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エマ  作者: 小さな月
Tempesta……吹き荒れる嵐
31/32

2ー24


 芸術祭最終日。


 エマの体調は良くなっていた。

 ロイド曰く、薬の濃度が濃すぎたせいらしい。なんの薬かは教えてくれなかったが、エマも知りたいとは思わなかったので、追求することはなかった。


「ザッフィーロの別宅は、静養するには申し分ないですよ。自然が多く、空気も澄んでいます」


 アレッシオの仕事部屋で、エマはアリーチェとフラヴィアの今後についての最終確認をしていた。足早ではあるが、ふたりは今日、この屋敷を去る。

 フラヴィアが望んだのだ。

 なるべく早く、この屋敷を出て行きたいと。


「専門家も手配しましたし、そう心配せずとも大丈夫ですよ」


 今回の件は、ベルトランドの耳に入っているらしく、エマのしたいように、と指示を受けていると聞いた。責任を押し付けられたような気もするが、目を逸らすことはできない。

 最後まで見届ける義務がある。


「私がいなければ、何も変わることはなかったんでしょうね」


 ぽつりと漏れたのは、本音だった。

 目まぐるしく過ぎていった日々。

 この数日間で、エマとアリーチェ、そしてフラヴィアの日常は大きく崩れ落ちた。誰が悪いだとか言うつもりはないけれど、自分が嵐の中心にいたのは確かだと思う。


「起こり得るすべてのことは、必然なのですよ」


 微笑みを浮かべ、アレッシオがエマの向かい側に腰をおろす。


「今日が最終日ですが、出かけますか?」


「いえ、そんな気分にはなれそうにないので」


 使用人の多くは、今夜の芸術祭の最終日に合わせ、出かけると聞いている。カロリーナやヴィヴィアナも、今朝は随分と楽しそうにしていた。


「そうですか……。一応、ここからも花火は見えますよ」


 気を遣ってくれるアレッシオに、エマは微笑みを返す。

 気分が晴れないのは仕方がない。誰も、こんな結果は予想していなかっただろう。気持ちを切り替えようと思うのだが、少なくとも今は無理だ。

 アリーチェたちを送り出したら、きっと自然と、心が落ち着きを取り戻すはず。


「そろそろ時間ですね、行きましょうか」


 腕時計で時間を確認したアレッシオが、立ち上がる。


 玄関ホールには、いくつものトランクケースが置いてある。大きな家具などは持って行かないことになったが、服や細々としたものはなるべく持って行くことにフラヴィアが決めたのだ。

 アリーチェが気に入っているものは特に。


「おば様」


 エマが声をかければ、フラヴィアは疲れた顔でこちらを見た。濃い緑のワンピースを着たフラヴィアは、飾り気がない。


「アリーチェはまた、私を母と呼んでくれるかしら?」


「おば様次第です」


 フラヴィアの視線の先には、人形のようなアリーチェがいる。車の後部座席に、じっと座っているだけ。


「……私がアリーチェを追い詰めたのよね」


「過去を見ずに、未来を見てはどうです? このチャンスを活かせるかどうかはすべて、おば様次第なんですから」


 過ぎ去りし日々には、誰も戻ることなどできない。

 だから人は、前を見て歩くのだ。


「そうね、そうするわ」


 憂いを帯びたフラヴィアの横顔は美しい。

 エマは荷物を運ぶ男たちの間をすり抜け、アリーチェに近づく。別れの挨拶をしていないのだ。


「アリーチェ」


 声をかければ、アリーチェは視線だけを動かし、エマを見た。


「今から少しだけ遠くへ行くの。とても良いところだから、なんの心配もいらないわ」


「ママもいっしょ?」


「──ええ、ママも一緒よ」


 微笑みを返し、エマは従姉の頬に別れのキスを贈る。

 いつかまた会う日が来るだろうけれど、それがいつになるのかはわからない。

 そのとき、アリーチェの心に光が宿っているかどうかもわからないけれど、今は信じることしかできない。


「エマ」


 車から離れたエマに、ラウロが声をかける。

 ラウロもまた、覇気がない。


「なんでオレを、一緒に行かせるんだ?」


 エマを連れ去った男たちの処遇は、リカルドに任せた。エマにはどうすればいいのか、わからなかったから。

 ただラウロだけは、ザッフィーロに向かうアリーチェに同行させようと思ったのだ。


「あなたはアリーチェに優しくできるでしょう? ただそれだけよ」


 チャンスは誰にでも与えられるべきだとは思う。やり直すチャンス、生き直すチャンス──それらを掴めるかどうかは、本人次第だろうけれど。

 エマは玄関ホールに戻り、車に乗り込むフラヴィアとラウロを見送る。


 車はゆっくりと正門へ向かって走り出す。見えなくなるまで、エマはそこに立っていた。





「なんだ、お前も出るのか」


 玄関ホールでちょうど、セルジオはアレッシオと鉢合わせた。


「おや、君もですか」


「見回りだよ、最終日だからな」


 銀色の前髪を気だるそうにかきあげ、外を見る。

 幸いなことに、芸術祭の間、天気はずっと崩れなかった。今夜の花火は、さぞ綺麗だろう。


「お前は?」


「燃えてしまったホテルの後始末だとかがありましてね」


「なるほど」


 ふたり揃って外へ出れば、二台の車が待っていた。

 外は冷えている。コートはまだ必要ではないが、冬は確実に近づいて来ている。


「寒いのは苦手なんだよな」


「昔からそうですね、君は。──お嬢様は今夜、出かけないそうです」


 アレッシオは背後を振り返り、セヴェリーニ邸を見上げる。

 見事な屋敷だ。

 この土地にこの屋敷を建てたのは、きっと街を見下ろせるからなのだろう。


「いいんじゃねえか、こっからでも花火は見えるだろ」


 セルジオの反応が意外で、アレッシオは驚く。

 てっきり、興味がないのかと思っていたのに、気遣うような言葉が出てくるとは。


「少しは彼女を認めた、ということですか?」


「さあな」


 にやりと笑って、セルジオは自分の車に乗り込む。

 それを横目で見送り、アレッシオは自分の車に乗る。


 アリーチェとフラヴィアの件は、本当に予想外の結末を迎えた。

 当初、アレッシオたちはふたりをザッフィーロの別宅に引っ越しをさせようと思っていたのだが──結果としてはそうなったが──、ふたりがおとなしく従うとは思っていなかった。

 なのでどうやるべきか、と頭を悩ませていたが、ほんの一週間程度でことは片付いた。


 もちろん、アリーチェがあんな状態に陥ってしまったことは決して喜ぶべきことではないが、これによりエマの後継者としての地位はより、強まったのだ。


「障害は少ない方がいい」


 アレッシオはなんの感情も乗らない顔で、窓の外を見つめる。

 トラモントが今後とも確固たる地位と絶大な影響力を保つためには、やはりボスの存在は必要不可欠だ。アリーチェはボスたる器ではなかった。

 ならばエマはどうだろうか? 二十年、普通の生活を続けてきた子だ。

 今後も多方面からの反発はあるだろう。

 だが少なくとも、リカルドとセルジオ、そして自分──三人の心は彼女に傾いた。

 あとは一歩ずつ、エマをボスに近づければいい。


 黒が白に戻るのは難しいが、白が黒に染まるのはさして難しくはないのだから。




 無人の調理場を見て、エマはどうしようかと迷ってしまう。

 セサルまで出かけているのは、予想外だった。主人のいない調理場を、勝手に触ってもいいものだろうか。


「どうしよう……」


 なんとなく今夜は、お酒でも飲もうかと思ったのだ。お酒に強いせいで酔っ払ったことはないけれど、飲みたい気分になることもある。

 今夜は特に。

 そんなことはない、と言われてしまいそうだが、エマはアリーチェたちを追い出したような気持ちでいっぱいなのだ。酔えるものなら、酔ってしまいたい。

 とはいえ、調理場に置いてあるお酒のほとんどは調理用らしい。お酒は別に保管してあるようだ。


「何してるんだ?」


「──!!」


 誰も来ないと思っていた調理場に、自分以外の誰かが現れた。

 エマはびっくりして振り返り、調理場の出入り口に立つリカルドを見て、ほっと息を吐く。


「出かけなかったんですね」


「花火に興味はないからな。それに、お前をひとり残すわけにもいかないだろう」


 言われて気づく。

 セルジオもアレッシオも、仕事のために出かけたのだ。警備は当然の如く配備されているが、彼らは基本、屋敷の中までは入ってこない。

 となるとやはり、ひとりくらいは幹部が残っていなければいけないのだろう。


「で、何をしてるんだ?」


「あ、お酒でも飲もうかと思って」


「飲めるのか?」


 意外だ、とでも言いたげに、リカルドがエマを見る。


「これでも強い方ですけど……」


 しかしながら、お酒は見つかりそうにない。ワインセラーの場所は知っているが、あそこはいつも鍵がかかっているし、買いに行くほど飲みたいわけでもないから、今夜は諦めよう。


「ついて来い」


 調理場を出ようとするエマを、リカルドが呼んだ。

 どこへ行くのかわからなかったが、目的地はすぐにわかった。リカルドの寝室だ。


「あの」


 リカルドの寝室に来たのは、二度目、だったような気がする。部屋の広さは、エマの部屋よりも狭いが、それでも十分すぎる大きさだ。部屋のつくりは、エマのものと似ている。

 おそらく、奥にある扉の向こうはバスルームだろう。


「好きなのを持って行け」


 リカルドに声をかけられ、エマはそちらを向く。

 そこには棚が置いてあり、中にはいろんなお酒の瓶がコレクションのように並べられていた。

 どれもこれも高価そうで、エマは躊躇してしまう。お酒を飲みたい気分だったけれど、もっと庶民的なものでよかったのに。


「高そうなんですが……」


「だからなんだ」


 なんでもないことのように言って、リカルドはグラスをふたつ、棚から取り出す。


「どれだけ値が張ろうとも、酒は酒だ。飲まれてこそだろ」


 ブランデーの蓋を開け、グラスに注ぐ。芳醇な香りが、ふわりと広がる。


「──あ」


 差し出されたグラスを受け取った瞬間、窓の向こうがぱっと明るくなった。花火があがったのだ。


「もうそんな時間か」


 窓に歩み寄り、リカルドがカーテンを開く。夜空にいくつもの花火が次々と上がり、まるで真昼のようだ。

 離れていてもこれだけ眩しいのだから、間近で見ている人たちはどれほどだろうか。


 エマはグラスを握りしめたまま、夜の闇に明るく打ち上げられる花火を見つめ続ける。

 こんなにも盛大な花火を見たのははじめてだ。眩しすぎて、けれども一瞬で散ってしまう。


 ふと視線を感じて、エマは窓に寄りかかるリカルドを見る。

 リカルドは花火ではなく、エマを見ていた。


 エマは何か言おうと思ったが、言葉は出てこなかった。

 ただ黙って、リカルドの紫色の瞳を見つめ返す。

 どうして目をそらさないの?

 どうして何も言わないの?


 どちらが先に動いたのか。

 リカルドの手が、エマの髪に触れた。骨ばった男の人の手──髪を撫でて、耳に触れ、指先が頬にあたる。

 これがロマンス小説ならば、リカルドはキスをするのだろうけど、そんなことにはならない、とエマは確信していた。


「男の寝室に、入るべきじゃない──特に夜は」


 どこかで聞いたようなセリフに、エマは微笑む。


「そうですね、私もそう思います」


 グラスをテーブルに置いて、エマは部屋を出る。

 廊下に出れば、冷えた空気が頬に気持ち良かった。扉に背を預け、自分の胸に手を当てる。

 この胸の内に芽生えようとする感情に、気づきたくはない。気づいてはいけない。気づいてしまったら、認めるしかないもの。

 でもエマは、この芽生えようとしている感情の名前を知っている。


 いいえ、知らないままでいて。

 いずれ自分は、ここを去るのだ。深入りすべきじゃない。


 エマは自分の部屋へ入ると、ゆっくりと静かに、心を閉ざすように扉を閉めた。




ひとまずこれで、第二章を完結とします。

駆け足感が否めず、確実に大幅な加筆修正が必要だとは思うのですが、そちらに集中すると先に進めなくなりそうなので、今は話を前に持っていく方に集中したいと思います。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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