2ー18
食後のエスプレッソが、思いのほか苦かった。
最近は紅茶を飲む機会が多かったので、濃いエスプレッソの苦さを忘れていたのかもしれない。
エマはカップを置き、ふうと息を吐く。遅めの昼食ではあったが、時間をずらしたおかげで並ばずに入ることができた。表通りにある店ではなく、地元民向けの店だったからというのもあるかもしれないが、非常に美味しかった。
ただ量が多すぎたので、お腹がとても苦しい。
リカルドは細身なのに、エマと同じ量を食べても平然としている。
とはいえ、デザートはスキップした。料理自体は文句なしだが、この店のデザートは好みじゃないらしい。注文をすべてリカルドに任せたので、おそらくメニューはリカルドの好みなのだろう。
それにしても多すぎた。
料理長のセサルはいつも、食べる人に合わせて量を調節しているのだが、そのありがたみを今、実感している。
「そろそろ帰る頃合いだな。日が落ちれば、鬱陶しい奴らが増えだす」
「そうですね……」
正直なところ、エマは疲れていた。
以前はこのくらい平気だったのに、一ヶ月も屋敷の中でのんびりと過ごしていたせいだ。外出でこんなにも疲労感を覚えたのは、久しぶりだ。
今夜はすぐに眠ってしまうかも。
リカルドは無言で立ち上がり、手早く会計を済ませる。
その背を見つめながら、エマはなんとも言えない気持ちだった。
これが若い男女であればデートだと思うこともできるだろうけど、私たちはなんと呼べばいいのだろう。
ただの外出──多分、そんな感じね。色めき立つものは、何もない。
店を出れば、秋の風がエマの中途半端な長さの前髪を揺らす。腰のあたりまで伸びている髪を、そろそろ切った方がいいのかもしれない。
髪はずっと、自分で切っている。流行りの髪型とかには興味がなくて、いつも邪魔にならなければいいという、年頃の女の子らしからぬ考えで切ってきた。
セヴェリーニ邸に、髪用のハサミはあるだろうか?
あれば今日にでも切ってしまおう。
もうちょっと、身なりに気を使うべきかしら?
目の前を通り過ぎた歳の近そうな女の子たち。
あの子たちに比べると、私ってちょっと、野暮ったく見えるかも。だからスリにあったのかも。取れそうな奴──リカルドの言葉が、頭に響く。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
歩く速度が明らかに遅いエマに、リカルドが訝しむような視線を向ける。
今日はちょっと、おかしなことばかり考えてしまう。
以前ならこんなこと、気にもしなかったのに。理由なんてわからないけれど、ただなんとなく、リカルドの隣を歩くのが嫌でたまらない。
エマは頭の中を支配しようとする考えを振り払うため、早足になる。
「あ──」
ふと、見覚えのある店を視界の端に見つけた。
そこはジェラテリア、カルロの店だった。数人が並んでおり、元気なカルロの声が聞こえる。
あの日のアリーチェの行動もあって少し気になっていたのだが、店を切り盛りするカルロの様子を遠目から見るに、大丈夫そう。
心配は杞憂だったのだ。夢を追いかけて田舎から出てきたのだから、そう簡単に折れるような心のはずがない。笑顔で接客するカルロは、誰よりも輝いている。
「こんなところにジェラテリアなんてあったか?」
「新しい店ですよ」
カルロのジェラテリアはそれなりに繁盛しているようだ。立地条件はそれなりに重要だろうが、おいしければ多少、表通りから外れていても関係ない。
「私、行ってきます。ここで待っててください」
お客さんがいなくなったタイミングで、エマは店へ向かって歩き出した。
リカルドとの距離が離れると、少し息がしやすくなったような気がする。
「いらっしゃい──君は!」
「お久しぶり、というのも変な感じですね。この間はありがとうございました」
「いやいや、俺は何もしてないよ。今日はひとり?」
「ええ、まあ」
適当に返し、エマは壁にかけてある黒板を見る。黒板にはメニューが書いてあって、数は多くないものの、説明が細かく記されてある。
「ああ、サービスするよ。好きな味を選んで!」
「いえ、きちんとお支払いします」
カルロの人なつこい笑顔は、やはり大型犬のようだ。年上なのに、同級生のように感じてしまう。
「おすすめはどれですか?」
「今日はアマレナかな。甘酸っぱくて、美味しいよ」
「じゃあ、それを」
財布を取り出そうとすれば、横から紙幣が差し出された。割り込みかと思ったが、紙幣を差し出したのはリカルドだった。
「えーっと……」
「同じものを頼む」
意外なことに、リカルドはジェラートを食べるらしい。
てっきり、そういったものは好まないと思っていたのに。
「食べるんですね」
「別に嫌いじゃないからな」
ふたりが知り合いなことを確認してから、カルロは紙幣を受け取ろうとしたのだが、それをエマが止めた。
「私、ジェラートを買うくらいのお金は持ってます」
エマが不満そうに言い、自分の財布からお金を取り出し、カルロに渡した。
あの日、アレッシオが渡そうとした黒いクレジットカードを、エマは今も拒んでいる。無職のエマには収入源などないけれど、セヴェリーニ邸で過ごす間、お金を必要としたことは一度もない。財布──すられそうになったけれど、ジェラートを買うくらいの持ち合わせはあるのだ。
「──気に障ったのなら謝る」
これもまた、意外だった。
リカルドがこうも簡単に謝罪を口にするなんて。晴天の空から、雪でも降りそう。
「知り合いか?」
「どうなんでしょう……」
会話を聞いていたのだろう。
ただエマは、カルロとの関係をどう説明したらいいのか、わからない。友人? 当たり障りなく、知人と言っておくのが一番なのかも。
「はいどうぞ!」
「ありがとうございます」
カップに入ったジェラートを受け取り、エマは気づく。注文したアマレナ──さくらんぼとは別に、バニラが添えてあるのだ。
「あの」
「サービスだよ。気に入ったらまた来てね」
眩しい笑顔でそう言われると、素直に受け取るしかない。
「お兄さんもぜひ、よろしくお願いしますよ!」
ご丁寧にも、カルロはリカルドにもサービスしてくれたようだ。無表情のまま受け取ったリカルドは、一口食べて、悪くないとつぶやいた。
「騒々しい男だな」
「明るく楽しい人ですよ」
「確かにそうとも言える。俺とは正反対の人種だな」
「──比べるものではないと思いますけど」
夏の太陽のように眩しくて、屈託のない笑顔が魅力的なカルロ。
静かな夜の月のような、冷たくも鋭利な美しさを宿すリカルド。
太陽と月を比べるなんて無意味だ。
どちらにも、それぞれの良さがある。
「食べたら戻るぞ」
リカルドは食べるのが早い。反対にエマは遅くて、ジェラートを頼むときはいつもコーンじゃなくてカップ。
そうすれば溶けても、手が汚れる心配をしなくても良い。
セヴェリーニ邸へ戻ってきた頃には、もう空が夜の色に染まっていた。季節が徐々に冬へ近づいている証拠だ。日が短くなっている。
エマは車を降り、複雑な気持ちになってしまう。一ヶ月もいるせいで、帰ってきた感覚に襲われてしまいそうになった。ここは自分の家じゃないのに。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
出迎えてくれたのは、カロリーナだった。風邪が治ったようで、顔色が良い。
「アレッシオはいるか?」
「はい、お戻りですよ」
それだけ聞くと、リカルドはさっさと屋敷へ入った。
「芸術祭はどうでしたか?」
「人が多くて、なんだか疲れてしまったの」
「そうなんですね。じゃあ、夕食はどうしますか?」
「お腹は空いてないから、今日はいらないかも。ああ、そうだ。ハサミはある?」
先を歩いていたエマが、あることを思い出して振り返る。
「ハサミですか?」
「そう、髪を切る用のハサミ」
「髪を切るんですか? まさか、自分で?」
驚くカロリーナに、エマはなんの迷いもなく頷く。
「もしかして無いのかしら……」
「無いというか……カット用のハサミなら、あたし持ってます」
「そうなの?」
「はい。節約のために、あたしも自分で切るので」
苦笑いを浮かべるカロリーナの髪は、綺麗に整えてある。
「もしよろしければ、カットしましょうか? ヴィヴィアナの髪も、あたしがカットしてるんですよ」
「いいの?」
自分で切るつもりだったけれど、カロリーナの方が確実に上手そう。
エマの部屋はすぐそこだったが、カロリーナはハサミを取りに使用人棟へ。
その背を見送ってから、エマは部屋の扉を開ける。
「……?」
部屋は肌寒かった。見れば、バルコニーへ続く窓が開いていた。白いカーテンが秋の夜風に揺れている。カロリーナが締め忘れたのかもしれない。
窓に近づき、そっと閉める。
「────!」
カーテンに伸ばした手を、掴まれた。反射的に声が出そうになったが、冷たい手によって口を塞がれ、それは叶わなかった。部屋に誰かがいる。誰なの?
エマはゆっくりと視線を動かす。背後から伸びてきた手──振り返ることはできない。
だから、つい先ほど閉めたばかりの窓に目を向けた。窓越しに、背後の人間を見る。
──ラウロ・ネスタ……?
望まぬ再会ほど、心踊らぬものはない。
窓越しに、ラウロと目が合った。
エマは今すぐにでもラウロの体を押しのけたかったが、力の差は明らか。身を捩ることしかできなかった。
「おとなしくてしてろ」
趣味の悪い香水に混じる、タバコの香り。
この状況が、よくわからない。
なぜラウロがここにいるの? トラモントの準構成員だとしても、この部屋にいるのはおかしい。
エマは覚悟を決め、拳をぎゅっと握りしめると思い切り、ラウロの足を踏みつけた。
「ぐぁ……!」
攻撃されるとは思っていなかったのだろう。ラウロが驚きと痛みの混じる声を上げると、エマを掴んでいた手が緩んだ。
その隙を見逃さず、エマは素早くラウロの腕から逃げ出し、部屋の扉に向かって走った。
「待ちやがれっ」
お互いに必死だ。
エマは逃げたくて、ラウロは捕まえたい。勝者は簡単に決まった。
ラウロに腕を掴まれたエマは、そのままバランスを崩し床に倒れ込んでしまう。受け身がちゃんと取れなかったせいで肩を床にぶつけてしまい、じわりじわりと痛みが広がっていく。
「何がしたいの……?」
痛みに目を細めながら、エマは自分を見下ろす男を見上げる。
「黙ってついて来い。そうすれば、傷つけたりしない」
「…………」
起きあがろうとするエマに、ラウロが突きつけてきたのはナイフだった。部屋の照明を受けて、ナイフがきらりと光る。
エマは痛みが増してきた肩を無視して、考えた。声をあげるべきだろうか? 殺すつもりなら、部屋にエマが入ってきた瞬間に動くはずだ。
だがラウロはそうしなかったし、何より、ついて来い、と言った。
「早くしろっ」
焦るラウロの様子から察するに、やはり目的はエマをどこかへ連れて行くこと。殺される可能性が低いのならば、助けを──。
「お嬢様、ハサミを持ってきました」
ノックの音に続いて聞こえたのは、カロリーナの声だった。
エマとラウロ、ふたりの意識が一瞬にして扉の向こうのカロリーナに向けられる。
彼女を部屋に入れるわけにはいかない。だって、もしもカロリーナを部屋に入れたら……。
エマは中途半端な姿勢のまま、ラウロを見上げた。
エマを殺す気はないのかもしれない、少なくとも今は。
じゃあ、それ以外の人は?
ラウロはきっと、なんの躊躇もなくカロリーナに攻撃するだろう。
「──わかってるな?」
ラウロが手に握ったナイフを、エマの喉元に近づける。目を閉じ、エマはゆっくりと息を吐いた。
「お嬢様?」
「ごめんなさい、今日は疲れたから……もう休むことにするわ」
平静を装い、声を絞り出す。従うのは非常に不本意だが、仕方がない。扉までは数歩の距離。
エマが下手な真似をすれば、ラウロは扉の向こうにいるカロリーナを部屋に引きずり込み、そのナイフで──。
ぶるり、と体が震えた。
「……わかりました、おやすみなさいませ」
カロリーナの声は納得していないようだったが、足音が遠ざかっていくのを聞いて、エマは安堵した。
「立て」
横柄な物言いのラウロに渋々従い、エマは先ほど閉めたばかりの窓を開け、バルコニーへ出た。冷たい秋の風が部屋の中に吹き込み、エマの髪を揺らす。
ここは三階だ。
まさかラウロは、ここから外へ出ようとしているの?
信じられなくて、エマは背後に立つラウロを振り返るが、ラウロは迷いのない目をしている。
「はしごをかけてある。そこから降りろ」
「はしごって……」
バルコニーの端に、太い縄が縛ってある。見下ろせば確かにはしごがかけてあるが、なんて簡易的なはしごだろうか。
映画でよく見る、カーテンやシーツで作った紐を使って降りることに比べれば、こちらの方がまだ安全に思えなくもないけれど、こんな経験をすることになるとは誰が予想できただろうか。
エマは慎重に、はしごを使って降りていく。風はあるものの、強風ではない。高所恐怖症でないのは、幸運と言えた。
「何、これは……」
地上が近づくにつれ、嫌なものが目に入った。地面にふたりの男が倒れている。
はしごを降り終えたエマは、そっと近くに倒れる男の肩に触れようとして、その手を止めた。──死んでいる。地面に見えるしみは、おそらく血だろう。
エマは一歩、後ろへ下がる。
「あ」
背後に立っていたのは、ラウロだった。少しばかり暗い色が混じる金色の髪に、濃い茶色の瞳、消えないまま居座り続ける目じりの下の傷。
エマはこの同級生を、はじめて怖いと思った。




