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エマ  作者: 小さな月
Tramonto……沈む太陽
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1-6


「何かあれば、遠慮せずにすぐ呼ぶんだよ?」


「はい、ありがとうございます。──おやすみなさい」


 オルガが部屋から出ていき、エマは今日何度目かもわからないため息をつく。

 この屋敷で自分に友好的に接してくれる数少ない人間だとわかっていても、やはり緊張してしまう。

 それはきっと、オルガもわかっているんだろうな。


「落ち着かないな……」


 オルガが準備してくれた寝間着は、エマの普段着よりも格段に上等なものだった。手触りはうっとりするほどなめらかなのに、まるで何も身に着けていないかのような軽やかさ。

 そのくせ、あったかい。

 この寝間着は、すべてを兼ね備えている。一体いくらなのだろう? なんてことも考えたが、値段を知ってしまったらもう着られない、と思い、詳しくは聞かなかった。


 それに寝間着の値段なんて、すぐにどうでもよくなった。

 この部屋のすぐ隣、あまりにも広すぎるウォークインクローゼットには、この寝間着よりも遥かに値の張る服が大量にしまい込んであったのだ。

 しかも服だけじゃない。靴にバッグにアクセサリー──数えだしたらきりがないほどの量だった。

 あれらすべてが自分の物だとオルガに言われたときは、正直に言って、失神しそうになった。


 だってファッションに興味のないエマですら知っている有名ブランドの服ばっかりだったのだ。

 あんなの、着れるはずがない。自分が着るのはいつだって、安売りされた服ばかり。

 それでいいと思っていたし、なんの不満もなかったのに。


「……めまいがしそう」


 いや、実際にくらくらしている、この状況に。

 何もかもが、現実味を帯びていないのだ。

 もしかしたら母の死すらも悪い夢なのかも、と思ってしまうほどに。


「戻れない……よね?」


 ベッドの上に置いた、唯一と言える自分のカバン。

 そこから取り出したのは、二十年住み続けたアパートメントの鍵。イルカのキーホルダーが、ゆらゆらと揺れている。


 あのアパートメントには、いろんな思い出が詰まってる。はじめてのお給料で買った靴、小学生の時にもらったメダル、そろそろ替え時かもしれないね、と話していたテーブルに、語り尽くせない思い出を形に残した写真たち。


「────!!」


 今になって思い出すなんて。

 エマはベッドから飛び降り、行かなきゃ! と焦ったが、すぐに冷静になる。自分には帰る術がない。


「どうしよう……」


 アレッシオがアパートメントを引き払ってしまったら、清掃業者が入って、不要と判断されたものはすべて、処分されてしまう。

 それだけは嫌!!

 ならどうする?


 エマは考え、そして答えにたどり着く。方法はひとつしかない。

 エマは素足に靴を履き、部屋を出る。目的地はすぐ目の前────リカルド・ダヴィアの部屋だ。



 * * *



 ゆらゆらと揺れる紫煙は、天井にたどり着く前に消えてしまう。

 リカルドは火をつけたタバコを灰皿に置いたまま、何をするでもなく、気に入りの椅子に座っていた。

 今日は疲れた。特に最後、セサルの爆発がきつかった。うっかり口をすべらせてしまった自分のせいだとわかってはいるが、きついものはきつい。

 コーヒーを飲んで、何か軽くつまめればいいと思っていたのだが、もう食欲が失せてしまった。シャワーを浴びる気力だけは、かろうじて残っているが。


 ────コンコンコン……。


 控えめなノックの音に、リカルドは訪問者をすぐに察した。

 こんなノックの仕方をする奴が、この屋敷にいるものか。


 リカルドは椅子から立ち上がり、気合を入れるようにひとつ、息を吐いた。


「……少々お時間をいただいても?」


 ドアを開ければ予想通り、エマ・フォレスティが立っていた。髪は濡れていて、寝間着姿だ。

 こんな時間にその出で立ちで男の部屋に来るものじゃない、と言ってやりたくなったが、そんなこと言われなくても、エマならわかっているだろう。

 それをわかっていながら来たのだから、大切な話があるのだ。

 リカルドは頷き、エマを部屋に招き入れる。


「単刀直入に聞きます。アパートメントは引き払われた後ですか?」


 何の話かと思えば、なんてくだらない……。

 この小娘はわざわざこんな時間に、往生際の悪いことを言うために来たのか?

 エマを部屋に入れたのは時間の無駄だと思ったが、


「もしまだであれば、母の形見を取って来てほしいんです」


「……形見、か」


 どうやら部屋に入れたのは間違いではなかったようだ。

 リカルドはエマを椅子に座らせると、向かい側に自分も座る。


「写真とかいろいろ……。引き払われてしまった後じゃ、手遅れかもしれないけど……」


 悲しそうに目を伏せるエマが、無意識なのだろう。首から下がる指輪を、ぎゅっとにぎりしめた。

 リカルドは親の形見なんか持っちゃいないが、今のエマの気持ちを察するくらいの優しさは持ち合わせている。──意外かもしれないが。


「明日、アレッシオに電話する。引き払う手続きは済んでるだろうが、すぐにどうこうなるものでもないだろうからな」


「あ、ありがとうございます!」


 安堵の笑みを浮かべたエマは、リカルドに向かって頭を下げる。


 変な小娘ガキだ。騙して連れてきた相手に、礼を言うだけでなく、頭まで下げるとは。


 リカルドは灰皿に置いたままのタバコを口にくわえ、改めてエマを見る。

 赤みがかった茶色の髪と、どこまでも深く底の知れない緑色の瞳──髪色と瞳の色は、間違いなく父親似だ。

 しかし顔立ちは完璧なまでの母親似。少女のようなあどけなさが時折顔をのぞかせるのは、恐らく生娘だからだろう。色気というものを、まるで感じない。


 こんな小娘が本当に、トラモントの頂点トップに君臨するのか? ……ダメだ、どう頑張っても想像できない。腹の探り合いどころか、嘘すらも下手そうなのに。


「…………はぁ」


 思わず口からこぼれたため息は、上質な蒸留酒ブランデーの香りを含んでいた。


「私、そろそろ失礼します」


「……書いておけ」


 椅子から立ち上がろうとするエマに、リカルドが短い指示を出す。


「何を、ですか?」


「アパートメントから持ってくるものだ。……少し飲み過ぎた。覚えられる自信がない」


 嗜む程度の酒。翌日に残るほど飲んだりしないし、酔いで正体をなくすこともない。

 だが今夜は、疲れているからだろう。酔いの回りが早い気がする。記憶力は良い方だと自負しているが、今夜ばかりは頼るのをやめておこう。


「……紙とペンをお借りします」


 疲労を表面に出すリカルドにそう告げて、エマは部屋の隅、追いやられたように置かれた机に移動する。


 トラモントでは幹部には個室が与えられ、執務用の部屋も用意される。

 リカルドはずっと、ボスであるベルトランドの寝室そばの部屋だったが、エマの世話役兼護衛を任されたことによって、部屋の引っ越しを余儀なくされた。

 もともと持ち物が少ないリカルドだ。引っ越しは半日で完了。

 それからはずっと──一ヶ月くらいか──、この部屋で過ごしている。

 当分はここが自分の部屋となるわけだが、それは一体、いつまでなのだろうか。


「────いっそ全部持って来てもらった方が早いかも」


 背後から聞こえたのは、柔らかな声。

 そうだった、エマがいるんだった。

 リカルドは短くなったタバコを灰皿に押し付け、グラスに手を伸ばす。


「全部持って来いと言うのなら、そうしてやる」


 中途半端に残った中身をあおるように飲み、リカルドは椅子から立ち上がった。今日は酔いの回りが早いが、生来酒にはとことん強い。


「ただの冗談ですけど……」


 エマは困ったような目でリカルドを見ている。酔っぱらいの戯言だと思っているのだろう。


「何度も言うが、お前はボスの娘だ」


 まるで自分に言い聞かせてるみたいじゃないか。

 リカルドは一瞬、その氷のような無表情を崩しかけた。


「お前が欲しいと言えば、どんなものだって手に入れてくる。邪魔だというのなら、どんな手を使ってでも消し去ってやる」


 リカルド・ダヴィアはボスの忠実なる猟犬。

 だがそれは、リカルドだけじゃない。アレッシオやセルジオだって、リカルドと同じだ。揺るぐことのない絶対的な忠誠──それはつまり、たとえエマ・フォレスティを認められないと心の奥底で思っていても、ボスが命じるのであれば、ボスがそう望むのであれば、“ボスの娘エマ・フォレスティ”に従うということ。

 リカルドをはじめとした幹部達は皆、同じ覚悟を持って、エマ・フォレスティを屋敷へ迎え入れることを了承したのだ。


 だからエマ・フォレスティには、自覚してもらわねばならない。自分が誰の娘なのかを。


「お前は使われる側の人間じゃない。これからは使う側の人間になるんだ。この意味がわかるか?」


 人の上に立つというのは、中々に骨が折れる。自分の決断が、すべてを変えてしまうのだ。

 リカルドも部下を持つ身。時に部下の命の在処すら、左右する立場にある。

 だからこそ言わねばならない。

 不本意ながらも、世話役を任されてしまったのだから。


「これから先、すべての言葉と行動に気を配れ。お前はトラモント・ファミリーのボス、ベルトランド・セヴェリーニの娘なんだ。誰もがお前を見ている。お前が失敗すれば、奴らは容赦なく食い殺しにかかるぞ」


「………………」


 怯えた目でこちらを見つめるエマを、哀れだとは思わない。思うはずがない。

 これはすべて、ボスとファミリーのためなのだから。


 リカルドは猟犬の如く、机の前で固まったまま動けずにいるエマに近寄る。

 この世界はいつだって、残酷だ。一度足を踏み入れてしまったらもう、後戻りはできない。


「お前はお姫様プリンチペッサじゃない、女王レジーナだ。それらしい振る舞いを心掛けろ。────忘れるな。でなきゃ生き残れない」


 リカルドの脅迫めいた忠告に、エマは泣き出すでもなく、笑い飛ばすでもなく、ただただ、その緑色の瞳で真っ直ぐに見つめ返すだけ。

 納得しているのかどうなのか判断しづらい反応ではあるが、少なくとも置かれた状況は理解できたはずだ。


 リカルドはエマの手からメモ用紙を抜き取ると、エマの背を軽く押す。──出て行け。言葉に出さずとも、エマはリカルドの行動の意味を察した。

 ゆっくりと、けれども確かな足取りで、エマは部屋を出て行く。


「………………意外と少ないな」


 メモ用紙を確認したリカルドは、リストの少なさに首をかしげる。

 まだ途中だったのか、それとも遠慮したのか。

 どちらにせよ、明日の朝、アレッシオに告げる内容は決まっている。


 ────一切合財、持って来い。




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