2ー22
緑色の瞳が揺れている。涙こそ流れてはいないが、その瞳はかすかに潤んでいるようにも見えた。
リカルドは引き金から指を離し、床に座り込むエマのすぐそばに膝をつく。見たところ怪我はないようだが、随分と顔色が悪い。
「立てるか?」
こくりと頷くエマではあったが、明らかにふらついている。
ただこの状況に怯えているからだと思っていたが、どうやら違うらしい。
「何があった? 顔色が悪い」
「何も──」
目を逸らしたエマの顔を、リカルドはさも当然のように自分の方へ向かせる。
こちらを見上げる緑色の瞳は、光こそ失ってはいないが、弱い。
「カポ、こいつらはどうしますか?」
部下に声をかけられたリカルドは、エマから視線を外し背後を振り返る。
部下は床に倒れるラウロを含めた全員を拘束していた。
所詮は寄せ集めの集団。リカルドが統率する部下たちとは実力も経験も、差がありすぎる。制圧は容易かった。
「オレ達はお嬢様を助けようとしただけなんですよ! 裏切り者はこいつだけです!!」
命乞いのような声を上げる男を、リカルドは冷えた目で見る。
この状況だけを見て軽率に判断を下したりはしないが、今は釈明を聞くときではない。
「連れて行け」
男たちを一瞥して、リカルドは銃をホルスターにしまう。
そしてそのまま、エマを抱き上げた。
「あ、歩けますっ」
エマが抗議の目を向けてきたが、リカルドは気にしなかった。
どっかのバカが、隣の倉庫で火事を起こしたらしい。消防隊を呼んだが、今は芸術祭の真っ只中だ。道は混みに混んでいる。火は勢いを増しているし、早々にここから出なくては。
「文句は後でいくらでも聞いてやるから、黙っていろ」
本人は認めたくないようだが、エマは見るからに体調が悪そうだ。
そんな状態で走れ、とはさすがに言えない。
「ま、待って! アリーチェがまだ広間にいるの」
エマがリカルドのシャツを掴む。
「助けたいのか?」
誰のせいで自分がこんな目に遭っているのか、この娘はわかっているのだろうか?
リカルドにはエマの気持ちがさっぱりわからない。
「今は先に、お前を外に──」
すべてを言い切る前に、エマによってシャツの襟元を引っ張られた。
一瞬、バランスを崩しかけたが、日々鍛錬を怠らなかったおかげで、不格好に倒れたりはしなかった。
「私の目の前で、あの子を連れ出して。それをできないのなら、私はアリーチェと一緒にここに残ることになるわ」
腕の中、エマの緑色の瞳に強い光が宿る。
自分でも意外だと思うが、リカルドはこの強い光が宿ったエマの瞳が、思いのほか嫌いではない。
「──わかった」
部下を多めに連れてきたのは正解だった。
リカルドは部下に指示を出し、アリーチェがいるであろう広間へ足を向ける。広場の場所は、エマがきちんと覚えていたので迷ったりはしなかった。
中途半端に閉じられた、木製の両開きの大扉。
それを部下が開ければ、軋む嫌な音が響く。
広間の中央には、アリーチェが倒れていた。
愛されたいと願うことは、悪いことだったのだろうか?
ずっと、ママさえいればいいと思ってた。
周りの人はみんな、おべっかを言うくせに裏では散々、わたしをバカにする。わがまま、自分勝手──いろんなことを言われたけど、わたしの隣にはママがいてくれる。
だから大丈夫。
そう思っていたのに、やっぱりママはわたしを愛してなんかいなかった。
ずっと気づいてはいたけれど、認めるのが怖くて気づかないふりをしていたの。
ママ、わたしのママ──自由になりたいと願ったママ──。
ママの自由って、なんだろう?
ママが求めるものを、わたしは何ひとつあげられなかった。
だからママの最後の願いだけは、叶えてあげたい。
アリーチェは考えた末に、自分がいなくなればいいのかもしれない、という結論に辿り着いた。
わたしがいない方が、ママは自由なのかもしれない。自由になれるのかもしれない。
ママをセヴェリーニに、そしてトラモントに縛りつけていたのは、わたしなのかもしれない。
「ママ……」
起きているのが辛くて、そのまま床に横たわる。
およそきれいとは言い難い床。普段なら、意地でもこんな汚れた床に横たわったりなどしない。
でも今は、そんなことどうでもいい。何もかもがどうでもいいの。
アリーチェのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。視界が黒に塗り潰されていく。
ママはわたしがいなくなったら、悲しむかしら?
それとも喜ぶかしら?
「アリーチェ!」
大きな声が、アリーチェの名を呼ぶ。
「起きなさい、アリーチェ! 目を開けて」
焦りの色が滲む声。
これは誰の声だろうか?
アリーチェは重たいまぶたをなんとか持ち上げ、潤む視界に赤い髪の女を映す。
わたしと似ているようで、似ていない緑色の瞳を持つ、わたしの──。
「アリーチェ、私がわかる?」
頬に触れる手は冷たかったけれど、柔らかだった。白く優しい指が、アリーチェの涙を拭っている。
「ママ……」
ずっとずっと昔、まだ幼かった頃の記憶が蘇ってくるようだ。風邪を引いたとき、ママはこうしてわたしのそばで、わたしの名前を呼んでくれた。
あのとき、ママはどんな顔をしていたっけ。
「元気はなかったけど、こんな感じじゃなかったわ。何があったの?」
「──過剰摂取だ」
男の手が、アリーチェのすぐ近くに投げ捨てられた袋に伸びる。
最近はよく眠れないから、と医者に無理を言って薬をもらった。
それを一気に飲んだ。楽になれるかと思って。
もうママのことで一喜一憂したくない。自由になりたいのは、わたしの方なのかな?
「なんの薬を飲んだんだ?」
「いいから早く連れ出して!」
落ち着いた男の声と、焦った女の声。
女はわたしを心配してるみたい。
すぐそばに感じる、他人の体温。
なんだかとても、懐かしい香りがする。
「死なせたら、承知しないわ」
体が軽くなった。誰かが抱き上げたのだ。
女の声が遠くなる。
ママ、ママ、行かないで。
わたしの手を離さないで。
アリーチェは涙を流しながら、意識を手放した。
火の回りが思っている以上に早かった。遠くでサイレンが鳴っている。消防隊はようやく到着したようだが、遅すぎる。
隣の倉庫から飛び火した炎は、無人のホテルを包み込んでいた。
「間一髪でしたね」
星が輝く夜空を背景に燃える炎は、いっそ幻想的にも見える。
「屋敷へ戻るぞ」
リカルドがエマを後部座席に乗せる。
アリーチェを乗せた車は、先に出発した。救急隊を待っている余裕はない。
「お前も医者に診てもらった方がいい」
隣に座るリカルドが、エマの顔にかかる前髪を払う。
危機的状況を脱したせいか、緊張の糸が切れたのかもしれない。座席に体重を預けレバ、体から力が抜けていく。
疲れた。
でもまだ、意識を手放すわけにはいかないの。
アリーチェのことが気にかかる。あの子は助かるのかしら。助かってほしい。
そう、心から願う。
「目を閉じてろ、少しはマシだ」
抑揚のない声。
エマは横目でちらりとリカルドを見て、それから目を閉じた。
すぐそばにリカルドの気配を感じるけれど、気にはならない。
むしろ安心するのは、どうしてなのだろう?
リカルドの肩に、エマが寄りかかる。
リカルドは何も言わなかったし、エマも何も言わなかった。
車内は静かで、つい先ほどまでの騒々しさが嘘のよう。
この静けさが永遠だったら、どれほど良いだろうか。
そんなことを思いながら、エマはほんの少しだけ、この現実から目を逸らすことにした。
大丈夫、目を開けたらちゃんと、この現実と向き合うわ。
だから今だけは、この静けに浸らせていて──。