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エマ  作者: 小さな月
Tempesta……吹き荒れる嵐
29/32

2ー22


 緑色の瞳が揺れている。涙こそ流れてはいないが、その瞳はかすかに潤んでいるようにも見えた。

 リカルドは引き金から指を離し、床に座り込むエマのすぐそばに膝をつく。見たところ怪我はないようだが、随分と顔色が悪い。


「立てるか?」


 こくりと頷くエマではあったが、明らかにふらついている。

 ただこの状況に怯えているからだと思っていたが、どうやら違うらしい。


「何があった? 顔色が悪い」


「何も──」


 目を逸らしたエマの顔を、リカルドはさも当然のように自分の方へ向かせる。

 こちらを見上げる緑色の瞳は、光こそ失ってはいないが、弱い。


「カポ、こいつらはどうしますか?」


 部下に声をかけられたリカルドは、エマから視線を外し背後を振り返る。

 部下は床に倒れるラウロを含めた全員を拘束していた。

 所詮は寄せ集めの集団。リカルドが統率する部下たちとは実力も経験も、差がありすぎる。制圧は容易かった。


「オレ達はお嬢様を助けようとしただけなんですよ! 裏切り者はこいつだけです!!」


 命乞いのような声を上げる男を、リカルドは冷えた目で見る。

 この状況だけを見て軽率に判断を下したりはしないが、今は釈明を聞くときではない。


「連れて行け」


 男たちを一瞥して、リカルドは銃をホルスターにしまう。

 そしてそのまま、エマを抱き上げた。


「あ、歩けますっ」


 エマが抗議の目を向けてきたが、リカルドは気にしなかった。


 どっかのバカが、隣の倉庫で火事を起こしたらしい。消防隊を呼んだが、今は芸術祭の真っ只中だ。道は混みに混んでいる。火は勢いを増しているし、早々にここから出なくては。


「文句は後でいくらでも聞いてやるから、黙っていろ」


 本人は認めたくないようだが、エマは見るからに体調が悪そうだ。

 そんな状態で走れ、とはさすがに言えない。


「ま、待って! アリーチェがまだ広間にいるの」


 エマがリカルドのシャツを掴む。


「助けたいのか?」


 誰のせいで自分がこんな目に遭っているのか、この娘はわかっているのだろうか?

 リカルドにはエマの気持ちがさっぱりわからない。


「今は先に、お前を外に──」


 すべてを言い切る前に、エマによってシャツの襟元を引っ張られた。

 一瞬、バランスを崩しかけたが、日々鍛錬を怠らなかったおかげで、不格好に倒れたりはしなかった。


「私の目の前で、あの子を連れ出して。それをできないのなら、私はアリーチェと一緒にここに残ることになるわ」


 腕の中、エマの緑色の瞳に強い光が宿る。

 自分でも意外だと思うが、リカルドはこの強い光が宿ったエマの瞳が、思いのほか嫌いではない。


「──わかった」


 部下を多めに連れてきたのは正解だった。

 リカルドは部下に指示を出し、アリーチェがいるであろう広間へ足を向ける。広場の場所は、エマがきちんと覚えていたので迷ったりはしなかった。


 中途半端に閉じられた、木製の両開きの大扉。

 それを部下が開ければ、軋む嫌な音が響く。

 広間の中央には、アリーチェが倒れていた。




 愛されたいと願うことは、悪いことだったのだろうか?

 ずっと、ママさえいればいいと思ってた。

 周りの人はみんな、おべっかを言うくせに裏では散々、わたしをバカにする。わがまま、自分勝手──いろんなことを言われたけど、わたしの隣にはママがいてくれる。

 だから大丈夫。


 そう思っていたのに、やっぱりママはわたしを愛してなんかいなかった。

 ずっと気づいてはいたけれど、認めるのが怖くて気づかないふりをしていたの。


 ママ、わたしのママ──自由になりたいと願ったママ──。

 ママの自由って、なんだろう?

 ママが求めるものを、わたしは何ひとつあげられなかった。


 だからママの最後の願いだけは、叶えてあげたい。


 アリーチェは考えた末に、自分がいなくなればいいのかもしれない、という結論に辿り着いた。


 わたしがいない方が、ママは自由なのかもしれない。自由になれるのかもしれない。

 ママをセヴェリーニに、そしてトラモントに縛りつけていたのは、わたしなのかもしれない。


「ママ……」


 起きているのが辛くて、そのまま床に横たわる。

 およそきれいとは言い難い床。普段なら、意地でもこんな汚れた床に横たわったりなどしない。

 でも今は、そんなことどうでもいい。何もかもがどうでもいいの。


 アリーチェのまぶたが、ゆっくりと閉じていく。視界が黒に塗り潰されていく。

 ママはわたしがいなくなったら、悲しむかしら?

 それとも喜ぶかしら?


「アリーチェ!」


 大きな声が、アリーチェの名を呼ぶ。


「起きなさい、アリーチェ! 目を開けて」


 焦りの色が滲む声。

 これは誰の声だろうか?

 アリーチェは重たいまぶたをなんとか持ち上げ、潤む視界に赤い髪の女を映す。

 わたしと似ているようで、似ていない緑色の瞳を持つ、わたしの──。


「アリーチェ、私がわかる?」


 頬に触れる手は冷たかったけれど、柔らかだった。白く優しい指が、アリーチェの涙を拭っている。


「ママ……」


 ずっとずっと昔、まだ幼かった頃の記憶が蘇ってくるようだ。風邪を引いたとき、ママはこうしてわたしのそばで、わたしの名前を呼んでくれた。

 あのとき、ママはどんな顔をしていたっけ。


「元気はなかったけど、こんな感じじゃなかったわ。何があったの?」


「──過剰摂取オーバードーズだ」


 男の手が、アリーチェのすぐ近くに投げ捨てられた袋に伸びる。

 最近はよく眠れないから、と医者に無理を言って薬をもらった。

 それを一気に飲んだ。楽になれるかと思って。


 もうママのことで一喜一憂したくない。自由になりたいのは、わたしの方なのかな?


「なんの薬を飲んだんだ?」


「いいから早く連れ出して!」


 落ち着いた男の声と、焦った女の声。

 女はわたしを心配してるみたい。

 すぐそばに感じる、他人の体温。

 なんだかとても、懐かしい香りがする。


「死なせたら、承知しないわ」


 体が軽くなった。誰かが抱き上げたのだ。

 女の声が遠くなる。


 ママ、ママ、行かないで。

 わたしの手を離さないで。


 アリーチェは涙を流しながら、意識を手放した。





 火の回りが思っている以上に早かった。遠くでサイレンが鳴っている。消防隊はようやく到着したようだが、遅すぎる。

 隣の倉庫から飛び火した炎は、無人のホテルを包み込んでいた。


「間一髪でしたね」


 星が輝く夜空を背景に燃える炎は、いっそ幻想的にも見える。


「屋敷へ戻るぞ」


 リカルドがエマを後部座席に乗せる。

 アリーチェを乗せた車は、先に出発した。救急隊を待っている余裕はない。


「お前も医者に診てもらった方がいい」


 隣に座るリカルドが、エマの顔にかかる前髪を払う。

 危機的状況を脱したせいか、緊張の糸が切れたのかもしれない。座席に体重を預けレバ、体から力が抜けていく。


 疲れた。

 でもまだ、意識を手放すわけにはいかないの。

 アリーチェのことが気にかかる。あの子は助かるのかしら。助かってほしい。

 そう、心から願う。


「目を閉じてろ、少しはマシだ」


 抑揚のない声。

 エマは横目でちらりとリカルドを見て、それから目を閉じた。

 すぐそばにリカルドの気配を感じるけれど、気にはならない。

 むしろ安心するのは、どうしてなのだろう?


 リカルドの肩に、エマが寄りかかる。

 リカルドは何も言わなかったし、エマも何も言わなかった。

 車内は静かで、つい先ほどまでの騒々しさが嘘のよう。


 この静けさが永遠だったら、どれほど良いだろうか。

 そんなことを思いながら、エマはほんの少しだけ、この現実から目を逸らすことにした。


 大丈夫、目を開けたらちゃんと、この現実と向き合うわ。

 だから今だけは、この静けに浸らせていて──。




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