、今すぐにでも出て行きます」
私の気持ちなんて、気にもしてない。気にしているのは、従うべきなのは私の父親──ファミリーのボス!
ボスの娘だから、この屋敷に置いているだけ。
そうじゃなければ、彼らの視界に自分の姿は入り込む余地すらない。
そもそもボスの娘でなければ、ここに来ることもなかったのだ。
ああ、どうしようもなく腹が立つ。誰に向ければ良いのかもわからない怒りの感情に、心がじわじわと侵食されていく感覚は、あまり気持ちの良いものじゃない。
昔から、怒るのは苦手なのだ。
だから、これは多分、やつ当たりなのかもしれない。
「私を認めていないのなら、追い出せばいいでしょう? あなたもあの人も、本心では私を追い出したいと思ってるはずよ」
「…………ボスの命令に逆らう気はない」
セルジオの顔から笑みが消えた。
────逆らう気はない。
追い出したい、は否定しなかった。
それがすべてだ。
「私が勝手に出て行くだけ。あなた達は悪くない。────そうでしょう?」
「…………」
何も言わないセルジオの横を通り過ぎ、エマは荷物を取りに部屋へ向かう。自分が歓迎されているなんて、露ほども思ってない。
だからセルジオの答えに、心を痛めることもない。
でもどうせなら、本心をそのまま言って欲しかった。遠回しな物言いなどせずに、あなたの本心をそのまま吐き出して欲しかった。
そうすれば、少しは人間味を感じれただろうから。
エマは日の当たる廊下を抜け、玄関ホールに足を踏み入れ、そして固まった。
「これは……何?」
エマの目の前に広がるのは、今まさに玄関ホールに運び込まれている大量の荷物。
「おや、お嬢様じゃありませんか。お久しぶりですね。お元気でしたか?」
積み重なった段ボールの影から顔を出したのは、柔らかな笑みを浮かべたアレッシオ・マルキーナだった。
そういえばオルガが、昼過ぎにアレッシオが戻って来ると言っていたっけ。
もうそんな時間なの?
「戻ったか、アレッシオ」
エマが立ち尽くしていると、頭上からリカルドの声が聞こえた。
「ええ、今戻りました。──言われた通り、一切合財持ってきましたよ」
リカルドは悠然と階段を降り、運び込まれる荷物を興味なさそうに見て、エマを見た。
「お望み通り、“全部”だ。満足か? ────お姫様」
「全部って、まさか…………」
アパートメントの荷物を、全部持って来たの? ほんとに?
あの夜、自分が冗談のつもりで言ったことを、リカルドは実行に移したのだ。
「……信じられない」
この屋敷よりもはるかに狭いアパートメントとは言え、荷物は決して少なくない。
それを全部、本当に持って来ている。
「ちょっと大変でしたが、いい引っ越し業者が見つかったので思っていたよりも早く帰って来れましたよ。この荷物、どうしましょうか? どう見てもお嬢様の部屋には入りませんよ?」
「不要なものは処分すればいい」
困ったように笑うアレッシオに、リカルドは無表情で返す。
「どうせ処分するんなら、わざわざ持ってこなくてもよかったと思うけどね、オレは」
背後から聞こえたセルジオの声にエマが振り返れば、笑みを浮かべたセルジオが立っていた。
だがやはり、瞳の奥は冷えている。
「必要なものだけ部屋に運ばせろ」
「ではお嬢様、選別をお願いできますか? こればかりは、持ち主にお願いするしかないので」
「今日中に終わるのか、これ。言っとくがオレは、手伝う気ないからな」
自分に向けられる三人の視線を前に、エマは言葉が出てこない。
さっきまでは鞄一つだった自分の荷物が、一瞬にして膨大な量になったのだ。頭が追い付かない。
私はついさっき、出て行くと啖呵を切ったばかりなのに。
ただひとつわかるのは、これもリカルドの嫌味だということ。
────これから先、すべての言葉と行動に気を配れ。お前はトラモント・ファミリーのボス、ベルトランド・セヴェリーニの娘なんだ。
思い起こされるのは、あの夜のリカルドの忠告。忘れたわけじゃない。
けどこんな真似をされて、素直に言うことを聞いたら、バカみたい。
エマは心を落ち着け、目の前の三人を見据える。
「全部必要です」
「…………全部、ですか?」
「はい。せっかく持って来ていただいたんです。処分はせず、置いておこうと思います」
これはもう、意地だ。わがままと言ってもいい。
アレッシオは困ったように笑い、セルジオは面白そうにエマを見ている。
そしてリカルドは、品定めするような目でこちらを見ていた。
「構いませんよね?」
「────好きにしろ」
それだけ言い残し、リカルドは玄関ホールを立ち去る。向かった先がどこかは知らないが、エマはほんのちょっとだけ、自分の首を絞めているだけだと知りつつも、ざまあみろ、と思った。
* * *
夕食を終え、日付が変わる頃。
アレッシオ・マルキーナの仕事部屋に、リカルドとセルジオの姿があった。
「アパートメントの契約解除、仕事先の退職手続き、その他諸々、滞りなく終わりましたよ」
良い子は寝る時間だというのに、アレッシオは未だ、スーツ姿。顧問でもありファミリーの弁護士でもあるアレッシオの主な仕事は、やはりデスクワーク。
数日ファミリーを離れただけで、すぐに書類の山ができあがってしまう。
それらを片付けているうちに、気づけばこんな時間。
セサルが眉間にしわを寄せ持って来てくれた夕食も、まだ手を付けていない状態だ。
「助かった」
「いえ、仕事ですから。それにしても……」
アレッシオは使い慣れた椅子に座ると、大きなため息をつく。執務机の向かいでは、リカルドが書類に目を通し、セルジオは酒を片手にタバコを吸っていた。
「君達には呆れてものが言えない。オルガに聞きましたが、ちっとも気遣っていないようですね?」
「なんの話をしてんのか、オレにはわからねえけど」
「お嬢様のことですよ! 屋敷から出さないのは彼女の安全を考えてのことでしょうから、わかります。けど慣れない屋敷に一人いる彼女の気持ちを考えて、話し相手になるとか、いろいろできることはあるでしょう? なのに君達ときたら、何もしてない!」
「それは悪いことか?」
書類にある程度目を通したリカルドが、ソファから立ち上がる。
「あまり構われ過ぎるのも息苦しいだろ?」
「それは君の言い分だ、リカルド。────彼女は次のトラモントのボス。幹部である君達は、彼女を守り、支え、そして理解者でなければならない」
瞬間、部屋の空気が重くなる。
「…………あのガキがトラモントのボスに相応しいとは思えないね、オレには」
重い沈黙を破ったのは、セルジオだった。タバコを灰皿に押し付け、グラスの酒を一気に飲み干す。薄っぺらい笑顔は、浮かべていない。
「血筋を重要視するのはわかる。けどだからって、ファミリーのなんたるかを知らない一般人を頭に据えて、うまくいくと思うのか? 内側から崩れていくだけだろ」
「そうならないために、私達がいる」
一触即発。
そんな気配が室内に流れる。
「────昔から、顧問にはお世辞を言わない者を選べ、と言う」
書類をアレッシオのデスクに置いたリカルドが、鋭い眼光でアレッシオを見据える。
「アレッシオ、お前はどう思っている? 俺もセルジオも、ボスの命令に逆らう気はない。だがお前はどうだ? 本当にエマ・フォレスティをボスにするつもりでいるのか? ファミリーの存続を思えば、この決断はあまりにも無謀だ」
この世界は、あまりにも残酷だ。死と隣り合わせ、真っ当に生きようと思えども、一度踏み入れたら抜け出すことは難しく、抜け出せたとしても世間の風当たりは強い。
そんな世界に一般人がいきなり飛び込んで、馴染めるはずもない。
特にエマは、見るからに真逆の世界で生きてきた人間だ。
仮にボスの座に着けたとしても、従う者がどれだけいる? 他のファミリーに潰されるのならまだいいが、セルジオの言ったような内部崩壊なんて無様な終わり方をしたんじゃ、代々のトラモントのボスに地獄で会わせる顔がない。
その考えに至らないほど、トラモントの顧問は愚かじゃないはずだ。
「────バカ娘に食いつぶされるより、ずっとマシでしょう」
瞬間、リカルドが眉をひそめ、セルジオが盛大に笑った。
「そうか! すっかり忘れてたな。血筋────あいつもセヴェリーニの血を引いてる! 確かに、あのバカ娘に継がせるくらいなら、嬢ちゃんの方が何倍もマシに思えるな」
心底おもしろそうに笑うセルジオの隣で、リカルドは相変わらずの仏頂面。
「けどな、黙って嬢ちゃんを受け入れると思うか? 確実に騒ぎ立てるぞ。最悪、死人も出る」
「最悪の事態は常に想定していますよ。それに注意すべきは他にもいる」
「と言うと?」
「“トラモントのボスの男”────この肩書は、男の矜持を二の次にしてもいいくらいの魅力がある」
アレッシオの言い回しにセルジオは顔をしかめたが、リカルドはすぐに意味を理解した。
「これから先、よからぬことを考え、お嬢様に近づく輩が増えるのは目に見えています。利用しようとする者、媚びへつらい甘い蜜を吸おうとする者────そういった者達から、お嬢様を守るのも我らの役目です。特にリカルド。君はボスから直々にお嬢様のことを頼まれている。それを忘れないでくれ」
「…………言われずとも、わかっている」
「ならいいんだ。────そろそろ屋敷も騒がしくなるからね。嵐が来る前に、しておくべきことはしておかないといけない」
ファミリーの顧問として、常に冷静に、客観的な目を持ち、どのような事態にも迅速に対応できるようにしておかなくてはならない。
それが自分の役目だと、アレッシオはよくわかっている。
もちろん、他のふたりだって自分の役目を十分に理解しているだろうが。