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エマ  作者: 藤むらさき
Tempesta……吹き荒れる嵐
25/32

2ー18


 食後のエスプレッソが、思いのほか苦かった。

 最近は紅茶を飲む機会が多かったので、濃いエスプレッソの苦さを忘れていたのかもしれない。


 エマはカップを置き、ふうと息を吐く。遅めの昼食ではあったが、時間をずらしたおかげで並ばずに入ることができた。表通りにある店ではなく、地元民向けの店だったからというのもあるかもしれないが、非常に美味しかった。

 ただ量が多すぎたので、お腹がとても苦しい。


 リカルドは細身なのに、エマと同じ量を食べても平然としている。

 とはいえ、デザートはスキップした。料理自体は文句なしだが、この店のデザートは好みじゃないらしい。注文をすべてリカルドに任せたので、おそらくメニューはリカルドの好みなのだろう。


 それにしても多すぎた。

 料理長のセサルはいつも、食べる人に合わせて量を調節しているのだが、そのありがたみを今、実感している。


「そろそろ帰る頃合いだな。日が落ちれば、鬱陶しい奴らが増えだす」


「そうですね……」


 正直なところ、エマは疲れていた。

 以前はこのくらい平気だったのに、一ヶ月も屋敷の中でのんびりと過ごしていたせいだ。外出でこんなにも疲労感を覚えたのは、久しぶりだ。

 今夜はすぐに眠ってしまうかも。


 リカルドは無言で立ち上がり、手早く会計を済ませる。

 その背を見つめながら、エマはなんとも言えない気持ちだった。


 これが若い男女であればデートだと思うこともできるだろうけど、私たちはなんと呼べばいいのだろう。

 ただの外出──多分、そんな感じね。色めき立つものは、何もない。


 店を出れば、秋の風がエマの中途半端な長さの前髪を揺らす。腰のあたりまで伸びている髪を、そろそろ切った方がいいのかもしれない。

 髪はずっと、自分で切っている。流行りの髪型とかには興味がなくて、いつも邪魔にならなければいいという、年頃の女の子らしからぬ考えで切ってきた。

 セヴェリーニ邸に、髪用のハサミはあるだろうか?

 あれば今日にでも切ってしまおう。


 もうちょっと、身なりに気を使うべきかしら?


 目の前を通り過ぎた歳の近そうな女の子たち。

 あの子たちに比べると、私ってちょっと、野暮ったく見えるかも。だからスリにあったのかも。取れそうな奴──リカルドの言葉が、頭に響く。


「どうかしたか?」


「いえ、なんでもありません」


 歩く速度が明らかに遅いエマに、リカルドが訝しむような視線を向ける。


 今日はちょっと、おかしなことばかり考えてしまう。

 以前ならこんなこと、気にもしなかったのに。理由なんてわからないけれど、ただなんとなく、リカルドの隣を歩くのが嫌でたまらない。


 エマは頭の中を支配しようとする考えを振り払うため、早足になる。


「あ──」


 ふと、見覚えのある店を視界の端に見つけた。

 そこはジェラテリア、カルロの店だった。数人が並んでおり、元気なカルロの声が聞こえる。


 あの日のアリーチェの行動もあって少し気になっていたのだが、店を切り盛りするカルロの様子を遠目から見るに、大丈夫そう。

 心配は杞憂だったのだ。夢を追いかけて田舎から出てきたのだから、そう簡単に折れるような心のはずがない。笑顔で接客するカルロは、誰よりも輝いている。


「こんなところにジェラテリアなんてあったか?」


「新しい店ですよ」


 カルロのジェラテリアはそれなりに繁盛しているようだ。立地条件はそれなりに重要だろうが、おいしければ多少、表通りから外れていても関係ない。


「私、行ってきます。ここで待っててください」


 お客さんがいなくなったタイミングで、エマは店へ向かって歩き出した。

 リカルドとの距離が離れると、少し息がしやすくなったような気がする。


「いらっしゃい──君は!」


「お久しぶり、というのも変な感じですね。この間はありがとうございました」


「いやいや、俺は何もしてないよ。今日はひとり?」


「ええ、まあ」


 適当に返し、エマは壁にかけてある黒板を見る。黒板にはメニューが書いてあって、数は多くないものの、説明が細かく記されてある。


「ああ、サービスするよ。好きな味を選んで!」


「いえ、きちんとお支払いします」


 カルロの人なつこい笑顔は、やはり大型犬のようだ。年上なのに、同級生のように感じてしまう。


「おすすめはどれですか?」


「今日はアマレナかな。甘酸っぱくて、美味しいよ」


「じゃあ、それを」


 財布を取り出そうとすれば、横から紙幣が差し出された。割り込みかと思ったが、紙幣を差し出したのはリカルドだった。


「えーっと……」


「同じものを頼む」


 意外なことに、リカルドはジェラートを食べるらしい。

 てっきり、そういったものは好まないと思っていたのに。


「食べるんですね」


「別に嫌いじゃないからな」


 ふたりが知り合いなことを確認してから、カルロは紙幣を受け取ろうとしたのだが、それをエマが止めた。


「私、ジェラートを買うくらいのお金は持ってます」


 エマが不満そうに言い、自分の財布からお金を取り出し、カルロに渡した。

 あの日、アレッシオが渡そうとした黒いクレジットカードを、エマは今も拒んでいる。無職のエマには収入源などないけれど、セヴェリーニ邸で過ごす間、お金を必要としたことは一度もない。財布──すられそうになったけれど、ジェラートを買うくらいの持ち合わせはあるのだ。


「──気に障ったのなら謝る」


 これもまた、意外だった。

 リカルドがこうも簡単に謝罪を口にするなんて。晴天の空から、雪でも降りそう。


「知り合いか?」


「どうなんでしょう……」


 会話を聞いていたのだろう。

 ただエマは、カルロとの関係をどう説明したらいいのか、わからない。友人? 当たり障りなく、知人と言っておくのが一番なのかも。


「はいどうぞ!」


「ありがとうございます」


 カップに入ったジェラートを受け取り、エマは気づく。注文したアマレナ──さくらんぼとは別に、バニラが添えてあるのだ。


「あの」


「サービスだよ。気に入ったらまた来てね」


 眩しい笑顔でそう言われると、素直に受け取るしかない。


「お兄さんもぜひ、よろしくお願いしますよ!」


 ご丁寧にも、カルロはリカルドにもサービスしてくれたようだ。無表情のまま受け取ったリカルドは、一口食べて、悪くないとつぶやいた。


「騒々しい男だな」


「明るく楽しい人ですよ」


「確かにそうとも言える。俺とは正反対の人種だな」


「──比べるものではないと思いますけど」


 夏の太陽のように眩しくて、屈託のない笑顔が魅力的なカルロ。

 静かな夜の月のような、冷たくも鋭利な美しさを宿すリカルド。


 太陽と月を比べるなんて無意味だ。

 どちらにも、それぞれの良さがある。


「食べたら戻るぞ」


 リカルドは食べるのが早い。反対にエマは遅くて、ジェラートを頼むときはいつもコーンじゃなくてカップ。

 そうすれば溶けても、手が汚れる心配をしなくても良い。





 セヴェリーニ邸へ戻ってきた頃には、もう空が夜の色に染まっていた。季節が徐々に冬へ近づいている証拠だ。日が短くなっている。

 エマは車を降り、複雑な気持ちになってしまう。一ヶ月もいるせいで、帰ってきた感覚に襲われてしまいそうになった。ここは自分の家じゃないのに。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


「ただいま」


 出迎えてくれたのは、カロリーナだった。風邪が治ったようで、顔色が良い。


「アレッシオはいるか?」


「はい、お戻りですよ」


 それだけ聞くと、リカルドはさっさと屋敷へ入った。


「芸術祭はどうでしたか?」


「人が多くて、なんだか疲れてしまったの」


「そうなんですね。じゃあ、夕食はどうしますか?」


「お腹は空いてないから、今日はいらないかも。ああ、そうだ。ハサミはある?」


 先を歩いていたエマが、あることを思い出して振り返る。


「ハサミですか?」


「そう、髪を切る用のハサミ」


「髪を切るんですか? まさか、自分で?」


 驚くカロリーナに、エマはなんの迷いもなく頷く。


「もしかして無いのかしら……」


「無いというか……カット用のハサミなら、あたし持ってます」


「そうなの?」


「はい。節約のために、あたしも自分で切るので」


 苦笑いを浮かべるカロリーナの髪は、綺麗に整えてある。


「もしよろしければ、カットしましょうか? ヴィヴィアナの髪も、あたしがカットしてるんですよ」


「いいの?」


 自分で切るつもりだったけれど、カロリーナの方が確実に上手そう。

 エマの部屋はすぐそこだったが、カロリーナはハサミを取りに使用人棟へ。

 その背を見送ってから、エマは部屋の扉を開ける。


「……?」


 部屋は肌寒かった。見れば、バルコニーへ続く窓が開いていた。白いカーテンが秋の夜風に揺れている。カロリーナが締め忘れたのかもしれない。

 窓に近づき、そっと閉める。


「────!」


 カーテンに伸ばした手を、掴まれた。反射的に声が出そうになったが、冷たい手によって口を塞がれ、それは叶わなかった。部屋に誰かがいる。誰なの?

 エマはゆっくりと視線を動かす。背後から伸びてきた手──振り返ることはできない。

 だから、つい先ほど閉めたばかりの窓に目を向けた。窓越しに、背後の人間を見る。


 ──ラウロ・ネスタ……?


 望まぬ再会ほど、心踊らぬものはない。

 窓越しに、ラウロと目が合った。


 エマは今すぐにでもラウロの体を押しのけたかったが、力の差は明らか。身を捩ることしかできなかった。


「おとなしくてしてろ」


 趣味の悪い香水に混じる、タバコの香り。

 この状況が、よくわからない。

 なぜラウロがここにいるの? トラモントの準構成員だとしても、この部屋にいるのはおかしい。


 エマは覚悟を決め、拳をぎゅっと握りしめると思い切り、ラウロの足を踏みつけた。


「ぐぁ……!」


 攻撃されるとは思っていなかったのだろう。ラウロが驚きと痛みの混じる声を上げると、エマを掴んでいた手が緩んだ。

 その隙を見逃さず、エマは素早くラウロの腕から逃げ出し、部屋の扉に向かって走った。


「待ちやがれっ」


 お互いに必死だ。

 エマは逃げたくて、ラウロは捕まえたい。勝者は簡単に決まった。


 ラウロに腕を掴まれたエマは、そのままバランスを崩し床に倒れ込んでしまう。受け身がちゃんと取れなかったせいで肩を床にぶつけてしまい、じわりじわりと痛みが広がっていく。


「何がしたいの……?」


 痛みに目を細めながら、エマは自分を見下ろす男を見上げる。


「黙ってついて来い。そうすれば、傷つけたりしない」


「…………」


 起きあがろうとするエマに、ラウロが突きつけてきたのはナイフだった。部屋の照明を受けて、ナイフがきらりと光る。

 エマは痛みが増してきた肩を無視して、考えた。声をあげるべきだろうか? 殺すつもりなら、部屋にエマが入ってきた瞬間に動くはずだ。

 だがラウロはそうしなかったし、何より、ついて来い、と言った。


「早くしろっ」


 焦るラウロの様子から察するに、やはり目的はエマをどこかへ連れて行くこと。殺される可能性が低いのならば、助けを──。


「お嬢様、ハサミを持ってきました」


 ノックの音に続いて聞こえたのは、カロリーナの声だった。

 エマとラウロ、ふたりの意識が一瞬にして扉の向こうのカロリーナに向けられる。


 彼女を部屋に入れるわけにはいかない。だって、もしもカロリーナを部屋に入れたら……。


 エマは中途半端な姿勢のまま、ラウロを見上げた。

 エマを殺す気はないのかもしれない、少なくとも今は。

 じゃあ、それ以外の人は?

 ラウロはきっと、なんの躊躇もなくカロリーナに攻撃するだろう。


「──わかってるな?」


 ラウロが手に握ったナイフを、エマの喉元に近づける。目を閉じ、エマはゆっくりと息を吐いた。


「お嬢様?」


「ごめんなさい、今日は疲れたから……もう休むことにするわ」


 平静を装い、声を絞り出す。従うのは非常に不本意だが、仕方がない。扉までは数歩の距離。

 エマが下手な真似をすれば、ラウロは扉の向こうにいるカロリーナを部屋に引きずり込み、そのナイフで──。


 ぶるり、と体が震えた。


「……わかりました、おやすみなさいませ」


 カロリーナの声は納得していないようだったが、足音が遠ざかっていくのを聞いて、エマは安堵した。


「立て」


 横柄な物言いのラウロに渋々従い、エマは先ほど閉めたばかりの窓を開け、バルコニーへ出た。冷たい秋の風が部屋の中に吹き込み、エマの髪を揺らす。

 ここは三階だ。

 まさかラウロは、ここから外へ出ようとしているの?

 信じられなくて、エマは背後に立つラウロを振り返るが、ラウロは迷いのない目をしている。


「はしごをかけてある。そこから降りろ」


「はしごって……」


 バルコニーの端に、太い縄が縛ってある。見下ろせば確かにはしごがかけてあるが、なんて簡易的なはしごだろうか。

 映画でよく見る、カーテンやシーツで作った紐を使って降りることに比べれば、こちらの方がまだ安全に思えなくもないけれど、こんな経験をすることになるとは誰が予想できただろうか。

 エマは慎重に、はしごを使って降りていく。風はあるものの、強風ではない。高所恐怖症でないのは、幸運と言えた。


「何、これは……」


 地上が近づくにつれ、嫌なものが目に入った。地面にふたりの男が倒れている。

 はしごを降り終えたエマは、そっと近くに倒れる男の肩に触れようとして、その手を止めた。──死んでいる。地面に見えるしみは、おそらく血だろう。


 エマは一歩、後ろへ下がる。


「あ」


 背後に立っていたのは、ラウロだった。少しばかり暗い色が混じる金色の髪に、濃い茶色の瞳、消えないまま居座り続ける目じりの下の傷。

 エマはこの同級生を、はじめて怖いと思った。




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