2ー23
セヴェリーニ邸へ戻ったエマは、応接間にいた。出迎えてくれたオルガが部屋へ連れて行こうとしたが、それを丁重に断り、この部屋で医者が来るのを待っているのだ。
医者は先に、アリーチェを診ている。
応接間に来たのははじめてだが、ソファの座り心地が悪くないことは救いと言えた。体調は良くなりつつあるが、それでもまだ、本調子とは言えない。時間が経てば、きっと良くなるとは思う。
「お嬢様、ウェズリー医師です」
ノックの後、部屋に入ってきたのはリカルドとアレッシオ、そして丸メガネの男だった。
「はじめまして、お嬢様。ボクはロイド・ウェズリーです」
「……はじめまして」
丸メガネの男──ロイド・ウェズリーには、訛りがある。外国の人なのかもしれない。メガネの奥の濃い茶色の瞳は落ち着いている。茶色い髪はところどころはねていて、スーツにしわが多いところを見るに、おそらく身なりには無頓着なのだろう。穏やかな雰囲気がある。
「アリーチェはどうです?」
「命に別状はありませんよ」
その一言に、エマは安堵の息を漏らす。
「体は回復しますよ、彼女にその気があれば」
「どういう意味です?」
ロイドがエマの隣に座り、大きなカバンから聴診器やらなんやらを取り出している。
「そのままの意味ですよ。彼女──アリーチェは心を閉ざしてしまった。心ほど難しいものはないのでね」
神妙な顔をするロイドを見つめ返すが、彼は何も言おうとしない。
エマは近くに立つリカルドとアレッシオを見上げ、説明を求めた。
「その、アリーチェ様が一切、話そうとしないんです。ウェズリー医師の診断では、つまり、その」
はっきりとしないアレッシオに苛立ったが、言いたいことはなんとなくわかった。
「先生、アリーチェに会ってもいいですか?」
「それは構いませんが、今はお嬢様を診察しているので、その後に──」
最後まで聞かず、エマはソファから立ち上がった。応接間を出ようとしたが、リカルドによって阻まれてしまう。
「会うなとは言わない。だがまずは、自分を優先しろ」
「でも」
「お嬢様、リカルドの言う通りです。貴女も顔色が悪い」
リカルドとアレッシオ、ふたりに言われてしまい、エマは仕方なくソファに戻ることにした。
「症状を聞いても?」
「頭痛と吐き気、それからめまいです。徐々に良くなっているとは思います」
ロイドの質問に、エマは淡々と答えるしかなかった。
フラヴィアは困惑していた。
こんな娘を見たのははじめてだ。ベッドの上、アリーチェは静かな呼吸を繰り返している。手は冷たいけれど、ちゃんと血が通っている。
けれどアリーチェは、ちっともこちらを見ようとしない。
「アリーチェ?」
声をかけても、何も言わないのだ。瞳はずっと、宙を見つめている。
「アリーチェ、ママよ」
頬に触れてみても、声をかけても、何をしてもアリーチェはこちらを見ない。
この子は本当に、私の娘なの?
こんな子、知らないわ。
「どういうことなの?」
オルガに声をかける。屋敷に戻ってきたアリーチェの着替えなどを、オルガが行ったのだ。
「ウェズリー医師の話では、心の問題だろう、とのことです」
「心? 精神に問題があるということ?」
「詳しいことは、あたしには……」
オルガは家政婦長であって、医者ではない。
フラヴィアは再び、娘を見た。薬を大量に飲んで、胃の中をきれいにした、命に別状はない。
そう、聞いている。
「アリーチェ、ママを見て。聞こえているでしょう?」
優しく声をかけるが、アリーチェはなんの反応も見せない。
「アリーチェ、何か言って。お願いよ」
両手でアリーチェの頬を包み込み、フラヴィアは娘の瞳を見つめる。
なんて美しく空虚な瞳だろうか。生きているのに、死んでいるみたい。
「アリーチェ、どうしてなの……?」
どんなに拒もうと、この子はずっと、私のそばにいるのだと思っていた。
それなのに今、アリーチェの瞳に自分は映らない。
フラヴィアはどうしてだか、泣きたくなった。
何もかもがどうでも良くて、けれども抗いたくて、娘にすべての責任を押し付けようとした。
その報いがこれだというの?
「ロイドはどこにいるの? アリーチェをもう一度、診てもらわないと」
「何度診ても、同じですよ」
動揺を必死に押し隠すフラヴィアの耳に届いたのは、言葉に訛りのある男の言葉。ロイド・ウェズリーが、部屋にいた。
ロイドの後ろには、エマがいる。
「今のアリーチェの問題は、体ではなく心です。無理を強いてはいけない」
「じゃあどうすればいいの? この子はずっと、このままなの?」
「心の病というものは、非常に厄介なのですよ。明確な治療法はない」
見た目こそ穏やかな男ではあるが、その声には有無を言わせぬ力強さがある。
「医者でしょう? 匙を投げるつもりなの?」
「おば様」
落ち着いたエマの声に、フラヴィアはぎろりと睨みつける。
この場にエマがいることが、フラヴィアには納得がいかないのだ。
「あなたには関係のないことよ、出て行って」
「いいえ、そういうわけにはいかないんです」
エマがゆっくりと、ベッドに近づく。近くに来て、ようやくわかった。顔色が良くない。服も汚れて乱れている。
それでも、緑色の瞳には強い光が宿っていた。
「アリーチェがこうなってしまった原因を、おば様はよくわかっていらっしゃるのではありませんか?」
「何を──」
「……ママ」
アリーチェの声が聞こえて、フラヴィアはすぐさまベッドの上に横たわる娘を見た。
ほら、やっぱり。アリーチェは元気じゃない。
そう思ったけれど、アリーチェの視線の先にいるのが自分ではなくエマだということに気づいたとき、フラヴィアは絶望した。
たったひとつ、決して崩れないと思っていたものが、いとも容易く崩れ落ちた瞬間だった。
「おやすみなさい、アリーチェ」
エマがそう言うと、アリーチェはゆっくりと目を閉じた。
静寂に包まれる部屋の中、フラヴィアは自分が責められているような気がして、この場から逃げ出したくなった。
「おば様、私はあなたに最後のチャンスをあげようと思います」
「チャンス?」
「ええ、あなたがもう一度、母親になれるチャンス」
この娘は何を言っているのだろう?
私はもう、母親だわ。
「アリーチェの目にはもう、そう映ってはいない」
「そんなこと、ないわ」
弱々しい否定だった。説得力はどこにもない。
それでも否定しなければ。そうしなければ、肯定することになってしまう。
フラヴィアはぎゅっと、自分の手を握りしめる。
「アリーチェはザッフィーロで静養するわ。ここは騒々しいから」
フラヴィアを見下ろすエマは、怖いほどに落ち着いている。
オルガとロイドが、部屋を出て行く。リカルドは何も言わず、扉の前に立っている。
室内は身震いするほどに静かで、フラヴィアは息苦しさすら感じてしまう。
「でもあなたを、アリーチェのそばに置くべきか迷っているんです」
「私は母親よ!」
キッ、とエマを睨むが、エマは冷めた目でこちらを見下ろすだけ。
こんな目をする子だったかしら?
「母親? いいえ、違うわ。あなたに母親の資格はない。アリーチェを愛していないでしょう?」
穏やかな声音、冷えた瞳。
このアンバランスさはなんだろう?
「かわいそうな子、母親の愛を一途に求め続けた結果がこれだわ。あまりにも悲しすぎる。この結果を招いたのは、あなた自身でしょう? アリーチェのことはきちんと責任を持ちます。だからあなたは、どこへなりと行けばいいわ。嬉しいのでは? これでようやく、自由になれますよ」
「あ、アリーチェをひとりにはできないわ」
「心を乱す人がそばにいるくらいなら、いっそ孤独の方がマシなのでは?」
言葉は鋭利な刃物だ。
エマは容赦なく、フラヴィアの心を抉ろうとしている。
「だめよ、アリーチェは私の娘なの。私のただひとりの娘──私がそばにいないと……チャンスをくれると、さっき言ったわよね?」
エマの手を掴む、すがるように。
何もかもがどうでもいい。
けれど実際、そんなことはなかった。こちらを見ようともしないアリーチェ、私ではなく別の人をママと呼ぶアリーチェ、私のせいで心が壊れてしまったアリーチェ──私の娘よ。大嫌いな男の血が流れた、父親に似てしまった娘。
ずっと私のそばにいると思ってた。
それなのにどうして、こんなことになってしまったの?
「ええ、チャンスは差し上げます。だから私に信じさせて欲しいんです」
「信じさせる……?」
「あなたがアリーチェを愛しているのだと、私に信じさせて。納得させてほしいの。どんな嘘を並べ立てても構わない。泣いても良いわ。だからおば様、これが最後のチャンスよ」
フラヴィアはエマの瞳を見つめ返す。
静かな緑色の瞳は凪のように穏やかで、けれども冷えている。慈悲と冷酷さが同居する、不思議な瞳。
これは誰の瞳だろう? ベルトランドのようで、ブランカのようで、けれども違うような。
「さあ、私を納得させて。あなたはアリーチェのそばにいるべきなんだ、と」
パタン、と扉の閉じる音が聞こえた。
リカルドが部屋を出ていったのだ。部屋にはエマとフラヴィアだけ──アリーチェは眠っている。規則正しい寝息と共に、小さく微かな声が聞こえたような気がした。
ママ……。
フラヴィアは涙を流し、口を開く。
求めたものはなんだった? 自分の心がわからない。
ただひとつ確かなことは、アリーチェがもう、私を見ないことよ。
私の娘、愛すべき、たったひとりの私の娘。
フラヴィアは言葉にならない言葉を繰り返す。感情がぐちゃぐちゃで、自分でもよくわからない。
それでも言葉を吐き出し続けた。
これが最後のチャンスだから。
私、愛するわ。──愛してるわ、アリーチェ。
だからもう一度、私を見て、ママと呼んで。何年、何十年先でも構わないから。




