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エマ  作者: 小さな月
Tramonto……沈む太陽
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1-5

2024.01.14 修正


「お前には首輪だけじゃなく、鎖も必要なのか?」


 部屋に連れ戻されてしまったエマに告げられた、ひどく失礼な言葉。

 それを諌める者は、残念ながらこの部屋にはいない。オルガは部屋を出て行ったらしい。

 エマはカバンを床に置き、新品同様──いや、これは新品だ。誰も使っちゃいない。──の椅子に座り込む。


 リカルドに見つかってしまった。

 じゃあもう、ダメね。

 この人を出し抜ける気はしないし、今は抵抗する気力もない。

 これもすべて、ラウロ・ネスタに会ってしまったせいよ。


「……知り合いか?」


 しおらしい態度のエマに、リカルドが落ち着いた声音で問いかける。

 エマは視線を目の前のテーブルに落としたまま、こくりと頷く。


「同じ高校に通ってました」


 と言っても、ラウロは卒業を目前に退学となってしまった。詳しくは知らないが、いろいろと問題を起こしてしまったらしい。


「なるほど。────だが慣れ合うな」


 すぐそばにリカルドの気配を感じて、エマは落としていた視線を持ち上げる。


「お前は準構成員アソシエーテでもなければ、構成員ソルジャーでもない、ボスの娘だ」


「よろしくなんてしません、言われなくても」


 すぐにそっぽを向いて、エマは窓の外に広がる景色を視界に捉え、諦めの吐息を漏らす。

 もう世界は、夜の色に染まっている。

 どう頑張っても、最終列車には間に合わない。


「ならいい。──なるべく部屋からは出るな。何かあれば、声を出せ。この部屋の向かいは、俺の部屋だ」


 屋敷から出るな、の次は、部屋から出るな、ですって。

 でもエマは、何も言わなかった。言う気力がないのだ。

 ただ今は、ひとりゆっくりと休みたい。



 * * *



 時刻は十九時を過ぎた頃。

 いつもなら大忙しの厨房は、あくびが出るほど暇だった。無理もない。屋敷には今、数える程度の人間しかいないのだ。多めに食事を作り、それを腹が空いた頃になって適当に食べる、で十分な奴らばかりなのだから、料理長のセサルが腕を振る必要は微塵もない。

 むしろ無駄だ。砂糖と塩を間違って入れたとしても、「今日の飯はいつもと違うな」、ぐらいの感想しか言わないのだ。

 いや、奴らが感想を言うだろうか? 詰め込めるだけ腹に詰め込んでごちそうさま、で終わりだ、きっと。


 だからセサルは、今日この日をそれなりに期待して待っていた。

 今日はリカルドが旦那様──ベルトランド・セヴェリーニの娘を連れて帰って来る日。味どころか料理の見た目すら気にしない野蛮な男どもが多い中、旦那様は料理を楽しんで召し上がってくださる。

 そんな方の娘なのだ。何を作ろうか、嫌いなものはあるだろうか──と年甲斐もなくあれやこれやと考えていたのだが、情報収集に出向かせた家政婦長から告げられたのは、


「あの子は帰ったよ」


「何?」


 家政婦長のオルガは、どっこいしょ、と背もたれ付きの椅子に腰を下ろす。

 その椅子は、彼女の特等席だ。

 いつもその椅子に座り、味見という名のつまみ食いをする。


「帰れるはずないだろうけどね、あの子は長居するつもりなんてないよ。……ブランカとおんなじさ。そのうちいなくなっちまって、それでもう二度と、会えなくなる」


 この女はいつもこうだ。悪い方にばかり考える。

 そんなことわからないだろう。

 そりゃ確かに、ブランカは出て行ってしまったし、亡くなってしまったが、娘も同じとは限らない。

 セサルは見た目こそ気難しそうで、誰かさんと同じくらいに愛想が欠落しているが、驚くほどに前向きだった。楽観主義、と言えなくもない。


「エマは屋敷に残った」


 足音も立てずに厨房へ現れたリカルドは、勝手知ったるなんとやら。食器棚からカップを取り出し、濃いコーヒーをたっぷりと注ぐ。


「……どうせあんたが無理矢理連れ戻したんだろ。可哀想な子だよ」


 オルガは心の底から、エマに同情している。

 だから部屋を飛び出したエマを追いかけなかったのだ。運が良ければ、逃げられるかもしれない、と思って。

 だがボスの忠実なる猟犬ハウンドは、鳥かごから飛び立とうとする愛らしい小鳥を見逃してはくれなかったようだ。


「“鯱”よりも“狼”の方がマシだと思うさ。────いずれは」


 悪びれた様子もなく、リカルドは熱いコーヒーをすする。


「不運な星の下に生まれた母娘だよ、まったく」


「そんなことより、今夜のディナーだ。結局、どうすることになった?」


 ようやっと口を開いたかと思えば、セサルは夕食の心配しかしていない。

 この屋敷の男どもは……。

 オルガは呆れて、何も言えない。


「お嬢様は食べるのか? 何時に? 何を?」


「俺が知るわけないだろう」


「お前はお嬢様の世話役だろう。ならお嬢様のことを一番に理解してなきゃ困る!」


「そう言われてもな……。なんか適当に、女が好きそうなものを作ればいいんじゃないか。よくわからんが────あ」


 しまった、とリカルドが己の失態に気づくのと、オルガは「男ってのはほんとにバカだね」、と言って椅子から立ち上がるのは、ほぼ同時だった。


「適当にだと!? 前々から思っていたが、お前達は食に対する意識が低すぎる! 食生活の乱れは心の乱れにも繋がる! 何故かわかるか? 我々人間はな、命を食べて生きているんだぞ! それをないがしろにするとはどういう了見だ!!」


 厨房に響き渡る怒声に、オルガはそそくさと逃げ出す。


 人生のすべてを料理に捧げているセサルは、若い頃は世界中を旅して回り、様々な料理や食材に触れてきたが、今はトラモント・ファミリーのボスの屋敷に腰を落ち着け、ボスのために腕を振るっている。

 この屋敷にいれば、欲しいと言えば世界中のどこからでも食材を調達してきてくれるからだ。セサルは腰を落ち着けたとはいえ、料理に対する情熱だけは失っちゃいない。

 その情熱が良くない方向に爆発すると、どうにも手に負えなくて困るが、今日の爆発はリカルドが自ら引き起こした。

 ならば責任持って、リカルドが引き受けなくちゃならない。



 * * *



「今行くのはやめといた方がいいよ」


 オルガが厨房を出れば、セルジオと出くわした。時間も時間だ。腹が減ったから来たのだろう。


 ボスがいれば、決まった時間に食堂に集まり、ボスと幹部がそろって夕食を楽しむのだが、ボスはしばらく屋敷を空けている今、幹部たちは自由気ままに過ごしている。


「台風でも来たのか? すごいうるささだな」


「リカルドが爆発させちまったのさ。いい気味だよ」


「もしかしてオルガ、怒ってる?」


 セルジオが軽い笑みを浮かべて、オルガの顔を覗き込む。


 オルガはずっと、この屋敷で働いてきた。ボスですらも頭の上がらない彼女は、セルジオやリカルドにとっては姉であり母のような存在。

 裏社会に身を置く彼らにだって、オルガのような存在は必要だ。


「怒っちゃいないよ。ただやるせないだけさね」


「やるせない? なんで?」


「……あんた達がどう思ってるかは知らないけどね、あたしにとってブランカは、実の娘も同然だったんだよ。母親を早くに亡くして、実の父親には利用されて……。そんなあの子がこの世に残したたったひとりの娘が、あたしには気がかりでならないよ」


 オルガは今でもよく覚えている。ボスが連れてきた、美しくて若い娘────ブランカ・フォレスティ。絹糸のようなプラチナブロンドの髪に、透き通るほど鮮やかな青い瞳を持つブランカは、誰よりも優しかった。

 普通の家に生まれていれば、きっと素晴らしい人生を歩めたはずだろうに、ただ生まれた家が悪かっただけで、彼女の人生は大きく狂った。

 なんて可哀想な子だろうか。事故で夫と息子をいっぺんに亡くしたオルガにとって、ブランカは無視できない存在だった。


 だからあの日、屋敷を出て行くブランカに何度も何度も言って聞かせた。


 子どもを産むのはやめな、産んじまったらもう、戻れないんだよ────。


 我ながらひどいことを言う、と思ったものだ。

 だが言わずにはいられなかった。普通の生活を送りたいと思うのであれば、ファミリーの、しかもボスの子を産むべきじゃない。どんな形であれ、繋がりは断つべきだ。

 そう忠告したのに、あの子は大バカ者だ。

 結局ブランカは、オルガの忠告を無視して、子どもを産んだ。


 その子どもが今、この屋敷にいる。運命の神は随分と薄情らしい。

 もちろんオルガは、神になんて祈ったことは一度もないが。


「そんなに思いつめなくてもいいんじゃないか? だってあの子は、ボスの娘だ。誰もいじめたりなんかできない。むしろその逆だ。どいつもこいつも、甘やかしてくれるさ。それこそ、お姫様みたいにな」


 先行きを案じるオルガと違い、セルジオはあっけらかんとしている。


「あんた達がそうでも、黙っちゃいないのが大勢いるだろ。外にも、中にも」


 こんなにも心配しているのは、自分だけなのか。

 オルガはやれやれと肩を落とす。


「あたしはエマの様子を見てくるよ。あんた達は適当に食べな」


「そのつもりだよ」


 飄々とした笑みを浮かべて、セルジオは厨房へ入っていく。

 それを見届けてから、オルガは丸まっていた背をぴん、と伸ばして歩き出す。


 男ってのは昔から、勝手なもんさ。振り回されるのはいつだって、女の方。


 オルガは憂いの表情を取り払い、使用人棟と本棟を繋ぐ扉のドアノブに手を伸ばす。

 ただでさえ不安な気持ちでいっぱいだろうエマに会いに行くのだ。安心させるためにも、笑顔でいなくちゃいけない。

 それに自分は、この屋敷の家政婦長だ。情けない顔は見せられない。





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