2-1
ルビーノ州サングエ県ロッソ市郊外────。
そこにトラモント・ファミリーの本拠地とも言えるセヴェリーニ邸はある。
* * *
────好きなものはなんですか、お嬢様。
愛想のない料理長セサルに食べ物の好みを聞かれたのは、三日前。
ということは、この屋敷に来て今日で四日目、となる。
それでも慣れない。
特に、この重苦しい食事の席は。
「………………」
エマの目の前には、セサルが作ってくれたオムレツがある。食べ物の好みを聞かれたエマは、迷わず答えた。卵料理が好きだ、と。
それ以来、朝食には必ず卵料理が出てくる。
一日の始まりである朝に好きなものを食べれば気分も上がるから、というセサルの配慮らしい。
ただ教えてくれたのは、セサル本人ではなく、家政婦長のオルガなのだが。
とは言え、セサルの気遣いがあっても、エマには屋敷での食事を楽しめない。
何せ食事に同席しているのは、トラモント・ファミリーの幹部なのだ。
エマが座っているのは、本来ボスであるベルトランドだけが座ることを許された当主の席。
その左右を陣取るのは、リカルド・ダヴィアとセルジオ・ガランツェ。二人は日々、何かしらの仕事で忙しくしているようだが、食事の時間だけはきっちりと守っている。
「………………」
「どうかした?」
「え?」
ふいに口から洩れたため息に気づいたのは、セルジオだった。軽薄そうな笑みを浮かべ、エマを見ている。
「あ、いえ、なんでもありません。お気になさらず」
言えないわ。あなた達との食事は息が詰まる、なんて。
エマが知っている食事は、もっとなごやかなものだ。
それなのにこの二人は、気の利いた会話さえしない。
やっと口を開いたかと思えば、どこぞのファミリーの誰々が死体で見つかったらしい、なんて話ばかり。
そんな話聞きたくないし、そもそも食事の席にはふさわしくない!
そりゃあ、この二人にエマが興味を持てる話ができるとは到底思えないけど、ちょっとは気遣ってもいいんじゃない?
オルガとセサルを見習ってほしいものだ────というのはわがままが過ぎるか。
でもそろそろ、屋敷の外に出たい。
エマはオムレツを口に運び、味わってから飲み込む。
屋敷に来て四日目。エマは一歩たりとも、屋敷の外に出ていなかった。大人しくしていたので、屋敷の中を自由に歩き回ることは許されたが、外には出れない。庭にだって出れないのだ。
彼ら──主にリカルドだろうが──にとってエマは、血統書付きの犬と同じなのかもしれない。
いや犬の方がまだマシか。
あの子たちは散歩に行けるもの。
「邪魔するよ」
重苦しい空気の食堂に顔を出したのは、オルガだった。今日も髪を雑に結い、使い込まれたエプロン姿。
エマはオルガの登場に、ちょっとだけ肩の力が抜けた。
「今アレッシオから電話があってね、今日の昼過ぎには戻って来れるらしいよ」
「へえ、ようやくか。随分と時間食ったな」
「誰かさんの無理難題には困ったもんだ、って言ってたね」
オルガが意味ありげにリカルドを見るが、当の本人は気にした様子もない。
「困らせたのは俺じゃない」
「じゃあ誰だい?」
「我らがお姫様」
エマを除く全員が、一斉にエマを見た。
「………………私、困らせてないわ」
ジト目でリカルドを見るが、リカルドはこちらを見もしない。
────お姫様だなんて……。
自分は今、リカルドに嫌味を言われたのだ。
リカルドはあの夜、エマに告げた。女王のように振る舞え、と。
それはエマにとって、中々に難しい。
多分、上っ面だけでもそれらしく見えればいい、という意味なのだろうが、これこそ無理難題だ。敬語を使うなとか、頼むのではなく命令しろだとか。
そんなこと、できるはずがない。
だってこの屋敷には、とっつきにくい年上ばかり。
エマにはどう頑張っても無理だ。そういう性格だし、相手に敬意を払いなさい、と母に言われ育てられたのだから。
でもリカルドは納得しない。納得していないから、エマをお姫様、と呼んだのだ。嫌味ったらしく。
「リカルド、あんまりエマをいじめるもんじゃないよ。────そうだ! 言い忘れるとこだったけどね、何人かの使用人が今日明日には戻って来ることになってるからね。中には新人もいるから、その子らにだらしないとこを見せるんじゃないよ?」
「────だそうだ」
リカルドが意味ありげな流し目でこちらを見たが、エマは気づかないふりをした。
女王だのお姫様だの、自分には関係ない。
だってトラモント・ファミリーのボスになる気なんて、これっぽっちもないんだもの。
* * *
朝食を食べ終えたエマは、部屋で本を読んでいた。他にすることがないのだから、時間をつぶすには本を読むしかない。昔から本は好きだったし、読書自体はちっとも苦じゃないが、これが毎日のこととなると、さすがに飽きてくる。
エマは本をベッドの上に投げ、自分もベッドに倒れこむ。
天蓋付きの大きなベッドは、オルガが毎日シーツを取り換えてくれているので、いつだって清潔な状態だ。
「ダメ人間になっちゃう」
至れり尽くせり。
今までずっと、自分のことは自分でする、が当たり前だったエマにとって、屋敷での生活はなんというか……くすぐったい。
そんな感じだ。
「ママもここに住んでたんだよね……?」
窓の外に広がるのは、手入れの行き届いた広い庭。
その向こうに見えるのは、ロッソ市の街並み。
母はいつも笑顔で優しい人だったけど、自分の過去について多くを語らない人でもあった。
どこで育ったのか、どんな暮らしをしていたのか──そんなことすら知らなかったけれど、エマにはどうでも良かった。母と自分──このふたつがあれば、それだけで十分。多くは望まない。何が大切で、何を守るべきなのか、エマはよくわかっていたから。
それに母が語ろうとしなかった理由を、今のエマは十分すぎるほどに理解している。
「退屈すぎて、死んじゃいそう……」
どうせ何もすることなどないのだ。本をベッドに置き、エマはオルガたちがいるであろう厨房へ行ってみることにした。
屋敷に滞在中、何度か厨房へは足を運んだことがある。
もともと物覚えの良いエマにとって、屋敷の間取りを覚えることは大して難しくない。
むしろ退屈すぎて、屋敷のありとあらゆる場所に行ってみた。
さすがに入れない部屋もあったが、間取りはほぼほぼ完ぺきに暗記済み。
なので厨房へは、迷わずに来れた。
「…………誰もいないのね」
厨房は思っていた以上に静かだったが、とても美味しそうな香りで満たされていた。
屋敷の同居人には不満しかないが、食事には満足している。毎日の食事は文句のつけようがないくらい美味しい。
「────お嬢様、こんなところへ何用ですか?」
誰か来ないかな、と待っていたエマの背に向かって声をかけたのは、料理長のセサルだった。
「勝手に入ってごめんなさい。その、何かお手伝いできることはないかと思って来たんです」
「手伝い、ですか……?」
エマの申し出に、セサルはなんとも言えない表情を浮かべた。
これは歓迎されていないな、とすぐに察したが、引き下がるわけにはいかない。
「何もすることがなくて、退屈なんです。野菜の皮むきとか皿洗いとか────」
「お嬢様にそんなことさせるわけにはいかないよ」
大きな声に遮られてしまった、エマの声。見れば勝手口の扉を開け、オルガが厨房へ戻って来ていた。
「お嬢様、その気持ちは嬉しいけどね、あんたは旦那様の娘。使用人じゃないんだ」
「でも…………」
「退屈なのはわかるよ。けどね、守るべき一線ってもんは、どんな世界にもある。お嬢様に使用人の仕事をさせたと旦那様に知られたら、あたしらの首が飛ぶ。わかるね?」
「…………ええ、とてもよくわかります」
「なら、あたしらのためと思って、我慢しとくれ」
「……………………はい」
エマは悲しそうに目を伏せ厨房を出て行こうとしたが、ふとあることを思い出した。
ずっと気になっていて、けれども誰に聞けば良いのかわからなかったこと。
それを今、思い出した。
「あの、ひとつ聞いても良いですか?」
「なんでしょう?」
「母はここに住んでいたんですよね?」
「ええ、そうですよ」
オルガとセサルが、ほぼ同時に頷く。
「何か母が残したものとか、ありませんか? どんなものでも構わないので……」
母の過去を知る人がこの屋敷には大勢いて、そして母はこの屋敷で暮らしていた。
母が語ろうとしなかった過去を暴いているような気持ちにはなるが、無視することはできない。
あんなにも優しく穏やかだった母が、こんな正反対の危険な世界で、本当に暮らしていたのだろうか?
本当に、ファミリーのボスを愛したのだろうか?
湧き上がる疑問は尽きなくて、ずっと気になっていた。
朝食の席でリカルドやセルジオに聞くこともできたが、彼らとの接し方を、エマはまだつかめていないのだ。素直に教えてくれるかもわからないし、何より彼らの言葉を自分は真っ直ぐに受け入れることができるのだろうか?
エマは今も、あのふたりを信用できずにいる。
「ブランカ様が残したものか……。何かあったか?」
「どうだろうね。そういったものは全て、旦那様が……」
オルガが中途半端なところで話をやめてしまったので、エマは気になって仕方がない。
「あの人が、何かしたんですか?」
「何かというか……全部、処分しちまったんだよ」
「処分? どうして?」
話すべきなのか、オルガは迷っているようだった。
この屋敷の主人の私生活に関する話を、安易に口にしても良いものか。
そんな葛藤が見て取れる。
「ちょっと出てくるよ」
察したセサルが、勝手口から出ていく。
ふたりきりになり、オルガは覚悟を決めたらしく、エマのすぐ前に立った。
「ブランカが出て行った後、旦那様はものすごい荒れようでね。誰も近づけなくて、本当に大変だったんだよ。ブランカの名前は禁句になって、誰も触れようしなくなった。それから……ようやく旦那様が落ち着いた頃、旦那様は何を思ったのか……ブランカのために用意した別館を、燃やした」
「燃やした?」
「そうさ。だからブランカの思い出は残ってないんだよ」
「それは、母との思い出を消してしまいたかったから? だから燃やしたんですか?」
「そうじゃない! そうじゃないさ、きっと……」
「じゃあ、どうして燃やしてしまったの? 私には、母の存在を消してしまいたかったのかと思ってしまう」
愛する人との思い出は、そう簡単には捨てきれない。少なくとも、エマはそうだ。
未だ会うこともできていない父親に募るのは、不信感ばかり。
そんなエマに、オルガは優しく話を続ける。
「お嬢様、あたしは自分が見たこと感じたことしか話してあげられない。だから旦那様があのとき何を思って、なぜあんなことをしたのか、あたしにはわからない。けどね、旦那様は情の深い信念を曲げない人だよ。一度こうと決めたら、誰が何を言っても貫き通す。──旦那様はブランカを最後まで守ると決めていたさ。でも、ブランカは出て行ってしまった」
オルガがそっと、エマの手を握りしめる。
「愛が深ければ深いほど、失った痛みは計り知れない。きっと旦那様は、直視できなかったんだろうね。ブランカを失った現実を。……あたしもそうだったよ。お嬢様、このことは旦那様に直接聞いておくれ。旦那様も苦しかったはずさ。もしかしたら、今も苦しんでいるのかもしれない。……この痛みに触れられるのは、お嬢様しかいない」
「…………」
エマはオルガの目を見つめ返すことができなかった。
愛する人を失う痛みは、良くわかってる。
まだ会ったことすらない、不信感ばかりが募る父親──でも母を、愛していたであろう父親──私にはまだ、わからない。
オルガに見送られながら、エマは静かに厨房を出て行く。
ずっと気になっていたこと。
それを知ることができた。
なのに心はスッキリするどころか、とてつもなく重い。