2ー13
十六年前、アリーチェは父を失った。表向きは事故として処理されたが、本当は違う。叔父が──ベルトランドが殺したのだ。
葬儀の前夜、母はアリーチェを抱きしめ、話してくれた。
パパの存在は、おじさんにとって邪魔だったの。
ねえ、アリーチェ。パパは死んじゃったわ。殺されたのよ、実の弟に。パパがかわいそうでしょう?
ねえ、アリーチェ……。
六歳だったアリーチェは、父親を殺した叔父を葬儀の場で責めた。パパを返して! そう叫べば、叔父は辛そうに顔を歪めた。
ママは泣いていたわ。悲しいからだと思ってた。
でも違ったの……?
ソファに押し倒されたアリーチェの視界を埋め尽くすのは、美しい母。
どこへ行っても、母は注目の的だった。そんな母に似た自分をもまた、注目の的だった。いろんな人が褒めてくれた。
パパも褒めてくれた。ママにそっくりだね、ママみたいな美人になるよ──。
アリーチェは愛されていると信じて疑わなかった。パパはいつも優しかったし、ママはちょっとだけ厳しかったけど、それでも愛してる、と言って頭を撫でてくれた──ううん、違う。
いつからだった? ママが愛してる、って言わなくなったのは。
ぐるぐると頭の中に浮かぶ疑問が、アリーチェを混乱させる。
「わたしが、嫌い……? 愛してない……?」
声が震えて、涙が流れ落ちる。
「バカな娘──私の言葉を疑いもしない。そんなバカなところも、あの男にそっくりね。自分は愛されて当然だと思ってるの? そんなわけないでしょう。こんなにも自分勝手で、わがままな女を、誰が愛するっていうのよ? 誰も彼もがお前を甘やかすのは、お前がベルトランドの姪だからよ! 叔父という後ろ盾がなければ、誰もお前のことなんて見やしないわ!!」
アリーチェは愛されていると信じて疑わなかった。わたしは愛されている、特別だから。愛される価値があるの!
「ま、ママ、わたし……」
何か言わなきゃ。
フラヴィアが離れ、ソファの背に力無く体重を預ける。
「わたし、もう勝手なことなんてしないわ。全部、何もかも、ママの言う通りにする!」
「…………手遅れよ」
覇気のない声。すべてを諦めてしまった人の声だ。
「……! わたしがおじ様にお願いする。この屋敷にいさせて、って。そしたら、どこへも行かなくていいわ。ね、ママ?」
母が先ほど言っていた。
私たちは追い出される、ザッフィーロに追いやられる。
少しでも母の機嫌を取りたい娘の、必死な思いつき。
それをフラヴィアは、鼻で笑った。
「この状況で、ベルトランドがあなたの頼みを聞くはずないわ。娘のそばにこんな危険物、置いておけないもの」
「そんなことない! おじ様はどんなお願いだって聞いてくれたわ。今回だって、きっと──」
「無理よ。ベルトランドは、十分あなたに尽くしたわ。これ以上、あなたの頼みを聞く義理はない。……何もかもがどうでもいいわ」
母の青色の瞳に、自分は映っていない。
そのことアリーチェをこの上なく不安にさせる。
ママ、何を見てるの?
アリーチェが見つめる中、フラヴィアはゆっくりと目を閉じた。
ベルトランドがボスの座を引き継いだのは、ジェレミアとフラヴィアが結婚してすぐのことだった。ジェレミアは心底悔しそうにしていたけれど、ベルトランドが次のボスになることは、発表こそされていなかったものの、誰がみても明らかなことだった。
新たなボスの誕生は、他のファミリーが攻撃するにはうってつけのタイミングであったが、ベルトランドの手腕は見事なものだった。トラモントはダメージを負うどころか、ゆるやかに、けれども確実にその勢力を広げていった。
その反面、フラヴィアの結婚生活は悲惨としか言いようがなかった。夫は結婚してからも女遊びをやめず、トラモントの名をかさにきての好き放題。
一番最悪だったのは、ジェレミアは外に数えきれないほどの女を作っておきながら、フラヴィアのことも求めたのだ。誰とも知れぬ女を触った手で触れられるたび、吐きそうになった。子どもが生まれてもそれは変わらず、フラヴィアは毎日、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、ある日、父が失脚したことにより状況は変わった。
ジェレミアは確かに、フラヴィアの美貌に惚れ込んでいたが、もうひとつ、フラヴィアの実家にも惚れ込んでいたのだ。政界との繋がり、資金援助──フラヴィアの父は協力した。互いの利益のために。
だがフラヴィアの父が汚職により失脚し政界を追い出されると、ジェレミアはフラヴィアに冷たく当たるようになった。助けを求める義理の父親すら、簡単に見捨てた。
父はその後逮捕されることになったが、自殺することによってすべての責任から逃れた。
母はとうに亡くし、実家も失ったフラヴィアにはもう、ジェレミアしか頼る相手がいない。
フラヴィアは考え抜いた。自分に興味を無くした夫に、どう接するべきなのか。媚びるのは嫌。
もう二度と、あの男と同じベッドを使いたくない。
ならば別の方法で、ジェレミアの心を満たすしかなかった。
フラヴィアは囁き続けた。
──トラモントのボスになるべきなのは、あなたよ。
──ベルトランドは、あなたのものを奪い取った盗人だわ。
この状況を変えたかった。誰かに利用される、言いなりの人生なんてごめんよ。
私は母のような生き方はしない。男に縋ったりなんてしないわ。
フラヴィアは夫をそそのかし、ベルトランドへの敵意を増幅させた。
元々、ジェレミアはベルトランドに対してコンプレックスがあったのだ。軽くつつけば、簡単に火がついた。
金で部下を囲い込み、実の弟を殺すために動く──だが残念なことに、ジェレミアの計画が果たされることはなかった。
やはりダメな男。
ベルトランドは、実の兄を殺した。
ジェレミアが大人しくしていれば、ベルトランドは実の兄を生かし続けただろう。あれはそういう男だ。
フラヴィアは未亡人となったが、悲しくはなかった。
そのかわり、今度は娘を使うことに決めた。夫の死を告げられたフラヴィアは、六歳のアリーチェに言い聞かせた。
──パパは殺されたの。パパの存在は、おじさんにとって邪魔だったから。
罪人をすげかえた。
幼い娘は、母の嘘を信じた。葬儀の日、大勢の弔問客の前で姪に責め立てられたベルトランドは、フラヴィアの嘘を見抜き、受け入れた。
多少なりとも、アリーチェに対する罪悪感はあったのだと思う。
哀れな娘よね。
父親の薄っぺらな愛を信じ、母親からも愛されているのだと、疑いもしなかった哀れで可哀想な娘。
──バカな男。私の言葉を信じて、金にしか興味のない人間を集めて、無様に死んでいった。
きっと今回のアリーチェの考えなしの行動は、ベルトランドの耳に入る。
フラヴィアはまぶたを持ち上げ、隣で子どもみたいに泣きじゃくる娘を見て顔を歪ませる。
フラヴィアの脳裏に浮かぶのは、エマ・フォレスティの姿。鮮やかな赤色の髪、どこまでも深く底の知れない緑色の瞳の娘──たった二歳しか違わないのに、私の娘とは全然違う。
これは父親の問題?
それとも、母親?
いいえ、そんなこともうどうでもいいのよ。
今頃になって酔いが回ってきたのだろうか。すごく眠たい。
「出ていってちょうだい」
「ママ……」
伸ばされた娘の手を、フラヴィアは容赦なく払い落とした。誰も私に触れないで。
もうたくさんよ。
フラヴィアはのろのろと立ち上がり、自分のベッドへ向かう。
しばらくして、扉が開く音がした。アリーチェが出て行ったのだ。
「疲れたわ……」
このまま眠ってしまいたい。叶うのならば、永遠に──。
* * *
人生とは思い通りにいかないものだ。
夜中まで市内を歩き回った準構成員たちは、ねぎらいの言葉ももらえぬまま今日の仕事を終えた。ファミリーによってその活動内容は様々だが、トラモントほど大きく力のあるファミリーは、本拠地を置く街の警護を請け負うこともある。警察では対処できない問題にも、ファミリーは対応することができるため、あえて力あるファミリーの庇護下に入る者もいる。
ロッソに昔からある酒場なんかは、その良い例だ。トラモントの庇護下に入り、守ってもらう見返りに金を払う。
「あー……疲れた」
屋敷の裏手で、数人の準構成員がタバコを吸っていた。
その中に、ラウロ・ネスタの姿もある。
今日から始まった芸術祭に合わせ、ファミリーの下っ端──準構成員は交代で市内を巡回していたが、報告のため屋敷に出向いた。
もしかしたら幹部に会えるかもしれない、という期待はあったが、会えたのは構成員だけ。報告が済んだら、邪魔とでも言いたげに冷たくあしらわれた。
ファミリーの上下関係は厳しい。山のようにいる準構成員は、そもそも幹部に会うことすら容易ではない。
まずは屋敷に来れたことを喜ぶべきなのだが、当然の如く中には入れなかった。
ラウロはタバコを地面に捨て、苛立ちを晴らすかのように靴底で踏みつける。
「お前、この間中に入った、って言わなかったか?」
「すぐに追い出されたよ」
ほぼ同時期にトラモントの準構成員となった男が、ラウロに話しかける。
さっさと帰れば良いものを、彼らが今も屋敷の敷地内にいるのは諦めが悪いから。
どうにかこうにか、出世のためのチャンスを掴み取ろうと必死なのだ。
「俺も幹部になれたら、住めんのかなぁ?」
「もし住めたらさ、どうする?」
「何が?」
「噂のお嬢様だよ。エマ、とか言ったっけ? 気に入られたら、アンダーボスも夢じゃないかもしれないだろ?」
エマ、という名前に、ラウロは唇を噛む。
およそ一月前、決死の思いで忍び込んだ屋敷の玄関ホールで再会したのは、高校時代の同級生、エマ・フォレスティ。
すぐに屋敷から追い出されたラウロは、リカルド直属の部下から“仕置き”を食らった。
なんでよりにもよって、あいつがボスの娘なんだよ──!
素行が悪い自分と、見るからに真面目で優等生なエマ。正反対のふたりの共通点は、片親だったことくらい。
ラウロは卒業を間近にして高校を退学になり、そのまま裏社会で生きることを決めた。トラモントの準構成員になれたことは幸運ではあったが、二年経っても下っ端のまま。構成員の何人かの使いっ走りをしたりしても、出世は遠い。
元々、我慢強い性格ではない。思い通りにいかず、ラウロは我慢の限界だった。屋敷に行けば、幹部の誰かしらと会うことができる──屋敷に荷物を運ぶ業者に金を握らせ、屋敷に忍び込むことに成功したが、その結果は散々としか言いようがなかった。
追い出されないだけマシだったのかもしれないが、そんなことラウロには関係ない。
エマ・フォレスティ──いつもどこか、違う世界を見ているような女だった。同い年の女子とは、何かが違う。
ほとんど関わりなどなく、誰もがラウロと距離を取る中、生活指導の教師に「片親だから」、とあからさまに見下されたことがあった。母親しかいない、だからダメなのだ。
──じゃあ私も彼と同じですね。
遠巻きに見る同級生たち、殴りたくなるような教師。
それとは別の、落ち着いた声音。
──教え導くのが教師の役目では? 父親がいないのは、彼のせいじゃないと思いますけど。
エマの言葉に、赤くなっていく教師。
一瞬にして、教師はからかいの対象に変わった。
あの時のことを思い出すと、ラウロはなんとも言えない気持ちになる。
エマを目で追うことが多くなり、けれども距離を縮めることはできず、結果として彼女は自分の額に傷を残すだけだった。
「そろそろ行くか」
タバコを吸い終え、同僚たちがのろのろと歩き出す中、ラウロは少し離れた場所に建つセヴェリーニ邸を見つめる。いくつかの窓に灯る明かり。
あの中のどこかに、エマはいる。トラモントの次のボスとして、きっとお姫様のように大切に扱われていることだろう。
「……!」
物音がして、ラウロは振り返る。誰も来ないと思っていたのだが、裏庭を照らす足元の照明の向こうに人影が見えた。誰かと目を凝らせば、それは女性だった。薄いピンク色のワンピースを着た、美しい女性。
ラウロは彼女を知っていた。何度か買い物に連れ出されたことがある。ボスの姪と聞き、意気揚々とお供したが、何時間も買い物に付き合わされたというのに、こちらを見ようともしない。
「あ、アリーチェ様?」
まるで幽霊のようだ。
ラウロの中のアリーチェは、こんなんじゃない。彼女はもっと自信たっぷりで、偉そうで、華やかだった。
だというのに、今のアリーチェは悲しみに沈み込んでいる。
「あー……お出かけ、ですか?」
どうすれば良いのかわからなくて、ラウロは戸惑う。さすがに見なかったふりはできないし、これはある種のチャンスだ。ボスのわがままな姪、気に入られて損はないはず。
ラウロがゆっくりとアリーチェに近づけば、アリーチェの頬が濡れていることに気づく。泣いたのか? ペリドット色の瞳を覗き込む。
「……愛してると言って」
か細い声が聞こえたかと思えば、ラウロの首にアリーチェの腕が回された。
「わたしを愛してるって言ってよ……」
首に回された腕があまりにも冷たくて、ラウロは身動きができなかった。




