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エマ  作者: 小さな月
Tempesta……吹き荒れる嵐
27/32

2ー20


 頭が痛い。吐き気もある。

 エマは重たいまぶたを持ち上げ、幾度かまばたきをする。

 ここはどこだろう?

 オレンジ色の明かりは、天井にぶら下がるシャンデリアから漏れているようだ。そんなに眩しくない。

 エマはゆっくりと起き上がる。自分は今、古ぼけた長椅子に横たわっていたらしい。布は色褪せ、所々破れてしまっている。


「……気持ち悪い……」


 だだっ広いだけの、何もない空間。

 こんなにも広いのに、窓が一枚もないのはなぜだろう? 床はほこりでくすんでしまっているが、幾何学模様なのはわかる。

 電気は通っているようだが、荒れてしまった様子を見るに、もう何年も使われていないのだろう。壁紙は破れたり剥がれたりしているし、蜘蛛の巣も見える。

 カビ臭い。


 エマは胸をおさえ、浅い呼吸を繰り返す。気持ち悪くてたまらない。今にも吐いてしまいそう。


 屋敷を出て、そこからどうしたっけ?

 そうよ確か、車に乗った。運転手は知らない男で、ラウロは助手席に座って、それから車は走り出して──途中からなんだか、気分が悪くなった。


「…………っ」


 込み上げてくる吐き気に耐えながら立ちあがろうとしたが、無理だった。めまいがする。自分の体なのに、何ひとつ言うことを聞いてくれない。

 エマは唇を噛み、背もたれに寄りかかる。


「誰もいないの……?」


 おそらく広間──ここには自分しかいない。長椅子のちょうど真正面、離れた先に大きな両開きの扉が見える。

 そこへ行けば外へ出れるのだろうが、今は立ち上がるのも無理そう。


「……アリーチェ……?」


 扉が軋む音を立てながら、ゆっくりと開いた。赤いワンピースを着た女性が、確かな足取りでこちらへ近づく。頭がうまく働かないが、女性の名前はわかる。アリーチェ・セヴェリーニ、私の従姉。


「気分が悪そうね」


 近くに来てはじめてわかった。

 アリーチェはカクテルドレスを着ているのだ。セミフォーマルの装いはとても美しいが、この場では浮いて見える。


「薬が効きすぎてるんじゃないの?」


 アリーチェの背後には、ラウロが立っている。


「少し量を間違えたかもしれませんね」


 やはり車内で何かを嗅いでしまったらしい。ぼんやりとする頭で、そんなことを考える。


「まさか死ぬの?」


「いや、そんなことは……」


「でも顔色がすごく悪いわよ?」


 自分が今どんな顔をしているのかわからないけれど、アリーチェの様子から察するに、かなり悪い状態に見えるらしい。


「私が死んだら、困るの……?」


 このまま意識を失ってしまった方が、いっそのこと楽なような気さえする。

 でもダメよ。意識を手放さないで。ちゃんとしっかり、掴んでいて。

 エマは自分で自分の肌に、爪を立てた。痛みを感じるのは、現実にいる証拠だ。


「変ね。私が死んで一番に喜ぶのは、あなただと思うわ。……違う?」


 たとえボスが指名したとしても、死んでしまえばどうすることもできない。

 エマが死ねば、後継者の座は空く。そしてそこに座るのは、アリーチェのはずだ。


「そうね、あんたは死ねばいい。でもチャンスをあげるわ」


「チャンス……?」


 息苦しくてたまらない。

 この部屋がカビ臭くて、空気が淀んでいるせいだ。窓があれば良かったのに。


「そうよ。──この国から出て行って、二度と戻ってこないと誓えば、あんたを生かしてあげる。あんたは死んだことにするわ。そうすれば」


「────お断りよ」


 エマは一瞬も、迷わなかった。背もたれから体を離し、アリーチェを見上げる。


「出て行くですって? 私が? どうして?」


 頭は痛いし、めまいも続いている。吐き気のせいで喋ることさえ億劫だけれど、アリーチェを見る目に力を込める。


「私は何も後ろめたいことなんてないもの。出て行くのなら、堂々と出て行くわ。罪人のように振る舞うつもりはない」


 小さいながらもはっきりした声で告げれば、アリーチェは苛立たしげに唇を噛んだ。カクテルドレスよりもずっと鮮やかな、赤い唇。


「……ママの言う通りね」


 アリーチェが背を向け、広間の中央に進む。


「ここはね、パパの持ち物だったの。パパが死んで、ママが譲り受けて、今はわたしの物。パパはここを、カジノにしたかったんですって。ここ昔はホテルだったのよ? 海が近いの。──でもパパはここを買ってすぐに、死んじゃった」


 ホテル? ああ、そうか。

 じゃあこの部屋はやっぱり、広間だ。パーティーを開いたりするための、広間。


「ここに連れて来て」


「わかった」


 アリーチェに言われ、ラウロが立てないエマに肩を貸す。広間の中央、アリーチェと向かい合う形で床に座らされた。


「このしみが何か、わかる?」


 エマが座る場所に、赤黒い汚れがある。


「これはね、わたしのパパの血なの」


 腰を屈め、アリーチェがそっと血の跡に触れる。


「わたしのパパはね、ここで死んだの。おじ様──あんたの父親が殺したのよ」


 重く冷えた声は、アリーチェらしくない声だった。





 グラスを静かにテーブルへ置く。

 フラヴィアは姿勢を正し、自分を睨みつける男を改めて見上げた。

 この男はいつから、ボスのそばにいただろうか?

 ボスが誰よりも信頼する男。

 だから娘を任せたのだろう。大切な娘──愛した女との間に生まれた、愛されて当然の娘──。


「エマがいなくなって、真っ先に疑われるのは私なのね」


 もう何杯もワインを飲んだけれど、頭ははっきりとしている。


「日頃の行いのせいですね」


 リカルドの声はあまりにも冷たい。口調こそ丁寧だが、まとう雰囲気は獣にも似ている。


「ふ、ふふふ……そうね、そうよね。──ねえ、おかしいと思わない?」


 フラヴィアは立ち上がる。黒いのロングドレスは、胸元と背中が大胆に開いたデザインだ。光沢のあるシルク、アクセサリーは何ひとつつけていない。

 ドレスだけで十分なのだ。アクセサリーをつければ、かえってフラヴィアの邪魔になる。何もつけない、ドレスだけの方がずっと、フラヴィアの美しさを引き立てる。

 そのことを一番理解しているのは、フラヴィア自身。


「アリーチェがいなくなっても誰も騒がないのに、あの子がいなくなったら騒ぐのね」


「アリーチェが連れて行ったのか?」


「さあ、知らないわ」


 窓に近寄れば、裏庭が見えた。夜だというのに、いくつもの明かりが見える。

 エマを探すために、照明という照明をすべて点けたのだろう。真昼のようだ。


「私はね、アリーチェをボスに据えることで、自分の人生を取り戻したかったのよ」


 触れた窓は、心地良い冷たさだった。


「誰にも利用されない、奪われることない、私だけの居場所──それを手に入れたかったの。そのくらい、許されるはずだわ。父親の出世のために大嫌いな男と結婚して、そんな男の子どもを産んで……私の人生は、こんなはずじゃなかったの」


 思い通りになる人生など、ありはしない。

 それでも少しくらい、自分が思う道を歩んでいきたかった。


「何もかもがうまくいかないわね」


「エマを殺しても、ボスは考えを変えないぞ。むしろ殺せば、アリーチェとふたり、地獄を見ることになる」


「構わないわ」


 フラヴィアは落ち着いている。窓から離れ、リカルドに微笑む。


「どうせもう、手遅れなのよ。──あの子がいなくなったら、ベルトランドは悲しむのかしら? トラモントは潰れるのかしら? 笑えるわね。たったひとりの小娘が、こんなにも大きな組織の命運を握っているなんて」


 トラモントの力はあまりにも大きすぎる。

 アリーチェに背負えるはずもなく、フラヴィアが手にすることもない。


 それでも求めたのだ。身の程も弁えず、上を目指し自滅した父のように。


「ベルトランドを悲しませたくないでしょう? アリーチェをボスにしてくれたら、エマを見逃してあげるわ。二度と傷つけたりしないと約束する」


「正直に言えばいい。アリーチェをボスにして、実権は自分が握りたいんだろう?」


 ええ、そうね。そうだと思う。

 フラヴィアは微笑む。

 昔から、笑うのは得意なのだ。父にいろんなところへ連れて行かれ、行く先々で笑っていろと言われた。父に必要とされているフラヴィアを見る母は、いつだって誇らしげだった。

 私は両親にとって、愛する娘だったのかしら?


「ベルトランドに伝えてはくれないの?」


「──ここにお前の居場所はない」


 リカルドにはっきり言われても、フラヴィアは微笑みを崩さなかった。

 そんなこと、言われなくてもわかってるわ。誰も私を必要としていない。父も母も、夫も、ただ都合よく利用しただけ。

 私を必要としたのは──。


「アリーチェ……」


 愛せない娘──あの子だけが、私を必要としている。

 その娘を利用しているのは、他ならぬ私自身。愛される資格なんて、私にはなかったのよ。私もあの人たちと同じ。娘を利用している。自分が求めるもののために。


 フラヴィアは床に座り込み、窓の外を見た。

 アリーチェはどこにいるのかしら?





 動かないフラヴィアに背を向けて、リカルドは部屋の外に出る。


「見張っていろ。アリーチェがどこにいるのかわかるか?」


 部屋の外には、アレッシオがいた。背後には屋敷の警護に回らせていた構成員たち。構成員たちにフラヴィアの監視を任せ、リカルドはアレッシオと一緒に正面玄関へ向かう。


 ──エマを見逃す。


 先ほど、フラヴィアはそう言っていた。

 つまりエマはまだ無事で、アリーチェと一緒にいる。フラヴィアの指示を待っているのかもしれない。


「手を貸している者がいるのは確かでしょうが……」


「カポ!!」


 正面玄関へ続く階段を降りる途中、部下によって呼ばれた。ふたり揃って、視線を正面玄関へ向ける。

 そこにはアリーチェ付きの侍女ダニエラがいた。


「戻って来るのが見えたので、連れて来ました」


「離してやれ」


「え、いや、でも」


「離せと言っている」


「は、はい!」


 ダニエラは随分と機嫌が悪そうだ。自分を捕える男たちに、今にも襲いかかろうとする勢い。


「ったく、来るのが遅いんだよ!」


 ようやく自由になったダニエラは、大きく伸びをする。


「エマはどこだ?」


「正確な場所は知らないよ。ただ父親に会いに行くとかなんとか言ってた。そこが良いから、って」


「父親に会いに行く? 墓にでも行ったのか?」


「さあね。あと、近頃のアリーチェは誰だったかな? 下っ端をよく部屋に呼んでたね。名前は確か……ラウロ?」


 使用人らしからぬ態度のダニエラを、構成員たちは困惑の目で見ているが、リカルドもアレッシオも咎める様子はない。


「ラウロ? さすがに準構成員までは覚えていませんよ」


「いや、多分──」


 リカルドはその名前に聞き覚えがあった。一ヶ月前、ちょうどこの正面玄関でエマと向かい合っていた男の名が、まさしくラウロだ。

 エマの高校時代の同級生。

 どういう経緯でアリーチェに取り入ったのかは知らないが、この件に関わっているのなら、“仕置き”では済まない。


「アリーチェは父親に会いたくなったとき、いつもどうしてた?」


 リカルドたちは、アリーチェの父親について良く知っている。野心家で、無駄にプライドの高い男だった。

 リカルドたちにとって、あの男は懐かしむような人間ではないが、アリーチェにとっては違う。


「墓参りは欠かさなかったと思いますが……まさか墓にってことはないでしょう」


「だろうな。父親との思い出がある場所──」


 悲しいことではあるが、アリーチェが父親と一緒にどこかへ出かけることはほとんどなかった。思い出の大半は、この屋敷にある。

 だが今、屋敷にアリーチェはいない。

 アリーチェにとって、父親を強く思い出す場所。考えればわかるはずだ。墓でもなく、屋敷でもなく、アリーチェにとって、娘にとって最も色濃く残る、父親の最後の記憶、それは──、


「ジェレミアが死んだのはどこだ?」


 あの夜のことを思い出す。

 ジェレミアが実の弟ベルトランドを殺そうとした、あの夜。

 リカルドもその場にいて、銃を構えていた。撃つ気はあった。撃ってもいいと思っていた。

 だがジェレミアを撃ったのは、ベルトランド自身。ベルトランドは言った。


 ──これもまた、私が背負うべきものだ。


「ジェレミア様が亡くなったのは、確か港にある──」


 そう、港だ。港近くのホテル。経営者がいなくなり、捨て去られてしまったホテルを、ジェレミアはカジノに作り替えると言い、ベルトランドを呼び出し、そしてそこが奴の死場所となった。

 所有者はフラヴィア移ったが、アリーチェが成人したのと同時に、所有権を譲り受けたはずだ。


「車を回せ!」


「そこにいるとは限りませんよ?」


 屋敷を飛び出すリカルドの背に向かって、アレッシオが叫ぶ。


「お前は他を探せ! 街中、隅から隅まで、手を抜くな!」


 リカルドの後に、何名かの部下が続く。

 アレッシオは前髪をかきあげ、ふと隣に立つメイド服の女性を見た。


「我々も行きますよ、ダニエラ」


「はぁ……特別手当でも出してもらわなきゃ、割に合わないよ」


 使用人らしからぬ物言いと歩き方ではあるが、彼女を良く知る者にはこちらの方がずっと見慣れている。

 ダニエラ・メスト──誰だっただろうか?

 彼女を猛犬と呼んだのは。




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