2ー21
似ているようで似ていない、ふたつの緑色の瞳。
エマは従姉の顔をじっと見つめ、言葉を待った。
まだ体調は、すこぶる悪い。
「どうして何も言わないの? あんたの父親が、わたしのパパを殺したのよ」
言葉を待っていたのは、アリーチェもだった。
どこか焦ったように、口を開く。
「私はまだ、自分の父親に会ってもいないの。殺したと言われても、わからないわ」
顔も知らぬ父──その過去に何があったとしても、他人事だ。湧き上がる感情は、何もない。
ただ過去に起こったひとつの事実として、受け止めるだけ。
エマの反応が、思っていたものと違いすぎていたのだろう。
アリーチェが目を伏せる。次の言葉を探しているようにも見えた。
「あんたって本当に、何も知らないのね。……羨ましいよ、わたしもそうだったら良かったのに。何も知らないままでいられたら……」
ドレスが汚れることも構わず、アリーチェは冷たい床に腰を下ろした。
「パパはおじ様に殺されたけど、それは仕方なかったのよ。……パパが、おじ様を殺そうとしたから。おじ様は自分を守るために、パパを殺したの」
囁くように語るアリーチェの瞳が、潤んでいる。今にも涙がこぼれ落ちそう。
「わたし、わかってるのよ。全部、わかってるの」
エマは必死に、アリーチェの話に耳を傾ける。
この体調の悪さは、本当に大丈夫なのだろうか?
一向に良くなる気配が見えず、不安が増していく。
「何をわかっているの……?」
「誰もわたしを愛してないってこと」
アリーチェが微笑むと、大粒の涙がぽたりと床に落ちた。
「みんながわたしに媚びるのは、わたしがボスの姪だからよ。そんなこと、わかってた。わかってたけど、それで良いと思ってたの。だって人って、そういうモノだから。そんな人たちの愛なんていらない。わたしが本当に欲しかったのは──」
微笑みが徐々に消えていく。
アリーチェの表情は、どこまでも暗く沈んでいて、深い悲しみに満ちていた。
「昔、メイドが言ってたわ。パパが死んだのは自業自得だ、って。ボスになれやしないのに、ボスになろうとして、実の弟を殺そうとしたけど、結局自分が死んじゃった、哀れな男。おじ様は何も悪くなかったの。パパが大人しくしてれば、パパがバカなことを考えたりしなければ、今もパパは生きてたのよ。──パパは自分のせいで死んだの。そして、ママに殺された」
止まることなく流れ落ちる、アリーチェの涙。
それを受け止めてあげたくなるけれど、今はまだ、ダメよ。涙と一緒に全部、吐き出さなくては。
エマは揺れる視界の中、懸命にアリーチェを見つめ続ける。
「ママはわたしが知らないと思ってるんだろうけど、わたし、小さい頃に一度、見たことがあるの。ママがパパに……あなたがボスになるべきよ、って言ってるのを。きっとママは、あの夜だけじゃなくて、ずっとパパに同じことを言い続けてたのよ。だからパパは、自分がボスになるべきだ、って思ったのね」
幼い頃の記憶を辿るアリーチェは、とても悲しそうだった。
「わたしはずっと、ママはパパにボスになって欲しいんだと思ってた。だからパパに自信をもたせるために、励ますために言ったんだと思ってた。メイドはパパのことを何も知らないから、適当なことを言ってる──ママの言う通り、悪いのはおじ様で、わたしがパパのかわりにボスになるの。そうするのが正しいことだと信じてた」
どうにか呼吸を落ち着けようとするエマを、アリーチェが見つめ返す。潤んだペリドット色の瞳は、朝露を受けて輝く若葉のようだ。
「ママの言うことを信じてさえいればいいと思ってたの。ママがボスになって欲しいんなら、わたしはボスになるわ。そうすればママは、わたしを愛してくれるはずだから」
「あなたはボスの座に興味がないのね」
「そんなもの、いらない。わたしはただ──愛されたかっただけ」
それは間違いなく、アリーチェの本心なのだろう。
愛されたいと願う、崩れてしまいそうなほど弱い子ども。
エマは軽く頭を振りアリーチェに手を伸ばすが、その手はアリーチェによって払い落とされてしまった。
「あんたにはわかんないわよ、わたしの気持ちなんて。……あんたは愛されてるから」
「愛されたいと願うのなら、あなたも相手を愛さないと。求めるだけではダメよ」
優しい言葉を探したけれど、口から出たのはそんな言葉だった。甘くとろけるような、相手が望んでいるであろう言葉をかけることは容易い。
でもそれは、うわべだけの見せかけ。いとも簡単に崩れてしまう。
それこそ、砂糖菓子のように。
「あなたは本当に、ママを愛してる?」
アリーチェがようやく、エマを見た。
よく見れば違う、ふたつの緑色の瞳。
きっとアリーチェの父親の瞳の色は、この若葉のようなペリドット色なのだろう。
「愛は求めるものではなく、与うるものでもない」
これは母に言われた言葉だ。
母はいつも言っていた。愛は生まれ、そこに在るものなのだと。
正直なところ、エマはいまだに母のその言葉をきちんと理解できてはいないけれど、母が伝えたかった気持ちは理解しているつもりだ。
エマが静かに語れば、アリーチェは寂しげに笑った。
「ほらね、やっぱり。あんたにわたしの気持ちなんてわかんないわよ。ねえ、気づいてる? そこの男はね、あんたのことが好きなのよ。だからわたしに協力したの」
そこの男──エマのすぐ後ろに立つラウロを見て、アリーチェが嘲笑う。
「バカみたい。ほんと、バカみたい……」
涙は止まっているが、アリーチェの声はか細く弱い。
はじめて会った時のアリーチェとは、別人のようだ。
「ママは自由になりたいんだって。それってきっと、わたしを捨てて、ってことよね?」
答えを求めるアリーチェに、エマはなんと言えばいいのかわからない。
アリーチェのこともフラヴィアのことも、エマはほとんど何も知らないのだ。
その場しのぎの適当なことなんて、言えるはずがない。
そんな言葉、簡単に見透かされてしまう。
「わたしはただ、ママに喜んでほしかっただけなの。ママが望むことをわたしがしてあげたら、ママはわたしを自慢に思って、わたしにまた愛してる、って言ってくれる──そう思ってたのに……あんたのせいで、全部台無し」
エマの日常が崩れ落ちたように、アリーチェの日常もまた、崩れ落ちたのだ。
いつまでも続くように思えた、互いの日常。悲しいことに、崩れるのは一瞬。
「あんたさえいなければ、わたしはずっと、気づかないふりができたのに」
母親に愛されないことよりも、それを認める方がずっと勇気がいる。
アリーチェは長年目を背け続けてきた真実を、今、ようやっと受け入れようとしているのだ。
エマには想像することしかできないけれど、この真実はきっと、エマが思っているよりもずっと、アリーチェの心に傷を残す。
「アリーチェ」
「消えてよ、わたしの前から」
次の言葉を言う前に、アリーチェがエマを拒絶した。
「どうせ今頃、みんながあんたを探してるわ」
「でも」
ひとり残して行くことはできない。力なく座り込むアリーチェの手に、エマはもう一度、手を伸ばしてみようと思ったが、ラウロによってそれは阻まれた。
「行くぞ」
未だ体調の優れないエマが、男の力に敵うはずもない。無理矢理に立たされ、そのままずるずると広間の出入り口に連れて行かれる。
「待って、アリーチェを置いて行けないわ」
嫌な音を立てて開く大きな扉。
エマが肩越しに見れば、アリーチェは捨てられた子どものようだった。
「お前、バカじゃねえの。自分を攫わせた奴を気にしてる場合かよ」
声を荒げつつも、ラウロは歩みを止めない。
何に焦っているのか、エマにはちっともわからない。
エマはただ、ひとり残されたアリーチェが気がかりで仕方ないのだ。
「少し、待って」
めまいがひどくて、今にも倒れそうだ。
エマは壁に寄りかかり、ゆっくりと呼吸に意識を向ける。
広間から出れば、あのカビ臭さはマシになったが、長く広い廊下はほこり臭い。
それにここも、やっぱり窓がない。新鮮な空気を吸いたくてたまらないのに、ここは閉ざされすぎている。賭博の場には向いているのだろうが。
「まだ具合が悪いのか? くそ、量を間違えたのか?」
苛立つラウロを見上げた瞬間、銃声が聞こえた。
「──!?」
エマは驚きに目を見開き、ラウロはすぐに太い柱の影にエマを連れて身を隠した。
「なんなの……?」
てっきり、この建物には三人しかいないんだと思っていた。
「ラウロ! お嬢様を渡せ!」
野太い男の声が聞こえ、エマは柱からそっと、反対側の廊下を見た。
男が数人、こちらに向かって銃口を向けている。撃ったのはそのうちのひとりだろう。
「あいつら……!」
ラウロの手にも銃がある。
今までずっと無縁のものだったのに、最近は良く目にすることが多い。
「お嬢様、助けに来ましたよ! 一緒に行きましょう!」
「どういうこと?」
この状況がいまいち理解できなくて、エマはもう一度、男たちを見た。知っている人間はひとりもいないと思ったが、ある男は見たことがある。運転手だ。
エマをここに連れてきた車を運転していた男。
その男が、いる。
「あなたの仲間じゃないの?」
「裏切ったんだろ。アリーチェの味方のフリをして、お前を助け出す英雄でも気取りたいんじゃないか。お前を連れて屋敷に戻れば、あいつらは幹部の信頼を手にできるだろうよ」
ぶっきらぼうにラウロが言えば、また銃声が聞こえた。
それを皮切りに、銃声の音が続く。
エマの心臓が、激しく鼓動を打つ。
すぐ間近に聞こえる銃声は、エマを容易く怯えさせる。ぎゅっと目を閉じ、必死に気持ちを落ち着かせようとしたが、無理だ。
男たちとラウロの怒声が、心をざわつかせる。
「……なんのにおい?」
ふと、嫌なにおいに気づいた。火薬のにおいかと思ったが、どうにも違う。
もっと焦げたような、煙たいような──。
「まさか」
嫌な予感というものは、なぜだかよく当たるものだ。
エマは視線を動かし、扉、窓でも良い。
それらを探し、見つけた。木の板が乱雑に打ち付けられているが、隙間から外が見えそう。
きっとにおいは、この窓の隙間から入ってきたのだ。
「嘘でしょう……?」
眼下に小さな明かりが見えた。煙が上がっている。
多分、いや確実に、あの明かりは燃える火だ。
すぐ隣に、倉庫のような建物が見える。出荷原因はそちらなのかもしれない。風向きからして、こちらに飛び火するのは時間の問題だろう。
「アリーチェは──」
あの子はきっと、気づいていない。
今もあの広間にひとり、迎えを待っている。
エマはふらつく体を必死に支え歩き出そうとしたが、床に倒れるラウロを見た瞬間、息が止まるかと思った。銃弾が肩をかすめたらしい。血が流れている。真っ赤な、鮮やかな血。
「クソッタレ……!」
「手間かけさせんなよ。さ、お嬢様、一緒に行きましょう」
すぐ足元に血を流す人間がいるのに、男たちは笑顔だった。
これは現実だろうか?
それとも悪い夢?
何もかもが他人事のように思えて、けれども近づいてくる男の笑顔が気持ち悪くてたまらない。
私に触らないで。ほおっておいて。
男の手がエマの手に触れようと伸ばされる。
その瞬間、止んでいた銃声が再び響いた。
「──それ以上、近づくな」
静かに重く響く、男の声。
エマはこの声を、よく知っている。
リカルド・ダヴィア。
男たちの肩の向こう、黒い髪の男が銃を構えている。
ああ、嫌な気分。
胸の内にわき上がってきた感情に、エマは悪態をつきたくなった。
これはきっと、慣れてきている証拠。
あの人を見て、安堵するなんて。
こんなこと、認められないわ──。