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リカルド・ダヴィアの役目は、ふたつ。
エマ・フォレスティの世話と護衛。厄介な仕事を押し付けられたと思ったが、敬愛するボス直々に頼まれてしまったら、断れるはずもない。
だがボスは本当に、あんな小娘にトラモントを任せる気でいるのだろうか?
古く歴史のあるファミリーほど血統を重要視するが、だからといって二十年間、普通の生活を送ってきた人間がいきなりファミリーに加わっても、馴染めるはずがない。浮くだけだ。
それでもボスは、エマ・フォレスティにトラモントのすべてを譲る気でいる。幹部どころか、構成員すらも納得していないことを承知の上で。
「…………チッ」
空の箱をぐしゃりと潰す。
苛立ちからか、ここ最近、タバコを吸う量が格段に増えている。体に悪いとわかっていつつも、どうにもこればっかりはやめられない。
「お姫さんはあの部屋、気に入ったか?」
中央階段を降りて玄関ホールに戻れば、セルジオはまだ、そこにいた。手には郵便物がある。
「部屋どころじゃなさそうだ」
脳裏に浮かぶのは、部屋に残してきたボスの娘の顔。
二十年間、自分の父親が誰なのかも知らずに生きてきた彼女にとって、父親の正体は想像を絶するものだっただろう。容易く受け入れられるはずもない。
その点は同情の余地あり──だが、時間的余裕は残念ながらないに等しい。受け入れらずとも、理解できなくとも、もう逃げ道は強制的に断たれてしまったのだから。
「どっか行くのか?」
「タバコを買いに、ちょっと出てくる。──頼んでもいいか?」
この屋敷には現在、ほぼ住人がいない。幹部のセルジオと、信頼できる構成員が数名、それから長年屋敷で働いている古参の使用人が幾人か。
余計な騒ぎを回避するため、エマを連れてくるには最適と思い、わざわざこの日を選んだ。
「逃げると思ってるのか?」
「……どうだろうな」
喚き散らしたりはしなかったが、追い込まれた人間は予想外の行動を取りかねない。用心するに越したことはないだろう。納得してはいないが、ボスに頼まれた仕事だ。手抜きなどしない。
「ま、気にかけとくさ」
飄々としてつかみどころのない男だが、信頼はできる。
エマのことをセルジオに頼み、リカルドは屋敷の外へ出た。
* * *
エマは疲れていた。無理もない。八時間の列車移動と、予想を裏切る父親の正体。肉体的にも精神的にも疲れていて、今すぐにでも休みたいくらい。
でも悠長に休んでいられる時間はない。脳裏によみがえるのは、リカルドの無慈悲な言葉。
──帰る場所なんて、どこにもない。お前の家は、今日からここだ。あのアパートメントは今頃、アレッシオが引き払ってる。
あんまりよ。勝手すぎる。
この屋敷と比べれば、そりゃあ粗末な部屋に見えるでしょうけど、私にとっては唯一の帰る場所なの!
それをあの男達は、無情にも奪おうとしている。
こんなことになるとわかっていたら、来なかったのに!
「……帰らなきゃ」
そうよ、帰らなきゃ。
エマは押し寄せる疲れを無視して、立ち上がる。世界は夕暮れの赤に染まっているが、まだ夜じゃない。最終便にさえ間に合えば、あの退屈でつまらない、けれど愛すべきいつもの日々に戻ることができる。
だがエマが部屋の扉を開けるよりも先に、誰かが扉を開けた。
リカルド? それともセルジオ?
誰が来たとしても構わない。──私は帰るの。誰に何を言われても、この気持ちは変わらない。
そう強く意気込んだのだが、現れたのはリカルドでもセルジオでもなく、ふくよかな体系の女性だった。女性は使い込まれたエプロンを身に着けていて、雑に結われた髪は濃い茶色。年齢は六十代くらいだろうか。外見だけで判断するなれば、現れた女性はファミリーの一員ではなく、酒場や宿屋を取り仕切る女主人のように見える。
「あんたがブランカの娘かい?」
動けずに立ち尽くすエマを上から下までチェックした女性は、さも当然のように母の名を口にした。
「なるほどね、あの子の若い頃に似てるよ。髪と目の色を除けばね」
「……母を知ってるんですか?」
エマの返事を待たず、ひとり勝手に納得した女性は、遠慮のない足取りで部屋の奥へ足を進める。
「知ってるよ。今のあんたと同じくらい美人で、可哀想で、────人の忠告を聞かない馬鹿な子だった」
母を語る女性の瞳は、涙こそ流れていないが悲しみであふれている。
それがどうしてなのか、エマにはわからない。
でも何か言ったほうが良い。空気があまりにも重すぎるから。
「あ、あの────」
「余計なことを言ったね、忘れてちょうだい。──あたしはオルガ。この屋敷の家政婦長を任されてる。ここに来たのは、今夜のディナーについて聞くためさ。嫌いな食べ物はあるかい? 料理長のセサルは腕はいいんだけど、愛想がなくてね。かわりにあたしが聞きに来たんだよ。ああ、それと部屋は気に入ったかい? 家具なんかはすべて、旦那様自ら選んだんだよ。趣味がいいとあたしは思うんだけど、どうだい?」
オルガは早口だったが、エマはなんとか話の内容を理解することができた。
「……部屋はとても素晴らしいと思いますけど……ディナーは結構です、いりません。私は帰るので」
「帰る?」
エマの返答に、オルガの目が見開かれる。
「帰るって、どこへ帰るんだい?」
「ジャルダンです、スメラルド州の」
「…………リカルドが許したのかい?」
「いいえ」
「じゃあ誰が許可を?」
「私です。私が決めました」
オルガは部屋に来た時と同じようにエマを上から下まで見て、それから呆れたように息を吐いた。
「帰るのは無理だよ、諦めな」
軽く手を振り、オルガはエマの荷物──と言ってもカバンがひとつだけなのだが──に手を伸ばす。
それを慌てて、エマが阻止する。
「私は帰りたいんですっ」
オルガと距離を取り、エマは懇願するように彼女を見つめた。
リカルドよりも、オルガの方が話は通じるのではないか。必死に頼み込めば、自分に同情して帰してくれるかもしれない。
そう思ったのだが、オルガもリカルドと同じだった。
「あんたの家は、今日からココなんだよ」
「…………」
そんな言葉が欲しかったんじゃない。
エマが泣きそうな顔をすれば、オルガは困ったように肩をすくめた。
「あんたの境遇に同情しなくもないけどね、ボスが白と言えば、黒も白にかわる。ボスがあんたをココに住まわせると決めた時点で、誰も逆らえやしない。ココはそういう場所なのさ。だから素直に諦めな」
内容はともかくとして、オルガの声音は優しかった。
けどエマは納得できない。できるはずがない。
「この家の人はみんな、勝手だわ」
父親に会うと決めたのは、他ならぬ自分自身。
だけどすべてをゆだねたつもりはない。自分のことは自分で決める。今までずっと、そうしてきたんだから。
「私、帰ります」
「ちょ、お待ち!!」
オルガの呼び止める声を無視して、エマは部屋を飛び出す。
ファミリーのボスが父親だなんて、冗談じゃない。
そんな父親なら、いない方がよっぽど良い。
エマは来た道を迷いのない足取りで進む。昔から、記憶力は良いほうだ。
その証拠に、中央階段まですぐにたどり着いた。
けれどエマの足は、階段を降りる前に止まってしまう。
「まさか、お前…………エマ・フォレスティ……?」
玄関ホール、エマの存在に気づいた青年が、こちらを見た瞬間、目を見張る。
お互いに、この再会は予想外だ。
エマの表情が険しくなり、そして吐き出すように青年の名を呼ぶ。
「────ラウロ・ネスタ」
それはもう二度と、口にしたくなかった名前だ。