2ー20
頭が痛い。吐き気もある。
エマは重たいまぶたを持ち上げ、幾度かまばたきをする。
ここはどこだろう?
オレンジ色の明かりは、天井にぶら下がるシャンデリアから漏れているようだ。そんなに眩しくない。
エマはゆっくりと起き上がる。自分は今、古ぼけた長椅子に横たわっていたらしい。布は色褪せ、所々破れてしまっている。
「……気持ち悪い……」
だだっ広いだけの、何もない空間。
こんなにも広いのに、窓が一枚もないのはなぜだろう? 床はほこりでくすんでしまっているが、幾何学模様なのはわかる。
電気は通っているようだが、荒れてしまった様子を見るに、もう何年も使われていないのだろう。壁紙は破れたり剥がれたりしているし、蜘蛛の巣も見える。
カビ臭い。
エマは胸をおさえ、浅い呼吸を繰り返す。気持ち悪くてたまらない。今にも吐いてしまいそう。
屋敷を出て、そこからどうしたっけ?
そうよ確か、車に乗った。運転手は知らない男で、ラウロは助手席に座って、それから車は走り出して──途中からなんだか、気分が悪くなった。
「…………っ」
込み上げてくる吐き気に耐えながら立ちあがろうとしたが、無理だった。めまいがする。自分の体なのに、何ひとつ言うことを聞いてくれない。
エマは唇を噛み、背もたれに寄りかかる。
「誰もいないの……?」
おそらく広間──ここには自分しかいない。長椅子のちょうど真正面、離れた先に大きな両開きの扉が見える。
そこへ行けば外へ出れるのだろうが、今は立ち上がるのも無理そう。
「……アリーチェ……?」
扉が軋む音を立てながら、ゆっくりと開いた。赤いワンピースを着た女性が、確かな足取りでこちらへ近づく。頭がうまく働かないが、女性の名前はわかる。アリーチェ・セヴェリーニ、私の従姉。
「気分が悪そうね」
近くに来てはじめてわかった。
アリーチェはカクテルドレスを着ているのだ。セミフォーマルの装いはとても美しいが、この場では浮いて見える。
「薬が効きすぎてるんじゃないの?」
アリーチェの背後には、ラウロが立っている。
「少し量を間違えたかもしれませんね」
やはり車内で何かを嗅いでしまったらしい。ぼんやりとする頭で、そんなことを考える。
「まさか死ぬの?」
「いや、そんなことは……」
「でも顔色がすごく悪いわよ?」
自分が今どんな顔をしているのかわからないけれど、アリーチェの様子から察するに、かなり悪い状態に見えるらしい。
「私が死んだら、困るの……?」
このまま意識を失ってしまった方が、いっそのこと楽なような気さえする。
でもダメよ。意識を手放さないで。ちゃんとしっかり、掴んでいて。
エマは自分で自分の肌に、爪を立てた。痛みを感じるのは、現実にいる証拠だ。
「変ね。私が死んで一番に喜ぶのは、あなただと思うわ。……違う?」
たとえボスが指名したとしても、死んでしまえばどうすることもできない。
エマが死ねば、後継者の座は空く。そしてそこに座るのは、アリーチェのはずだ。
「そうね、あんたは死ねばいい。でもチャンスをあげるわ」
「チャンス……?」
息苦しくてたまらない。
この部屋がカビ臭くて、空気が淀んでいるせいだ。窓があれば良かったのに。
「そうよ。──この国から出て行って、二度と戻ってこないと誓えば、あんたを生かしてあげる。あんたは死んだことにするわ。そうすれば」
「────お断りよ」
エマは一瞬も、迷わなかった。背もたれから体を離し、アリーチェを見上げる。
「出て行くですって? 私が? どうして?」
頭は痛いし、めまいも続いている。吐き気のせいで喋ることさえ億劫だけれど、アリーチェを見る目に力を込める。
「私は何も後ろめたいことなんてないもの。出て行くのなら、堂々と出て行くわ。罪人のように振る舞うつもりはない」
小さいながらもはっきりした声で告げれば、アリーチェは苛立たしげに唇を噛んだ。カクテルドレスよりもずっと鮮やかな、赤い唇。
「……ママの言う通りね」
アリーチェが背を向け、広間の中央に進む。
「ここはね、パパの持ち物だったの。パパが死んで、ママが譲り受けて、今はわたしの物。パパはここを、カジノにしたかったんですって。ここ昔はホテルだったのよ? 海が近いの。──でもパパはここを買ってすぐに、死んじゃった」
ホテル? ああ、そうか。
じゃあこの部屋はやっぱり、広間だ。パーティーを開いたりするための、広間。
「ここに連れて来て」
「わかった」
アリーチェに言われ、ラウロが立てないエマに肩を貸す。広間の中央、アリーチェと向かい合う形で床に座らされた。
「このしみが何か、わかる?」
エマが座る場所に、赤黒い汚れがある。
「これはね、わたしのパパの血なの」
腰を屈め、アリーチェがそっと血の跡に触れる。
「わたしのパパはね、ここで死んだの。おじ様──あんたの父親が殺したのよ」
重く冷えた声は、アリーチェらしくない声だった。
グラスを静かにテーブルへ置く。
フラヴィアは姿勢を正し、自分を睨みつける男を改めて見上げた。
この男はいつから、ボスのそばにいただろうか?
ボスが誰よりも信頼する男。
だから娘を任せたのだろう。大切な娘──愛した女との間に生まれた、愛されて当然の娘──。
「エマがいなくなって、真っ先に疑われるのは私なのね」
もう何杯もワインを飲んだけれど、頭ははっきりとしている。
「日頃の行いのせいですね」
リカルドの声はあまりにも冷たい。口調こそ丁寧だが、まとう雰囲気は獣にも似ている。
「ふ、ふふふ……そうね、そうよね。──ねえ、おかしいと思わない?」
フラヴィアは立ち上がる。黒いのロングドレスは、胸元と背中が大胆に開いたデザインだ。光沢のあるシルク、アクセサリーは何ひとつつけていない。
ドレスだけで十分なのだ。アクセサリーをつければ、かえってフラヴィアの邪魔になる。何もつけない、ドレスだけの方がずっと、フラヴィアの美しさを引き立てる。
そのことを一番理解しているのは、フラヴィア自身。
「アリーチェがいなくなっても誰も騒がないのに、あの子がいなくなったら騒ぐのね」
「アリーチェが連れて行ったのか?」
「さあ、知らないわ」
窓に近寄れば、裏庭が見えた。夜だというのに、いくつもの明かりが見える。
エマを探すために、照明という照明をすべて点けたのだろう。真昼のようだ。
「私はね、アリーチェをボスに据えることで、自分の人生を取り戻したかったのよ」
触れた窓は、心地良い冷たさだった。
「誰にも利用されない、奪われることない、私だけの居場所──それを手に入れたかったの。そのくらい、許されるはずだわ。父親の出世のために大嫌いな男と結婚して、そんな男の子どもを産んで……私の人生は、こんなはずじゃなかったの」
思い通りになる人生など、ありはしない。
それでも少しくらい、自分が思う道を歩んでいきたかった。
「何もかもがうまくいかないわね」
「エマを殺しても、ボスは考えを変えないぞ。むしろ殺せば、アリーチェとふたり、地獄を見ることになる」
「構わないわ」
フラヴィアは落ち着いている。窓から離れ、リカルドに微笑む。
「どうせもう、手遅れなのよ。──あの子がいなくなったら、ベルトランドは悲しむのかしら? トラモントは潰れるのかしら? 笑えるわね。たったひとりの小娘が、こんなにも大きな組織の命運を握っているなんて」
トラモントの力はあまりにも大きすぎる。
アリーチェに背負えるはずもなく、フラヴィアが手にすることもない。
それでも求めたのだ。身の程も弁えず、上を目指し自滅した父のように。
「ベルトランドを悲しませたくないでしょう? アリーチェをボスにしてくれたら、エマを見逃してあげるわ。二度と傷つけたりしないと約束する」
「正直に言えばいい。アリーチェをボスにして、実権は自分が握りたいんだろう?」
ええ、そうね。そうだと思う。
フラヴィアは微笑む。
昔から、笑うのは得意なのだ。父にいろんなところへ連れて行かれ、行く先々で笑っていろと言われた。父に必要とされているフラヴィアを見る母は、いつだって誇らしげだった。
私は両親にとって、愛する娘だったのかしら?
「ベルトランドに伝えてはくれないの?」
「──ここにお前の居場所はない」
リカルドにはっきり言われても、フラヴィアは微笑みを崩さなかった。
そんなこと、言われなくてもわかってるわ。誰も私を必要としていない。父も母も、夫も、ただ都合よく利用しただけ。
私を必要としたのは──。
「アリーチェ……」
愛せない娘──あの子だけが、私を必要としている。
その娘を利用しているのは、他ならぬ私自身。愛される資格なんて、私にはなかったのよ。私もあの人たちと同じ。娘を利用している。自分が求めるもののために。
フラヴィアは床に座り込み、窓の外を見た。
アリーチェはどこにいるのかしら?
動かないフラヴィアに背を向けて、リカルドは部屋の外に出る。
「見張っていろ。アリーチェがどこにいるのかわかるか?」
部屋の外には、アレッシオがいた。背後には屋敷の警護に回らせていた構成員たち。構成員たちにフラヴィアの監視を任せ、リカルドはアレッシオと一緒に正面玄関へ向かう。
──エマを見逃す。
先ほど、フラヴィアはそう言っていた。
つまりエマはまだ無事で、アリーチェと一緒にいる。フラヴィアの指示を待っているのかもしれない。
「手を貸している者がいるのは確かでしょうが……」
「カポ!!」
正面玄関へ続く階段を降りる途中、部下によって呼ばれた。ふたり揃って、視線を正面玄関へ向ける。
そこにはアリーチェ付きの侍女ダニエラがいた。
「戻って来るのが見えたので、連れて来ました」
「離してやれ」
「え、いや、でも」
「離せと言っている」
「は、はい!」
ダニエラは随分と機嫌が悪そうだ。自分を捕える男たちに、今にも襲いかかろうとする勢い。
「ったく、来るのが遅いんだよ!」
ようやく自由になったダニエラは、大きく伸びをする。
「エマはどこだ?」
「正確な場所は知らないよ。ただ父親に会いに行くとかなんとか言ってた。そこが良いから、って」
「父親に会いに行く? 墓にでも行ったのか?」
「さあね。あと、近頃のアリーチェは誰だったかな? 下っ端をよく部屋に呼んでたね。名前は確か……ラウロ?」
使用人らしからぬ態度のダニエラを、構成員たちは困惑の目で見ているが、リカルドもアレッシオも咎める様子はない。
「ラウロ? さすがに準構成員までは覚えていませんよ」
「いや、多分──」
リカルドはその名前に聞き覚えがあった。一ヶ月前、ちょうどこの正面玄関でエマと向かい合っていた男の名が、まさしくラウロだ。
エマの高校時代の同級生。
どういう経緯でアリーチェに取り入ったのかは知らないが、この件に関わっているのなら、“仕置き”では済まない。
「アリーチェは父親に会いたくなったとき、いつもどうしてた?」
リカルドたちは、アリーチェの父親について良く知っている。野心家で、無駄にプライドの高い男だった。
リカルドたちにとって、あの男は懐かしむような人間ではないが、アリーチェにとっては違う。
「墓参りは欠かさなかったと思いますが……まさか墓にってことはないでしょう」
「だろうな。父親との思い出がある場所──」
悲しいことではあるが、アリーチェが父親と一緒にどこかへ出かけることはほとんどなかった。思い出の大半は、この屋敷にある。
だが今、屋敷にアリーチェはいない。
アリーチェにとって、父親を強く思い出す場所。考えればわかるはずだ。墓でもなく、屋敷でもなく、アリーチェにとって、娘にとって最も色濃く残る、父親の最後の記憶、それは──、
「ジェレミアが死んだのはどこだ?」
あの夜のことを思い出す。
ジェレミアが実の弟ベルトランドを殺そうとした、あの夜。
リカルドもその場にいて、銃を構えていた。撃つ気はあった。撃ってもいいと思っていた。
だがジェレミアを撃ったのは、ベルトランド自身。ベルトランドは言った。
──これもまた、私が背負うべきものだ。
「ジェレミア様が亡くなったのは、確か港にある──」
そう、港だ。港近くのホテル。経営者がいなくなり、捨て去られてしまったホテルを、ジェレミアはカジノに作り替えると言い、ベルトランドを呼び出し、そしてそこが奴の死場所となった。
所有者はフラヴィア移ったが、アリーチェが成人したのと同時に、所有権を譲り受けたはずだ。
「車を回せ!」
「そこにいるとは限りませんよ?」
屋敷を飛び出すリカルドの背に向かって、アレッシオが叫ぶ。
「お前は他を探せ! 街中、隅から隅まで、手を抜くな!」
リカルドの後に、何名かの部下が続く。
アレッシオは前髪をかきあげ、ふと隣に立つメイド服の女性を見た。
「我々も行きますよ、ダニエラ」
「はぁ……特別手当でも出してもらわなきゃ、割に合わないよ」
使用人らしからぬ物言いと歩き方ではあるが、彼女を良く知る者にはこちらの方がずっと見慣れている。
ダニエラ・メスト──誰だっただろうか?
彼女を猛犬と呼んだのは。