2ー16
芸術祭も折り返し。
エマはリカルドの仕事部屋にいた。白い壁に、赤い絨毯、重厚な色合いのマホガニーの机の上はきれいに整頓されている。部屋の主人の性格を受けてなのか、花瓶や絵といったものは一切置かれていない。落ち着きはあるが、華やかさは足りない。
ただ仕事をするためだけの空間。必要なものだけを残し、不必要なものはすべて切り捨てた部屋。
そんな印象を受ける。
「護衛を用意した。来月には当初護衛にするつもりだった奴らに戻すが、当分はそいつらを使え」
相変わらずなリカルドの物言いに、エマはなんと返すべきなのかいまだに迷う。
リカルドからすれば、部下に指示を出したりすることは日常的なことなのだろうが、エマは違う。侍女ふたりにだって偉そうな態度は取れない。
どんな相手であれ、敬意を損なえば自分も同等の扱いを受ける。最低限の礼儀は必要だと思う。
「──その人たちと一緒なら、外へ行っても構わないと?」
黒いソファに浅く腰掛けるエマは、盗み見るようにリカルドを見る。ジャケットを脱いだリカルドは、ネクタイを緩めていた。
「どこへ行くかによる」
人の多い所──それこそ、芸術祭の最終日はそれなりの護衛を用意する必要があるという。
「私は父にいつ、会えるんでしょうか?」
「そう遠くはない。片付けなければならない問題が片付けば、すぐに帰ってくる」
正確な日にちはわからないのね。
エマは肩から力を抜き、膝に置いた自分の手を見つめる。
先日、ベルトランドが燃やしてしまった離れを見に行ったが、ファヴィオの言う通り、そこには何もなかった。
そう、何もない。母の痕跡は、ことごとく消えてしまっている。
エマはずっと考えていた。父に会ったとき、自分は何を聞きたいのか。
ずっと考えて、そしてようやく、答えが出た。
私が聞きたいことは、ひとつだけ。だったひとつだけよ。
「フラヴィアとアリーチェは、近いうちにこの屋敷を去る」
目を伏せていたエマは、リカルドの言葉で顔を上げた。
「出て行くんですか? ……私のせい?」
「遅かれ早かれ、あのふたりは出て行くことになった。誰のせいでもない」
リカルドはずっと、書類に目を通している。
こちらを見ようとしないけど、エマは気にならなかった。
人は環境に適応していく──誰が言ったのだろうか。
エマは最近、リカルドたちを怖いとは思わなくなっていた。
もちろん、ふとした瞬間に顔を出すファミリーの幹部という側面に恐怖を覚えることはある。
それでもこうして、ただの人として接するときには、以前ほどの恐怖はない。良いことなのかな? どうなんだろう……。
エマはじっと、こちらを見ようともしないリカルドを見つめる。夜の闇のような黒髪、長い前髪の奥にある紫色の瞳、健康的な肌の色と、すらりと伸びた手足──ナイフのような鋭さがありながらも、それを美しいと思う。触れればきっと、怪我をする。
それでも他者を惹きつける、危うい美しさ──。
「なんだ?」
視線に気づいたのか、リカルドが訝しむようにこちらを見た。
「いえ、別に……」
見つめ続けていたのは、ほぼ無意識だった。少しの気まずさを感じ、エマは部屋を出て行こうと腰を上げる。
それと同じタイミングで、扉がノックされた。
「来たか。──入れ」
中途半端な体勢だったエマは、仕方なしに再びソファに座る。
部屋に入ってきたのは、ふたりの男性だった。エマより年上、でもリカルドよりは若い。
「護衛だ」
「あ、えっと……」
ふたりの男性を前に、エマはソファから立ち上がる。
「よろしくお願いします」
意外なことに、ふたりは愛想が良かった。笑顔を浮かべ、雰囲気も柔らかい。
「屋敷の中に置くのはこのふたりだが、外出するなら数を増やす必要がある。出かけるのなら、明日以降にしてくれ」
「は、はい」
出かけていいのね。
当たり前のことなのに特別感があるのは、この一ヶ月、ほとんど外へ出れなかったせいだ。
今自分が置かれている状況が異常であることを、改めて思い知る。
人は環境に適応していく、自分を守るために。
でもだめよ。この非日常に慣れてはいけない。
「私、部屋へ戻ります」
「ああ」
エマは静かにリカルドの仕事部屋を出て、その後にふたりの護衛が続く。
自分だけが残った部屋で、リカルドは静かにため息を吐き出す。護衛は用意した。外出する際の車だとかも抜かりなく。
それでも不安が残るのは、やはり不確定要素が多すぎるからだ。
フラヴィアは今朝、アリーチェを連れて外出した。アリーチェはともかく、フラヴィアの考えていることはどうにもわかりづらい。娘をボスにすることを諦めたとは思えないが、かといって無茶なことはしないはず──と思いたい。
これに加え、街には現在も他ファミリーの動きがある。ボスがいないこと、その娘であり唯一の正式な後継者がいることが、奴らの活動を活発にさせている。
本音を言えば、エマにはもうしばらく屋敷に閉じこもっていてもらいたい。手の届くところにいれば、守ることはできる。
だが手を離してしまえば、掴むことすら難しくなってしまう。
「厄介な仕事を任されたものだ」
リカルドは使い慣れた椅子に腰掛け、足を組む。
最近、エマ・フォレスティという人間がわからなくなる。
ベルトランドとブランカの娘ということで、どちらに似ているのか会うまではわからなかった。写真では顔を見たが、実際に会うのとではやはり違う。
父親譲りの髪と瞳の色、そして母親譲りの顔立ち──性格はどちらだろうか?
ベルトランドはこれと決めれば貫き通し、多くの荒くれ者たちをまとめ上げるカリスマ性がある。
ブランカは優しく穏やかだが、驚くほどの意志の強さを持つ女性。
どちらに似ても頑固者だろうと思ったが、一ヶ月前に初めて会ったエマは正直、どちらに似ているとも言えなかった。良くも悪くも、普通の女の子。気が弱く、年上の男に対し怯えている普通の女の子。
そう思っていたはずなのに、最近、それが間違っていたような気がする。
ふとした瞬間、揺れる緑色の瞳に力強さが宿るのだ。隠していたのか、隠れていたのか、本人すらも気づいていないのか──その瞳に宿る強さと、迷いのない言葉に驚くことがある。
あれはベルトランドだろうか?
それともブランカ?
どちらにせよ、エマに対する評価は変わりつつある。
リカルドはおもむろにタバコへ手を伸ばす。火をつければ、爽やかなメンソールの香りが部屋に広がる。いろんなタバコを吸う自分を、セルジオは変だと言う。
あれはメンソール系を好むから、甘ったるい香りだとかを嫌うのだ。
逆にアレッシオは甘い香りを好み、強すぎるメンソール系を嫌う。
リカルドは昔から、好みというものが自分でもよくわからないのだ。タバコも酒も、食事さえもこだわりがない。
だからなのだと思う。執着が強い。好みがわからず、こだわりもない自分がこれと決めたものに出会えば、執着せずにはいられない。
警戒心が強く、他者を容易には信用せず、そうすることで自分を守ってきた。自分が生きてきた世界は、優しさなんて腹の足しにもならない世界。まずは疑え──それは今も変わらなくて、そして心を許せば最後、疑うことはない。
ベルトランドへの揺るぎない絶対の忠誠を、あの娘に捧げることになるのだろうか?
いやまさか、そんな未来が来ると本気で思っているのか?
自分の考えを馬鹿にするように鼻で笑って、ゆっくりと肺へ送り込んだ煙を吐き出す。やるべきことは山積みなのだ。与えられた役目を全うしろ。先のことなど知るか。
今の自分はただ、エマを守っていればいい。
それがファミリーと、そしてボスのためになるのだから──。