2ー12
「手綱はきちんと握っておいていただかねば、困りますね」
エマの部屋へ続く廊下を歩いていたフラヴィアを呼び止めたのは、アレッシオだった。乱れた髪は整えられ、ジャケットも羽織っている。
「言ったでしょう? あの子は勝手なのよ」
アリーチェは何食わぬ顔で帰ってきた。リカルドたちの詰問に苛立ちはしていたが、悪びれた様子は一切なかった。
「それよりも、エマに会わせてもらえる?」
「会ってどうするんだ?」
背後から声がして、フラヴィアは振り返る。気配がしないのはいつものことだが、やはり心臓に悪い。
「謝りたいのよ。そうすべきでしょう?」
勝手な娘。忠告したって、聞きやしない。
でもまあ、母親だもの。娘がしでかしたことの後始末には慣れている。
「その必要はありませんよ。ただ同じことを繰り返さないでくだされば、それで結構です」
「私は──私たちはどうやら、完璧にあなたたちを敵に回してしまったみたいね」
エマの部屋の扉が開いた。出てきたのはエマではなく、リカルドだった。
「男をたらしこむのが意外と上手なのね」
「そのようだな」
肯定すると思っていなかったのだろう。
フラヴィアは驚く。
「あの子の何が、あなたたちの心を動かしたの?」
セヴェリーニの姓を名乗るようになって、二十三年──彼らとは長い付き合いになる。
だが人を知るのに年月は関係ないらしい。フラヴィアは今も彼らのことがよくわからない。元々、自分の過去を好き好んで話すタイプじゃない。
常に壁を作り、他者と深い関係になろうとしない。
そんな彼らを結束させているのは、結局トラモントと、その頂点に君臨するボスの存在。
「もしも──もしもアリーチェが少しでもあの子に似た部分があれば、あなたたちはアリーチェを認めたのかしら?」
ボスと同じ髪色と瞳を持つ、ボスのただひとりの娘。地味な子だと思ったけれど、それはきっと、彼女に目立つ気がないから。
どれだけ美しかろうとも、本人に輝く気がなければ、誰の目にもとまらない──でも不思議なもので、わかる人にはわかるのだ。
たとえ本人にその気がなくとも、そうではないのだと否定し拒んでも、秘めた輝きに気づく人は現れる。
彼らはその輝きを見たのだろうか?
「……何もかもがもう、手遅れなのね」
フラヴィアはめまいがして、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
今はもう、エマに会う気力がない。
「フラヴィア様、ザッフィーロの別荘を覚えていらっしゃいますか? そちらへ移ることを、我々はおすすめします」
「とうとうここを追い出されるのね。ザッフィーロは……遠いわ」
邪魔者は見えないところへ。
フラヴィアは壁や天井を見て、ため息をつく。
ここは私たちの家じゃなくなる。私たちの──私のものになるはずだったすべてが、たったひとりの娘に奪われてしまう。
「部屋へ送りましょうか?」
「結構よ。ひとりで歩けるわ」
三人の男に見送られ、フラヴィアは自分の部屋へ戻る。
「大人しく引き下がると思うか?」
フラヴィアが見えなくなると、セルジオは警戒心をあらわにした声で言う。隠し通すことのできない、フラヴィアの中にある野心。簡単に消えるものではないはずだ。
「わかりませんが、引越しの準備は進めておきますよ。いつでも動けるように。──お嬢様の様子はどうでしたか?」
「落ち着いているな。じいさんから聞いたが、街で男たちにさらわれそうになったらしい。どこの奴らかわかるか?」
「今調べてるところだ。ただ芸術祭の真っ只中だ。人の出入りが多すぎて、特定するには時間がかかるだろうな」
屋敷に戻ったファヴィオの証言を元に探してはいるが、良くも悪くも、どこにでもいそうな男たちだったらしい。どこのファミリーの者かだけでも分かれば探すのも容易かっただろうが、そう簡単に身元を晒すような馬鹿を使う大馬鹿は、この世界じゃすぐに潰される。
「さすがに今日は疲れましたね。もう休んではどうです?」
「オレは街の様子を見てくる。今日は戻らん」
セルジオはポケットに手を突っ込み、歩き出す。光が強ければ強いほどに、影はずっと濃くなる。
街がその賑やかさを増せば、その裏には仄暗いものが蠢き出すものだ。
全員、それはよくわかっている。仄暗い世界に生きる住人だから。
「後でオルガを部屋へ行かせてくれ」
「何かあったんですか?」
リカルドの肩越しに、エマの部屋を見る。帰ってきてからずっと、部屋に閉じこもったままのお姫様。
「腕を怪我してる。……隠したいんだろうが」
本人が語らずとも、ふとした仕草でわかる。無理やり言わせても良かったが、リカルドはエマを尊重したのだ。
「わかりました。今はオルガさんと会わない方が良いでしょうからね、君は」
「ああ、それと」
部屋へ戻ろうとしたリカルドは、エマとの取引を思い出した。
「あの侍女の件だが」
「人事権は一応、家政婦長に──」
「解雇させるな。本人にまだ残る気があれば、な」
それだけ言って、リカルドは自室の扉を閉めた。
廊下に残ったのは、アレッシオひとりだけ。
「これは……意外ですね」
てっきりリカルドは、あの侍女をクビにするものだと思っていた。この件に関しては、セルジオもリカルドと同意見のはず。
オルガもそれを恐れていた。
「一体、何があったんです?」
アレッシオは思わず、笑みを浮かべていた。変化とは常に起こり得る。
我々は無駄に歳を重ねてしまい、自分たちを変えるような、大きな嵐は巻き起こらないと思っていたが、人生とはかくも不思議だ。
こんなにも容易く、変化を運んできた。いろんなものを変えていくだろう。
だがそのことに、当事者はそうそう気づかない。
もしかしたら自分も、その変化を巻き起こす嵐に、とっくの昔に飛び込んでしまっているのかもしれないな。
* * *
フラヴィアは自分が夫──ジェレミアに見初められた日のことを思い出していた。
フラヴィアの父は、実業家だった。成功はしていた。家は広く大きく、使用人もいた。
すべてが変わったのは、父が政界に進出することを決めた頃。父は野心家だったのだ。
だが父の目論見は大きく外れる。政界への進出は、思うようにはいかなかった。
母はそんな父を必死に支えていた。綺麗で優しいだけ、ただ一心に父を愛し続けた、哀れな女。
フラヴィアはグラスに揺れるワインに、自分の顔が見えた。これは私、それとも母──?
少しずつ、フラヴィアの人生は変わり始めた。
思うようにいかず、父は焦っていたのだろう。手を組んではいけない者たちと、手を組んだ。
どれだけ汚いことをしたのか、あの頃のフラヴィアにはわからない。母は知っていたのかしら?
父はフラヴィアが十六歳の年に、ロッソの市議会議員になった。それで満足すれば良かったのよ。
なのに人の欲には底がない。父はさらに上を求めた。
もうその頃には、父の心に母はいなかった。父は何人もの愛人を作り、母を蔑ろにした。娘には利用価値があると思い、気にかけるふりをしていたみたいだけど、フラヴィアは父が嫌いでたまらなかった。
母のことも、嫌いだった。
あんな男を今でも愛し続ける母の心が、フラヴィアにはちっともわからなくて、何度も母に憤り、声を荒げた。
──あの人を愛してるの。見返りは求めてないわ……。
バカみたい。何が愛よ。
フラヴィアは母のようになりたくない、と誰も愛さなかった。愛がわからなかったのかも。
市議会議員の任期が終わる頃、父があるパーティーにフラヴィアを連れ出した。表向きは資金集め、でもその裏側にはフラヴィアをトラモント・ファミリーの息子たちに引き合わせ、結婚させようとする企みがあった。
トラモントのふたりの息子、ジェレミアとベルトランド。
どちらが次のボスになるのか──わかりきっていた。長男のジェレミアは愛想こそあるものの、野心家で女遊びの激しい浪費家。
次男のベルトランドは仏頂面で気の利いたことなど言えない頑固者。けれど他者を惹きつけるカリスマ性があった。兄の後ろで息を潜め、存在感を消そうとしても隠すことのできない勝者のオーラ。
ベルトランドだったら、フラヴィアの人生は素晴らしいものになっていたのだろうか?
あの日、あの夜──私を見初めたのがジェレミアではなく、ベルトランドだったなら……。
「ママ!」
ノックもなしに、扉が開く。静寂は破られ、思考は中断された。
「ノックをしなさい、アリーチェ」
視線はグラスに注いだまま、フラヴィアは礼儀のなっていない娘を叱る。
アリーチェは蜂蜜色の髪を揺らし、フラヴィアの隣に座った。シャワーを浴びたのだろう。ボディクリームの匂いがする。アリーチェの好む、甘い花の香り。
「あの子には会えた? なんて言ってた?」
「…………私たちは、ザッフィーロの別荘に行くわ。ここを追い出されるのよ」
「どうして?!」
娘の声が、今夜はいつにも増してうるさく聞こえる。ワインを飲みすぎたのかもしれない。
「いやよ! わたしは出て行かないわ」
わがままな娘。父親に似てしまった娘。
ボスにはなれない──失敗作。
どこで間違えたのかしら?
いろんなことを教えようとした。礼儀やマナー、教養、必要と思われるものはすべて、この子の中に詰め込もうと必死になった。
父親のようにはならないで。
お前が変えるのよ、私のこの狂った人生を!
フラヴィアはワインの中に映り込む自分を見て、無性に腹が立った。
ガチャン──フラヴィアが投げたグラスは、床に落ちて粉々に砕けた。床に赤いワインが広がっていく。
「ま、ママ……?」
「ねえ、どうしてなの?」
怯える娘、溢れ出す感情の波。
フラヴィアには止めることができなかった。
「どうして私をこんなにも惨めな気持ちにさせるの? 本当に忌々しい……父親にそっくりのバカ娘!」
「ママ! やめて!」
アリーチェの髪を掴んだかと思えば、フラヴィアは娘に馬乗りになった。
「どうしてあんな男に似たのよ!」
緑色の瞳の向こうに、自分が見える。
「ねえ、アリーチェ──私のバカな娘──ママはね、お前を見るたびに叫びたかったわ。愛してもいない男の娘を産んで、愛するふりをしなくちゃいけないんだもの」
親は子を愛するもの?
そんわけがない。親だって人だ。完璧じゃない、ましてや聖人になんてなれやしない。実の子を愛せない親なんて、世の中にはごまんといる。
フラヴィアは愛そうとした。腕の中で眠る、小さな命。守るべき命──でも愛せなかった。成長するにつれ、どんどん中身が父親に似ていく娘を、愛せるはずがなかった。
「パパを愛してないの? どうして……」
「愛せるはずがないわ、あんなクソッタレ」
アリーチェには見せないようにしていた、夫の最低な姿。
あの男は、簡単に女に愛を囁く。
──こんなにも心を奪われたのははじめてだよ。
──これが運命なのかもしれないね。
反吐が出る。
フラヴィアはどんどん進められていく結婚話から逃げ出したかったけれど、母に頼み込まれ、逃げることができなかった。
ずっと無関心だった父が、娘の結婚を機に、母へ関心を向けていた。嬉しかったのだろう、母は。愛する男に必要とされている。
母は“私”を、愛してなどいなかったのだ。愛する男と自分の間に生まれた愛の証──そう信じていたんだろうな──だから、愛していただけ。
フラヴィアが嫌う、父に良く似た夫。
そこに生まれた娘。愛せるはずがなかった。愛せればよかったのに、私は愛を知らないまま歳を重ねてしまった。
「お前は本当に役立たずね。ボスになれると思ってた? 本気で? なれるわけないわ。こんなにも出来損ないの父親そっくりなのに」
美しいだけの娘。いろんなものを詰め込もうとして、そのほとんどを取りこぼしてしまった娘。
「ほんの少しでもベルトランドに似た部分があれば、私だってお前を愛せたわ。愛せたはずよ。なのに──!」
乱暴に髪を掴めば、アリーチェは痛みに目をギュッとつぶる。
「私の人生を返して! こんなの私の人生じゃないわ!!」
もっと素晴らしい人生を送ると思っていた。愛する人がいなくても構わない。前を向いて、行きたいところへ行って、本当にやりたいことだけをするの。
父も母もいらないわ。必要なのはひとつ、自由だけ。
「ママはわたしを、愛してないの……?」
震える声で問いかける娘に、フラヴィアは微笑む。
「お前なんて、大嫌いよ」