2ー19
アレッシオの仕事部屋はいつも、甘い香りがする。本人が好んで使用している香水がアンバリーノートなので、その香りが染み付いているせいだろう。
セルジオはこの部屋の香りを苦手に思っているようだが、リカルドは気にしたことがない。
「デートはどうでしたか?」
ジャケットを脱いだアレッシオは、棚からグラスとウイスキーのボトルを取る。
「もう酔ってるのか?」
くだらないことを言うな、とリカルドが軽く睨めば、アレッシオは苦笑する。
「お前がぐだぐだと言うから、俺が同行する羽目になったんだ」
「それは仕方ないでしょう。ようやくお嬢様が外出できるようになったのに、護衛をぞろぞろと引き連れては、楽しむものも楽しめませんよ」
グラスに酒を注ぎ、ひとつは自分に、もうひとつはリカルドに渡す。
昨日、アレッシオはリカルドに提案したのだ。エマの外出に同行しては、と。
当初はアレッシオも幹部が同行するのは、エマが緊張するからやめておいた方がいいと思ったのだが、幹部がいれば護衛の数を減らせるかもしれないと気づき、リカルドに提案したのだ。
先日のアリーチェの件もある。見えないところで何かが起こるくらいなら、いっそ近くにいて守ってやればいい。
リカルドはなんとも言えない表情をしていたが、最終的にはアレッシオの提案を受け入れた。リカルド自身、不安があったからだろう。
ボス直々に、世話役と護衛を任されているのだ。護衛を何十、それこそ何百つけたとしても、安心などできるはずがない。
「お嬢様は楽しめたんでしょうか」
「本人に聞けばいい」
「君はまったく……」
呆れたようなため息をつくアレッシオを、リカルドは無感情に見つめる。
同行させるのであれば、アレッシオのようなタイプが良かっただろうが、この男は実戦向きではない。銃の扱いは心得ているが、腕は中の下というところ。格闘技は言わずもがな。
ただ運転は上手いし、肝は据わっている。でなければファミリーの顧問など務まるものか。
「あのふたりはどうだ?」
「誰かと接触しているようですが、誰なのかはまだわかっていないんですよ。セルジオに頼んでいますが、まだ時間をもらいたいですね」
「妙な気を起こさなければいいんだがな」
ふたりが黙ると、時計の短針が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。
アレッシオの仕事部屋は、弁護士の肩書をあらわすかのごとく、法律関係の本が大量に本棚に詰め込まれている。中には政治、経済に関するものもあるし、外国語の本もある。
緑色の落ち着いた壁には、金で縁取られた絵が飾ってあり、そのすぐそばの棚にグラスや酒が置いてあるのだ。執務机にはいくつかのファイルと、乱雑に置かれたペンたち。仕事は嫌になるくらい細かいくせに、片付けが昔から苦手。
そのくせ、自分のものを触られることを嫌がるので、ある程度したらオルガが「片付けろ」と叱るのが恒例となっている。
「……少し疲れたな」
「エスコートは緊張するものですよ」
ぎろりとアレッシオを睨むが、当人は気にした様子もない。
「今日はもう休む」
グラスを置いて、リカルドは静かに部屋を出た。廊下は少しばかり寒いが、我慢できないほどではない。
むしろ心地よいと感じるほどだ。
自分の部屋へ向かっていたリカルドだったが、夕食はいらないことをセサルに伝えねば。母屋に出入りする使用人が限られているせいで、伝言を頼もうにも、使用人とすれ違うことさえないのがこういうときは欠点だと思う。
「──何をしてる?」
ようやく使用人を見つけたかと思えば、それはカロリーナだった。手にはピンク色のポーチを持っている。
「あ、リカルドさん」
リカルドがポーチを見れば、カロリーナは慌てて中身を取り出す。ポーチの中身は散髪用のハサミだった。
なぜそんなものを持っているのかわからないが、使用人のプライベートに口を出す趣味はない。
さっさと伝言を頼んでしまおう。
「リカルドさんも食べないんですね。お嬢様も疲れてしまったみたいで、もうお休みになったんですよ。カットするのが嫌になったのかな?」
「カット?」
「ああ、髪を切りたいとおっしゃったんで、あたしがカットしますよって話をついさっきしたんです。でも疲れてしまったから、もう休むと」
「……そうか」
髪を侍女に切らせる? 意味がわからない。ちゃんと店に行けばいいものを……。
二十年間、母子家庭で育ったエマは、その生活が染み付いてしまっている。偉ぶったり、わがままを言うこともない。
それは美点として褒められていい部分だろうが、舐められすぎては困る。親しみを持たれるよりも、畏怖の対象として見られる方が良い。
「…………」
リカルドは自分の部屋へ入ろうとしたが、向かいにあるエマの部屋を振り返る。
なぜ自分で髪を切るのか、その理由はわからない。遠慮なのか、それともそういう習慣なのか。
どちらにせよ、素人が切るよりもプロに任せた方がいいのは明確だ。
リカルドは部屋の扉をノックし、エマの声を待つ。
が、声は返ってこない。すでに寝ている? いや、それにしたって早すぎる。
少し考え込み、リカルドは部屋に入ることを決めた。鍵はかかっておらず、部屋は明かりを消していないので明るいままだ。
──なんだ……?
この部屋に入るのははじめてではないが、頻繁に訪れているわけでもない。
それでも違和感が消えず、むしろ大きくなっている。
ベッドを見てみたがそこに部屋の主人はおらず、シーツには一切の乱れがない。バスルームにいる可能性もあるが、この部屋はあまりにも静かすぎる。
それに少しばかり空気が冷えているし、この匂いはなんだ?
部屋の中に、微かに残る香りに眉をしかめる。
昔から鼻は効くほうなのだが、この匂いはおそらく香水だろう。趣味の悪い香りだが、エマは香水を使わない。
では誰の──?
リカルドは部屋を観察し、バルコニーへ続く窓を見た。中途半端に開かれたカーテン。
それを横目で見て、窓を開ける。
「これは……」
意外にも自分は、落ち着いている。
バルコニーの端にくくり付けられたはしごと、その下に横たわるふたりの男。確認せずとも断言できる。
あのふたりはすでに死んでいる。
静かに踵を返し、自分の部屋にある電話の受話器を取る。アレッシオはすぐに出た。
「どうしました?」
「エマが連れ去られた。人を集めろ、今すぐにだ」
ありったけの構成員を集め、捜索を始めなくては。受話器を置き、リカルドは冷静に考える。
部屋に争った形跡はなかったし、何よりも幸運なのはエマの死体がなかったことだ。殺すことが目的なら、さっさと殺してしまうはず。
ならばどこかへ連れ去られたと考えるのが妥当だろう。
エマが自分で逃げた線も考えたが、殺された警護の男たちを見て、その線は捨てた。
エマが人を殺せるとは到底思えないし、出て行こうと思ったら、正面から堂々と出て行くはずだ。後ろめたいものなど何もない子なのだから。
ならば次に浮かぶ疑問はひとつだけ。
エマはどこへ連れて行かれた──?
リカルドは考え、答えに辿り着く。
いや、正確には答えを知っている者に辿り着いた、と言うべきか。
考えが甘かったのだろうか? 屋敷の中であれば、下手なことはできないとたかを括っていたのかもしれない。
だから街へ行くエマに同行した。何かあれば、すぐに対処できるように、と思い。
結局、街中で騒動が起きることはなかったが──スリはただの偶然だろう──、まさか屋敷で堂々と連れ去られるなんて……。
自分で自分に腹が立つ。
リカルドは無礼を承知で、ノックもなしに部屋の扉を乱暴に開け放つ。
「あら、どうしたの?」
部屋の中には、フラヴィアがいた。長椅子に腰掛け、ワインを飲んでいる。
リカルドが来ることを予想でもしていたのか、とても落ち着いている。
「前置きはやめましょう、時間の無駄だ」
一歩、前へ出る。
「エマをどこへ連れて行った?」
フラヴィアは微笑みを浮かべ、真っ直ぐにリカルドを見つめ返す。
「私を噛み殺しそうな目ね」
ボスの忠実なる猟犬──相手が誰であろうと、この男は容赦なく噛み付き、一切の躊躇なくとどめを刺す。命乞いなどなんの意味も成さない。
そうやって、ボスに仕えてきたのだ。