2ー15
完璧な世界だと思ってた。
パパはいつもわたしに可愛いぬいぐるみを買ってくれて、ママはそれを見て、困ったように笑うの。仕方ないわ。わたしの部屋、ぬいぐるみでいっぱいになってしまいそうだったから。
でも完璧なものなんてこの世にはないんだ、って気づく。
パパが死んで、わたしはもう、新しいぬいぐるみを欲しがらなくなった。
おじ様は何も買ってはくれない。わたしが欲しいと言わなければ、何も買ってはくれない。
だからわたしはたくさん求めたの。本当は必要ないのに、目に映るすべてのものを欲しがった。
そうすれば、満たされると思ったから。
わたし、本当はわかってたのかもしれない。心から望んだもの、それは────。
アリーチェはゆっくりとまぶたを持ち上げる。体が重くてだるい。喉が渇いて、お腹も空いている。ベッドの中でもぞもぞと動けば、自分が生まれたままの姿であることを思い出す。肌に直接触れるシーツの感触は、嫌いじゃない。
「アリーチェ様、バスタブにお湯を張りました。起きませんか?」
ダニエラの声がする。
いつも嫌になるくらい元気な声なのに、こういう時は違うから調子が狂う。
「あいつは……?」
顔だけベッドから出せば、ダニエラがガウンの準備をしていた。
あれはアリーチェのお気に入り。素肌に馴染んで、すごく気持ちが良いのだ。
「……準構成員の彼のことですか? もう出られましたよ。お屋敷の方に見つかっては大変ですから」
「……そ」
ダニエラはあの男──ラウロのことをあまり良く思っていないらしい。
まあ、ダニエラはいつもそうだ。アリーチェがファミリーの誰かしらに気のある素振りを見せ一夜の相手に選ぶと、それは良くないことですよ、とお小言を言う。
今時、純愛なんて流行らない。
アリーチェは裸のままベッドを抜け出し、そのままバスルームへと移動した。
ダニエラはバスタブにたっぷりのお湯を張っていてくれた。温度もちょうど良い。足を入れ、体を沈め、そのまま頭まですっぽりと浸かってしまう。世界が歪む。何もわからなくなる。
「アリーチェ様!?」
ダニエラの叫び声が聞こえて、アリーチェはお湯から顔を出す。
ただお湯に浸かるだけなのに、シャワーとは全然違う。
アリーチェは意外と、この時間が好きだった。
「ママはどうしてる?」
「お部屋から出てこられませんね。お食事もあまり召し上がっていないようですし……」
バスタブの中で膝を抱え、アリーチェは泣きたくなった。
昨夜のことを思い出すと、胸が苦しくなる。
あれはママの本心なの?
否定したい。悪い夢だと思いたい。
いっそ母の部屋へ出向いてみようかとも思ったが、怖くてできなかった。拒絶されるのは嫌。たまらなく怖い。
けどアリーチェには、フラヴィアしかいないのだ。
アリーチェだって、ちゃんとわかってる。自分に群がる連中は、ただ甘い蜜を吸いたいだけ。媚びへつらうのは、ボスの姪だから。
──それはあなたが築き上げたものじゃない。
不意に蘇る、エマの言葉。
あの時のエマの表情を、今でもありありと思い出すことができる。
「アリーチェ様、食事にしましょう」
バスタブの中から出てこようとしないアリーチェに、ダニエラが声をかける。
今は十四時を少しすぎた頃。遅めの昼食ではあるが、あまり食べる気にはなれない。お腹は空いているのに、不思議。
「……ママ……わたしは……」
バスローブを羽織り、アリーチェは鏡に映る自分を見つめる。
ママに似た自分──でもママはわたしのことを嫌いだと言った。
どうやれば、ママはもう一度、わたしに愛してる、って言ってくれるんだろう?
幼い頃から、欲しいと思ったものはなんでも手に入れることができた。
でもなぜか、本当に欲しいものは口に出せなかった。
カーテンを閉め切っているせいで、昼間だというのに部屋は薄暗い。
フラヴィアはベッドからおり、テーブルに置いたままのグラスに手を伸ばす。
数時間前、オルガが部屋にやってきて軽食を置いていったのだが、一口も食べていない。空腹感はないけれど、どうしてだか体が重くて、頭の中にもやがかかっている感じではっきりしない。
この感覚には、覚えがある。
昔、そうずっと昔、父親に連れて行かれたパーティーでこんな感覚に襲われた。自分を見る男たちの視線、美しい娘を自慢する父親の誇らしそうな顔、それから下心を隠そうともせずに話しかけてきたジェレミア──すべてが他人事のように思えた。
自分の身に起こっていることなのに、観客のような気分。
誰も私の気持ちなんて気にはしてない。
だから心を切り離した。傷つかないために。
どこで間違えたか?
そんなのわかってる。最初からよ。
思い描いていた人生とは、何もかもが違いすぎる。
あの日、あの夜、あのパーティーに行かなければ、私の人生は違ったのかしら?
いいえ、おんなじよ。何も変わりはしない。
グラスの中に残ったワインを飲み干し、フラヴィアはカーテンを開けようと窓へ近寄る。
ここからは裏庭がよく見えるのだ。
「…………」
秋の陽射しを受けて、銀色の髪が宝石のように輝いている。セルジオだ。
その後ろに続くのは、赤い髪──エマだった。
あの子を見ていると、思い出してしまうの。美しいプラチナブロンドと青い瞳の少女を。見るからにか弱い外見をしているくせに、鋼のように強い心を持った少女はトラモントのボスに愛されながらも、去ってしまった。自分と、そこに宿った小さな命を守るために。
フラヴィアは鼻で笑ったものだ。
どうせすぐに戻ってくる。逃げられやしないわ。
なのにベルトランドは連れ戻さなかったし、ブランカも戻っては来なかった。
二十年経ち、この屋敷へやって来たのはふたりの娘エマ。
フラヴィアは羨ましいと思った。逃げようと思えば逃げれるのだと知りながら、ずっとこの屋敷に留まる自分に苛立ちを感じ、ただただ、ブランカが羨ましかった。
私に同じことができる? できるはずがないわね……。
現状に恨み言を言うくせに、逃げようとはしない臆病な自分。夫や娘を操って、すべての責任を彼らに押し付けている卑怯な自分。──嫌になる。
でもこれが私なのよ。臆病で卑怯な、ずるい女。
本当に嫌いなのは、自分自身なのかもしれない。
頭がくらくらする。余計なことばかり考えてしまうのは、ワインのせい?
窓から離れて、テーブルにグラスを置く。テーブルには今も、ワインボトルが置いてある。目覚めては飲んで、眠って、また目覚めたら飲んで……そんなことを繰り返してる。良くないとわかっているけれど、ジェレミアとの結婚が決まったときも、同じような生活をしていた。飲んで眠って、目覚めて飲んで、また眠る。
そうして現実と夢の境目が曖昧になってしまえば気を失えるかと思ったのに、そんなことにはならなかった。
「──ママ?」
グラスにワインを注ぐのと同時に、聞き慣れた声が薄暗い室内に響いた。目をやれば、アリーチェが不安そうな顔でこちらを見ている。
バカな娘、可哀想な娘──母親に拒絶されながら、それでも母親に縋るしかないなんて……。
でもそれは、私も同じなのよ。
この部屋には誰も来ない。
フラヴィアは驚くほどに優しい手で、娘を抱き寄せた。甘い花の香りがする、私の娘──。
「ねえアリーチェ、ママを助けてくれる?」
アリーチェはあたたかく、冷たい自分とは違う。人の温もりに勝てるものなんてありはしない。
「わたし、ママのためならなんでもするわ。だから泣かないで」
バカな娘、可哀想な娘──優しい娘。
フラヴィアの心に、重く冷たいものが積み重なっていく。
夫が亡くなった夜のことを思い出す。
あの夜、アリーチェを抱きしめていた夜、悪魔が囁いたのだ。
そしてまた、悪魔は囁いた。
「ママはね、自由になりたいの」
驚きに目を見開くアリーチェを、フラヴィアは真っ直ぐに見つめ返す。
大丈夫、みんな知ってるわ。
お前は考えなしの勝手な子。衝動に任せて行動する。
何かあっても、何が起きても、誰も不思議に思わないわ。
フラヴィアはあの夜、幼かったアリーチェを利用した。
そしてまた、利用する。
これが最後よ──。
心の中でそうつぶやき、フラヴィアはしっかりと娘を抱きしめた。




