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エマ  作者: 小さな月
Tempesta……吹き荒れる嵐
24/32

2ー17


 芸術祭五日目。

 車の窓から、外の景色を眺める。五日目にもなれば落ち着くのかと思ったが、そうでもないようだ。

 ロッソ市へ来て一ヶ月が過ぎようとしているのに、ほとんどこの街のことを知らない。お祭りの初日、アリーチェによって連れ出されたけれど、楽しむ余裕などなかった。

 それはある意味、今もそうだと言える。


 エマは横目で、車に同乗する黒髪の男──リカルドを見た。隙のない黒いスーツ姿と、感情がちっとも見えない無表情はいつも通り。


「あなたも行くんですか?」


 出かける直前になってリカルドの同行を知ったエマは、あからさまに驚いてしまった。何も言われていなかったから、てっきり護衛だけがついてくると思っていたのだ。

 車内にはエマとリカルド、そして空気も同然と言わんばかりに気配を押し殺した運転手の三人のみ。窓の向こうは賑やかなお祭りの真っ只中だというのに、車内の空気はどこまでも重い。


 こんなにも息苦しい思いをするのなら、屋敷にいた方がマシだったのだろうか?

 そう思ったが、ずっと屋敷の中に閉じこもってはいられない。日常を取り戻さないと。

 以前は当たり前で、その貴重さに気づくこともできなかったけれど、今ならよくわかる。染まってはダメよ、戻れなくなってからでは遅いの。


 だから後悔することは何もない。自分にそう言い聞かせ、再び窓の外を見る。人が多く、車の速度はかなりゆっくりだ。メインストリートを走っているせいもあるのだが、初日よりも人が多くなっているような気がする。


「賑やかですね」


「最終日に合わせて、観光客が増えだしたんだろう」


「そうなんですか?」


「ロッソの花火はそれなりに規模がでかいからな」


 淡々と話すリカルドからは、なんの感情も見つけることができない。

 そんなに怖くない──そう思ったけれど、今は少しばかり距離が近すぎる。怖くはないけれど、緊張はする。


「……どこへ行きます?」


「好きにしろ」


「そう言われても……」


 市内のことなんでほとんど知らない。

 こんなことなら、カロリーナとヴィヴィアナに聞いておけば良かった。あの子たちは年頃の女の子らしく、流行りのことだったり、美味しいトラットリアなんかを知っていただろうに。


「私よりもあなたの方が詳しいと思うのですが……」


「どうだろうな」


「そう、ですか」


 会話──と言えるかどうかも怪しすぎるが、そこで再び、車内を沈黙が支配した。沈黙は嫌いじゃないけれど、あまりにも会話がぶつ切りすぎると、かえって気まずくなってしまう。

 エマはどうしようかと思い話題を探してみたのだが、どうにも良い話題が見つからない。世間話? どんな話題だろうと、この人なら無表情に切り捨てるんでしょうけど。

 いっそ、恋愛の話でも振ってみようか。呆れるか、バカにするか、もしくは両方か──どちらにせよ、その無表情は一瞬、崩れるだろう。


「立場がアレだからな」


 意外にも、沈黙を破ったのはリカルドだった。


「顔を出せば誰もがこれみよがしにへつらうさ。……わざわざそんなものを見物するような趣味は、生憎と持ち合わせていないんでね」


 その言葉によって思い出されるのは、アリーチェの姿。従業員だけでなく、店の主人でさえもアリーチェの機嫌を損なわないよう必死だった。

 きっとリカルドも、店に出向けば同じような接客をされてしまうのだろう。本人が望んでいなくとも。


「それは、どこへ行っても同じですか?」


「何──?」


 リカルドがようやく、こちらを見た。紫色の瞳と、目が合う。


「どこへ行っても、あなたはトラモントの幹部でしかないんですか? そんなはずないわ」


 誰でもひとつくらい、背負った重いものを気兼ねなくおろし、ありのままの自分でいられる場所があるはずだ。

 エマにもある、いや正確にはあった、というべきかもしれない。

 ここへ来てからは、あまり心が休まる日がないのだ。


「本当に行きたい所はないのか?」


「あれば良かったんですけど」


 ロッソには有名な観光地がいろいろある。美術館や大聖堂、宮殿、広場、少し遠いが展望台なんかも。

 もちろん買い物を楽しみたい観光客がこぞって訪れるショッピングストリートもあるが、エマはあまり興味がわかなかった。

 どちらかといえば、エマは家でくつろぐ時間を大切にするタイプ。出かけることは嫌いじゃないが、休みのたびにどこかへ出かけるほどアクティブではない。


「ガイドは得意じゃないんだ」


 でしょうね、と言いかけ、慌てて言葉を飲み込む。

 リカルドはガイドのために同行したわけじゃない。護衛、あるいは監視か──そういった役所がきちんとあるのだ。


「ジャンニ、お前ならどこに行く?」


 リカルドが声をかけたのは、運転手だった。


「自分ならそうですね……プロメッサ広場でしょうか。やはりロッソに来たのなら、一度は行っておくべきでは? 興味はなくとも」


「人が多すぎるが……、まあいい。そこへ」


 リカルドの指示を受け、ようやくこの車の向かう場所が決まった。




 プロメッサ広場に到着するやいなや、リカルドは露骨に不機嫌になってしまった。

 その理由は考えなくてもわかる。広場は観光客で溢れかえっていたのだ。

 どこを見ても人、人、人!

 しかもそのほとんどが恋人。


 プロメッサ広場は待ち合わせ場所に使われることも多いのだが、恋人がいるのなら一度は訪れておくべきデートスポットでもある。歴史的価値も十分にあるのだが、デートスポットとして雑誌か何かで紹介されてしまってから、そちらの側面の方が強いのが現実だ。


「すごい人……」


 あまりの人の多さに、圧倒されてしまう。音楽が聞こえてくるのは、誰かが演奏しているからだろう。


「離れるな」


「は、はい」


 この人混みだ。護衛は今、近くにいない。見るからに一般人ではない黒いスーツの男たちがぞろぞろと歩いていたら、地元民でも何事だ? と思うのだから、観光客はさらに驚くだろう。人目を無駄に集めてしまうことにも繋がるし、目立たないためには距離を取ったほうがむしろ良い。


「見るものなんて特にないだろうに、なんでこうも人が多いんだ……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、リカルドはエマの手を引いて広場の中心地へと向かっていく。

 おそらくというか確実に、観光客の目的は広場の中心にある噴水だ。噴水にはふたりの男女の白い像がそびえ立っており、この男女は昔、戦争によって離れ離れになってしまった若い恋人がモデルとされている。戦争が終わり、ふたりは再び再会することができた、というよくあるお話ではあるが、歴史的背景がどうのこうの言われるよりもずっと、とっつきやすい。


 恋人たちはこの像の足下にある噴水に向かって、ふたりの愛が永遠に続くことを願いコイントスをするのだが、これはここ数年で広まった流行りだ。投げたコインが噴水に入れば、ふたりの愛は永遠になる──当時の市長が考えなしに言ってしまったのだが、それが思いのほか流行ってしまって今も続いている。


「こんだけでかいんだ、入らない方が不自然だろ」


 噴水の前に到着したエマは、はじめてプロメッサの噴水を見た。写真か何かで見たことはあったが、やはり実物は大きい。人の何倍もある男女の像を見上げ、そして噴水を見る。水は透き通っており、投げ入れられたコインがよく見えた。

 リカルドの言う通り、これだけの大きさの噴水だ。

 よほどコントロールを間違えない限り、入らない、なんてことは無さそう。

 ぽちゃん、と投げられたコインが水に飛び込む音が聞こえる。


「何が楽しいんだか」


 つまらなそうなリカルドの言葉に、エマはつい笑ってしまった。


「コイントスを心から楽しんでいる人なんていませんよ」


 みんな、この瞬間を楽しんでいるだけ。好きな人と一緒に、永遠を誓う──ただのお遊びだとしても、今この瞬間だけは、それを信じてコインを投げる。

 そしてそれは、楽しい思い出の一部になる。


「ロッソに住んで長いんでしょう? あなたも来たことくらい、あるんじゃありませんか?」


 ──恋人と一緒に。

 消え入りそうな声で言えば、リカルドはバカにするように鼻を鳴らした。


「ないね、あるはずがない」


「……そうですか」


 エマは迷った。恋人と来たことがないのか、それとも恋人がいないのか。

 そのどちらも、エマには踏み込むことができない。

 これが年の近しい同性であればまだ聞きやすかったのかもしれないが、リカルドはずっと年上で、しかも男性。距離感が難しい。


 なんだか急に、自分たちがこの場にふさわしくないように思えてきた。

 周りは今が人生の最高潮だとでも言いたげな恋人たちばかり。


 じゃあ、私たちは何かしら?


 エマの左手は今もリカルドの手の中にあるけれど、絶対に恋人同士には見えない。見えるはずがない。年齢とか、釣り合いとか、そういう問題ではなくて、雰囲気、あるいは空気。

 そういったものが、周りとは明らかに違うのだ。


 ううん、やめよう。変なことを考えるのは、きっと周りの雰囲気にのまれそうになっているからよ。

 エマは静かに首を振る。


「そろそろ移動したほうが──……」


 言いかけたタイミングで、リカルドに抱き寄せられた。

 何が起きたのかすぐには理解できなかったが、間近に感じるぬくもりに気づいた瞬間、自分でも驚くほどに心臓の鼓動が速くなった。


「あ、あの……」


「これだから人混みは嫌いなんだ」


 不満そうな声と舌打ち、それから見知らぬ男のうめき声。

 エマは状況がうまく掴めず、視線だけを動かす。

 どうやらリカルドが、男の手首を捻り上げているらしい。


「カポ──!」


 離れた場所にいた護衛たちが駆け寄り、痛みにうめく男を引き取った。


「何しやがる!」


「手慣れてるな。スリの常習犯だろ」


 怒鳴る男を見もせず、リカルドは淡々と護衛たちに指示を出している。

 スリ──ここは観光地だし、観光客を狙ってそういう犯罪に手を染めてしまう者がいることをエマも知っているが、まさか自分が標的になるとは思ってもいなかった。


「取れそうな奴からは取るさ、ああいう奴らは」


 そう言って、リカルドはエマの手を引き歩き出す。滞在時間は大したことはない。

 なのにどうしてだか、とても長い時間、そこにいたような気がする。




「ママ……本当にうまくいくの?」


 カーテンを閉め切った部屋に、小さなアリーチェの声が響く。部屋にはアリーチェとフラヴィアのふたりきり。

 フラヴィアはソファに腰掛け、グラスにワインを注いでいた。

 ここ数日、フラヴィアは昼夜問わず飲み続けている。

 まるで正気を失いたいと願うかのように。


「怖いの?」


「……うまくいくのか心配なの」


 アリーチェはずっと、落ち着きがない。座ったり立ったりを繰り返し、時計を見たかと思えばカーテンで閉め切った窓を見る。

 日頃から落ち着きがない子だが、今日は目に見えてひどい。


 フラヴィアはグラスに注いだワインを一口飲み、目を伏せる。何杯も飲んだせいね、味がよくわからない。

 フラヴィアはお酒の味はそこまで好きではないが、よく飲むほうだ。飲んで酔えば、現実から解放される。

 この重く息苦しい現実を、ほんの一時でも忘れることができる。味なんてどうでもいいのよ。酔うことができるのなら、どんなお酒でも構わない。


「あなたも飲みなさい」


「で、でも」


「飲めば少しは楽になるわ」


 新しいグラスに、ワインを注ぐ。大丈夫──これが最後よ。

 フラヴィアは娘にグラスを差し出す。


 もう逃げられはしない。

 その時期はとっくの昔に過ぎ去ったの。

 だから手に入れてみせるわ。誰にも奪われない、私だけの居場所を──。



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