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ラウロ・ネスタの左の目じりの下には、小さな傷跡がある。
それは三年前の暑い夏の夜、エマがつけた傷だ。
その傷は今も、ラウロ・ネスタの目じりの下に居座り続けている。忘れるな、忘れさせない、と言わんばかりに。
* * *
「まさかこんなとこでお前に会うとはな」
ラウロが笑えばエマは眉をひそめ、ラウロが一歩前へ踏み出せば、エマは一歩後ろへ下がる。
正直に言おう。
エマはラウロ・ネスタが大嫌いだ。
高校時代、素行が悪く教師に目を付けられていたラウロと、常に成績上位をキープし真面目に高校に通っていたエマの接点は、そう多くない。
なんならエマは、ラウロのようなタイプの人間を避けるような人生を送ってきた。
そんな二人がトラモント・ファミリーの屋敷で再会してしまったのは、偶然なのか必然なのか。
どちらにしろ、エマには最悪でしかない。
「うちの構成員に、ってのはありえねぇか。オレらみたいな人種、毛嫌いしてたもんな。じゃあ……あれだ。金に困って働きに来た。だろ?」
何が「だろ?」、だ。
顔を見るのも嫌、声を聞くのも嫌。
エマはラウロのすべてを無視して、中央階段を駆け下り、正面玄関へ一直線に向かう。
あの扉を抜ければ、もう外だ。外に出てしまえば、勝ったも同然。あとは駅に向かってひたすら歩けばいい。ジャルダン県行きの列車がなかったとしても、スメラルド州行きの最終列車がなかったとしても、ルビーノ州から出られるのであれば、どこ行きの列車だって構わない。
だというのに、ラウロがエマの目の前に立ちふさがった。相変わらず、趣味の悪い香水を愛用しているようだ。
「どいてください」
視界に入れるのも嫌で、エマの視線は明後日の方向に向けられている。
「すました顔は変わらず、ってわけだ。素直に認めろよ。金に困ってんだろ? じゃなきゃココにいるはずがない」
「あなたには関係ありません」
抑揚のない声で突き放し、エマはラウロを避ける──が、ラウロがまた、エマの前に立ちふさがる。
なんて邪魔なのかしら!
今すぐにでも、目の前の男の足を踏んづけてやりたい。
でも決行に移さないのは、そんなことする時間が無駄だから。
私はさっさと、この屋敷を出て行きたいのよ。だから邪魔しないで!
「──待てよ」
ラウロを押しのけようとすれば、逆に手をつかまれた。
「離してっ」
反射的にエマは、ラウロを見た。黄色にも見える金髪と、黒に近い茶色の瞳、それから目じりの下にある小さな傷跡──記憶の中のラウロ・ネスタは、三年の月日を経て、それなりの容姿に成長したらしい。
私にはどうでもいいことだけど。
「お前さ、もうちょっと可愛げってもんを覚えたほうがいいぞ。顔が良くても、その性格じゃあ男は寄り付かねぇよ」
そんなこと、心底どうでもいい。
エマの優先すべきことはいつだって、色恋じゃなくお金と母親のことだったのだ。
「どうせ今もフリーなんだろ? そうだ。男、紹介してやろうか? それとも実入りの良い働き口の方がいいかもな。オレの気が向いたら、相手してやってもいいし────」
瞬間、玄関ホールに響いたのは頬を打つ音。
ぶったのはエマで、ぶたれたのはラウロだ。
ラウロは何が起きたのかすぐには理解できないようだったが、ぶたれた頬の痛みに気づくと、一瞬にして茶色い瞳に怒りの炎が宿る。
「この────」
だがひどい言葉を吐き出す前に、ラウロの動きがピタリと止まる。
「その口を今すぐ閉じなさい。耳障りよ」
エマの鮮やかな緑色の瞳は、ゾッとするくらいにどこまでも冷えている。
ラウロはその瞳の冷ややかさに怖気づきそうになったが、女に、しかもあのエマ・フォレスティにぶたれたという事実が、彼を大人しく引き下がらせてはくれなかったようだ。
「偉そうに……!」
やられたのなら、やり返す。
相手が女であろうと、関係ない。
ラウロが手を上げ、そして────、
「何をしている」
玄関ホールに響いたのは、頬をぶつ音ではなく、低い男の声。
エマとラウロ、二人そろって声のする方、正面玄関を見れば、そこにはたった今帰って来たばかりのリカルドが立っていた。
* * *
「何をしている」
リカルドは同じ言葉を、また言った。
それに反応したのは、エマではなくラウロ。
「リカルドさん、これは──」
「何故ここにいる? セルジオはどうした?」
リカルドは眉をひそめたまま、ラウロを無視してエマに話しかけている。
「まったく……来い」
信頼できるが信用はできない、ということか。
リカルドは苦々しく思いながら、当たり前のようにエマの手を取る。
「は、離して……」
「面倒をかけさせるな」
「────っ」
リカルドが苛立ちを隠さず、エマを睨みつける。
ラウロの時には感じなかった恐怖が、心の片隅に顔を出す。
そのせいでエマは、抵抗するタイミングを逃してしまった。
「リカルドさん!」
エマの手を引き、中央階段を今まさに上がろうとするリカルドに、ラウロが「オレもいる!」と言わんばかりの声でリカルドの名を呼んだ。
「なんでリカルドさんが、そいつを連れて行くんですか?」
本来、ラウロのような準構成員は、リカルドをはじめとした幹部に気安く声をかけられる立場にはない。幹部の機嫌が極端に悪ければ、話しかけた瞬間、銃口が火を噴く、なんて事件もあったほど。
それを知っていたのに忘れてしまったのか、それともはじめから知らなかったのか。
まあなんにせよ、リカルドにはどうでもいい。
「口を閉じろ。耳障りだ」
抑揚のない声に、冷えた紫の瞳、それから、どこかで聞いたようなセリフ。驚きに目を見開いたのは、ラウロだけじゃなくエマもだった。