2ー14
翌日の朝食の席に、フラヴィアとアリーチェの姿はなかった。顔を合わせても気まずくなるだけだったから助かったけれど、少し気になったのも事実。
とはいえ、ふたりの名前を出すのは気が引けた。
「お嬢様のための護衛を今、選んでいる最中なんですよ」
エマを気遣ったのか、アレッシオが食後の紅茶を飲みながら笑いかける。
「護衛が決まったら、芸術祭へ出かけてみては?」
「え」
思ってもいなかった提案だった。
「最終日までには揃えますよ。──そうですね、リカルド?」
アレッシオの向かいには、コーヒーを飲むリカルドがいる。セルジオはいない。明け方近くに帰ってきたセルジオは現在、ベッドの中で深い眠りに落ちていることだろう。
「そもそもお嬢様の護衛に関しては、我々の落ち度なのですよ。事前に用意はしていたのですが、不測の事態が起きまして」
「不測の事態?」
「ええまあ、リカルドの部下だったのですが……今彼らは入院中でして」
「入院中……」
何があったのだろう? 少しだけ好奇心が顔を出したが、エマはそれを紅茶と一緒に飲み込んだ。
深く踏み込むべきではない。知らないことは知らないままでいいのよ。
どうせ自分は、遠からずこの世界から離れるのだから。
「お嬢様の護衛ですからね。そこら辺の奴には任せられません。適任者を選ばねば。──もちろん適任者を選ぶのが遅れても、リカルドかセルジオが同行しますよ。最終日の花火は、毎年盛大でしてね。セヴェリーニ邸からも見えるのですが、やはり街で見る方が良い」
コーヒーを飲み終えたリカルドが、無言のまま立ち上がり、ジャケットを羽織る。
「おや、もう行くんですか?」
「ああ、何かと忙しいんでな。今日はセルジオが屋敷に残る」
食堂を出ていくリカルドは一瞬だけエマを見たが、エマはそのことに気づかなかった。
「セルジオは昼には起きてきますよ。庭にでも出て、気分転換してはどうです? 侍女も健在のようですし」
にっこり笑って、アレッシオも席を立つ。食堂にひとり残ってしまったエマはカップに残った紅茶を飲み干し、立ち上がる。
「お、お嬢様!」
「ヴィヴィアナ……」
アレッシオと入れ替わるように食堂へやって来たのは、ヴィヴィアナだった。黒髪はきれいに後ろでまとめられ、真っ白なエプロンには汚れひとつない。
今朝、エマを起こしに来たのはオルガだった。誰かに起こしてもらわなくても起きれるのだが、必ず侍女がやって来る朝に、エマは徐々に慣れてきている。
オルガは朝一番、エマにお礼を言った。ヴィヴィアナを解雇せずに済みました、本人が残ると言っています──あの人は私との約束を守ったのね。
エマは安堵し、そして今、ようやくヴィヴィアナの顔を見ることができた。
「ありがとうございます! 今後も誠心誠意、お嬢様にお仕えします!!」
「今までと同じで構わないの。そう、気負わないで」
エマが笑いかければ、ヴィヴィアナも笑顔を返してくれた。少しの不安はあったけれど、ヴィヴィアナがこうして笑顔でいてくれることが素直に嬉しい。
「そうだ。ファヴィオさんって知ってる?」
「庭師のファヴィオさんですか? 何度か顔を合わせたことはありますが、いつも納屋にいらっしゃるので……」
「納屋?」
「はい。裏庭にあるんですが、そこで暮らしています」
裏庭と一口に言っても、セヴェリーニ邸は広すぎる。一体、どこからどこまでが裏庭なのか……。
「お会いしたんですか?」
「昨日、助けてもらったの。きちんとお礼を言いたかったんだけど」
昨日の今日だ。勝手に外に出て、また騒ぎになっても困る。
お昼過ぎにはセルジオが起きてくるとアレッシオは言っていたし、それまで待つしかない。
セルジオは渋々ながらも、ファヴィオに会いに行くというエマに同行した。
十四時を目前にした頃、セルジオはようやく部屋から出てきたのだが、エマはとっくに待ちくたびれていた。セルジオの食事やらなんやらを待って裏庭に出れば、十五時になろうとしていた。
「じじいは礼がなくても気にしねぇだろ」
「これは人としての最低限の礼儀ですよ」
前を歩くセルジオは猫背だが、それでもエマより背が高い。
セルジオはジャッケもネクタイもなし。そのかわり、ベストを着ている。シャツの袖は肘までまくられていた。
リカルドをはじめ、この屋敷の男性陣はほとんどがスーツ姿。ラフな姿なんて、一度も見たことがない。
ファヴィオが住居として使っている納屋は、使用人棟の勝手口から出て、そのまま真っ直ぐ川に沿って──敷地内に川があることに驚きだが、この敷地の広さならありえなくもない──歩いて行けば見つかるとのこと。
歩くこと数分、木造の建物が見えた。あれが納屋らしい。納屋のすぐそばには大型の温室もあった。
「鍵が閉まってるな」
「ノックしましょうよ……」
無遠慮に扉をガチャガチャするセルジオに呆れつつ、エマは納屋の隣に建つ温室へ目を向ける。
「……花は好きじゃないんだよな」
仕方なし、とセルジオは温室へ向かう。温室の扉は開いていた。中は程よくあたたかく、たくさんの鉢植えで埋め尽くされている。咲いているものもあれば、まだ蕾のままのものもあった。
「じじい! いないのか?」
温室に響き渡る、遠慮の欠片もないセルジオの声。
やがて奥から現れたのは、作業着を着たファヴィオだった。長靴を履いており、セルジオを見るやいなや、盛大なため息をついた。
「坊主か……。こんなところに何の用だ?」
「用があるのはオレじゃねぇ」
セルジオの後ろからエマが顔を出すと、ファヴィオは驚いた表情を浮かべたが、すぐに優しい笑みに変わる。
「お嬢様でしたか。ご足労いただきまして、恐縮です」
「オレへの態度と違いすぎねぇか?」
不満を漏らすセルジオを無視して、ファヴィオはゴム手袋を取った。
「今日はきちんとお礼を言うために来たんです」
「お礼、ですか?」
「はい。昨日、助けていただいたので」
「そうですか、そうですか……」
優しい笑みと、穏やかな声音。
エマはなんとなく、この屋敷の庭はファヴィオのようだと思った。華やかさはなくとも品があり、優しさが感じられる。
「気を使わせてしまいましたな。お茶をお出ししましょう、どうぞ」
ファヴィオの後に続き、ふたりは温室を出る。
納屋は外観こそ古びていたが、中は綺麗だった。納屋ということだけあって天井が高く、吹き抜けになっている。背の高い本棚には植物図鑑などが大量に並んでおり、奥にはひとり用のベッド。簡素だが、落ち着く内装だ。
電気や水道は通っているらしく、ファヴィオは慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれた。
「ありがとうございます」
「なんでオレのはボロいんだ?」
「カップがこれしかないんだ。我慢しろ、坊主」
エマには一番状態の良いカップを渡してくれたらしい。セルジオが受け取ったカップは、ふちが欠けてしまっていた。
「物は大事に使わんとな」
濃いコーヒーを味わいながら、エマは耳を澄ます。水の流れる音が聞こえる。鳥の声も。
どこまでも穏やかな空気が満ちていく。
「ここは別世界のようでしょう」
「え」
エマの心を見透かしたようなファヴィオの言葉に、閉じていた目を開く。
「旦那様には感謝しているんですよ。私に生き直すチャンスをくださった」
「生き直す、チャンス……」
「ええ、そうですとも。私はろくでもない男でしたがね、そこの坊主よりもずっと酷い人間だった」
オレを持ち出すな、とでも言いたげにセルジオが睨む。
「やり直すも何も、既に引き戻せないところまで来ていた私を、旦那様は救ってくださったんですよ。私のつまらない夢の後押しまで……」
ファヴィオの優しさの奥底に宿る、暗く静かな過去。
それを詮索する気はないけれど、今のファヴィオの穏やかさが嘘に思えるような過去なのかもしれない。
「望まぬ道を歩む必要はない。ですがどうか、旦那様をファミリーのボスとして見ないでさしあげてください。──お嬢様のお父上なのですよ」
強い風が吹いて、納屋の壁がかたかたと音を立てた。手の中にあるカップを握り締め、エマは曇りガラスを見る。外からこちらは見えにくいが、それは中から見ても同じこと。プライバシーが守られるかわりに、外をきちんと見ることができない。
まるで、今の私の状況見たいね。
みんな、勝手に私のことを見てる。良く知りもしないのに。
でもそれは、私も同じなんだわ。
隣に座る猫背の男は、黙ったままコーヒーを飲んでいる。
セルジオのことも、リカルドのことも、アレッシオのことも、エマはなんにも知らない。“私”を尊重してと言ったくせに、自分自身がそれを蔑ろにしている。
「説教くさくなるのは、歳をとった証拠ですな」
「あんたは昔からそうだよ」
セルジオの減らず口に、ファヴィオはやれやれと首を横に振る。
「ここはなんだか、落ち着きますね」
「──ブランカ様と同じことをおっしゃるんですね」
「ママも来たの?」
「ええ、良く遊びにいらっしゃいましたよ。花のような、風のような、不思議な女性でしたね」
そうね、ママは不思議な人だった。綺麗で、優しくて、そこに立っているだけで一枚の絵画のような完璧な姿をしながらも、ふとした瞬間、その存在を見失う。
あんなにも存在感があるのに、どうしてかしら?
「母が住んでいたという離れがどこにあるのか、知っていますか?」
「────!」
コーヒーを飲み干したセルジオが、驚いてカップを床に落とす。カップは割れてしまった。
「誰も教えてくれないんです。ファヴィオさんは、知っていますか?」
「知っていますよ。ここを出てすぐのところに、白い花が咲く場所があるのですが、そこがそうです」
「じじい!」
「なぜ隠す必要がある? もう燃えてしまったんだよ。何も残っちゃいない」
遠くを見るファヴィオは、過去を振り返っているようだった。
エマは床に落ちて割れてしまったカップを見つめ、そっと破片を拾い上げる。大事に使っていたのに、割れてしまった。
それはもう二度と、もとには戻らない。