2ー10
ぶたれた頬が痛くて熱い。そっと頬に触れてみた。
「……っ」
口の中が切れているのかも。鉄の味がする。
ボスになることを望むアリーチェにとって、自分は邪魔者でしかない。ぶたれたというのに、エマはアリーチェを責める気にはなれなかった。
彼女の気持ちもわかるわ。
想像することしかできないけれど、アリーチェは歯がゆい気持ちでいっぱいだろう。
エマさえいなければ、後継者は確実にアリーチェだった。ボスになりたい気持ちなんてエマにはさっぱりわからないけど、それはアリーチェも同じ。ボスになりたくないエマの気持ちなんて、彼女は想像もしていないはず。
「──大丈夫かい?」
その場に立ち尽くすエマに声をかけたのは、ジェラテリアの店主だった。心配そうにこちらを見ている。
「どういう関係か知らないけどね、あの子に逆らっちゃダメだよ」
店主は水で濡らしたタオルを貸してくれた。
それを赤くなった左頬にあて、エマは小さくお礼を口にする。
「俺もうっかりしてたよ。……ここはトラモントのお膝元、ってことをね」
「ここの人じゃないんですか?」
「ああ、田舎から出てきたんだよ。地元じゃそれなりに有名なジェラート屋でね」
よく見れば、店主は若い。三十くらいだと思う。背が高く、体も大きい。笑顔が大型犬みたいで、なんだか可愛らしい。
「田舎の店を売って、こっちに出てきたんだ。そしたらアレだろ? 都会ってのは怖いね」
アレとはアリーチェのことだろう。夢を抱き住み慣れた土地を離れた矢先にあんな客と出会ってしまったら、トラウマになりかねない。
「だから、君も気をつけて。……ジェラートをサービスしてあげたいとこだけど、食べれそう?」
「あ、気にしないでください。お気持ちだけで十分ですから」
頬が痛いのと、口の中が切れていること、それらがなくても、今は何も食べる気にはなれそうもない。
「そっか、そうだよね……。じゃあ、今度サービスするよ! 俺はカルロ。君は?」
「エマ、です」
屈託のない笑顔が眩しい。
エマは笑って、空を見上げた。
まだ空は青いけれど、数時間もすれば茜色に変わる。帰る場所はひとつしかないのだけど、躊躇ってしまう。
「どうかした?」
「……いえ、なんでもありません。これ、ありがとうございました」
タオルを返し、エマはきちんとお礼を口にしてから歩き出す。
とにもかくにも、ここを離れないと。カルロに余計な心配をかけてしまう。
エマは歩き続け、なるべく人通りの多い道を選んだ。
はじめてのロッソの芸術祭──何よりもそう、久しぶりのひとり。ショーウィンドウに映る自分の姿を見て、足を止めた。
以前はこれが当たり前だった。母が亡くなり、どこへ行くにもひとり、家に帰ってもひとり。
学生時代の友人のほとんどが進学してしまい、すぐに疎遠になってしまったから、エマは交友関係が途端に狭くなってしまった。職場の同僚はほとんどが年上で、親切な人たちだったけれど、友人とは呼べない。
ショーウィンドウのガラスに映る、ひとりきりの私──いつもとなんら変わりのない毎日が繰り返されると疑いもしていなかった一月前の自分が見たら、どう思うだろう?
私は私、変わったりはしない──本当に?
「あ……!」
すぐそばに男が近づいたことに、エマは気づけなかった。腕を掴まれ、その痛みに顔をわずかにしかめる。
「エマ・フォレスティだな?」
男は自分を知っている。
トラモントの関係者かもしれないと思ったけれど、直感が告げる。この男は違う。
エマの腕を力任せに掴んだ男の身なりは、あまり品が良いとは言えない。ジャケットを羽織っているが、袖口が擦れているしシャツはしわだらけ。
一見すればそれなり。よく見れば粗い出立の男は、ギラついた目をしていた。
「は、離してくださいっ」
腕を掴む手を振り払おうとしたが、さらに強く掴まれ、エマの顔が歪む。
「見張ってて正解だった。来い!」
「離して」
「この──! おい、手伝えっ」
男の視線の先には、仲間らしき男が数人いた。人の目を気にして、ひとりだけでエマに近づいたようだが、なりふり構っていられないようだ。男たちが近づいてくるのが見えて、エマは焦る。
誰かに助けを求めないと。
でも誰に?
腕を掴んでいる男のジャッケットの内側、そこに黒い物体──銃が見えた。
もし男がそれを抜いたら、どうなる?
すぐそばを、小さな女の子が駆けて行く。エマは誰にも助けを求められなかった。
「ぐほっ」
最悪の展開が待っている、そう思ったのに、掴まれた腕が急に軽くなった。
エマは驚いて、男を見る。男は何があったのか、硬いコンクリートの歩道の上にうずくまっていた。
「な、何……?」
「急所は心得ているさ、同じ男だからね」
しわがれた声、それはこの場には似つかわしくないように思えた。
「何しやがる、このジジィ……!」
うずくまる男が涙目になって、みぞおち、いやそれよりもさらに下のあたりをおさえている。
それを見て、エマは察した。
いきなり現れた老人は、男の急所を容赦なく蹴り上げたのだ。
「お嬢様、行きますよ」
「え──」
老人はエマの手を取り、迷いのない足取りで人混みの中に飛び込む。背後から男たちの騒がしい声が聞こえたけれど、雑踏の中でほとんど聞こえなかった。
市民や観光客たちの間をすり抜けて、老人が足を止めたのは噴水広場だった。
「あ、ありがとうございます、助けていただいて」
老人は噴水に腰掛け、ふうと息を整えた。
エマと同じくらいの身長だが、体つきはがっしりとしている。オリーブ色のニットベスト、使い古されているけれど、きちんとアイロンがあてられたシャツ、ブラウンのズボンと土がついた靴。
この人は誰なのだろう?
エマのことをお嬢様と呼んだから、少なくともエマを無理やり連れて行こうとした男たちとは違う──そう思いたい。
「……お気になさらず」
呼吸が落ち着いてきた老人は、周囲を見回す。誰も追いかけてきていないことを確認すると、ふぅ、と深く息を吐き出した。
「まさかとは思いましたがね、本当にお嬢様だったとは……」
「私を知っているんですね」
「ええ、まあ……ご挨拶が遅れて申し訳なく思います。私はファヴィオ。ただのしがない庭師ですよ」
「庭師──」
ではこの老人が、オルガの言っていた偏屈なじじいなのか。
「お嬢様はなぜ、ひとりなんです? 坊主たちがひとりにするとは思えませんが」
坊主、というのはリカルドたちのことだろうか。
エマは老人、ファヴィオの隣に腰を下ろす。
噴水広場は人で溢れかえっている。待ち合わせらしき男性、写真を撮るふたり組の女性、ジェラートを分けっこする恋人たち──。
場所が違えども、人々の暮らしに大きな違いはない。みんな、今を生きている。
「いろいろあって、アリーチェさんを怒らせてしまったんです。それで置いて行かれてしまいました」
ファヴィオが笑う。
「そうですか、怒らせましたか」
「ええ、怒らせてしまいました」
穏やかだ。静寂とはほぼ遠いざわめきの中にいても、なぜだか今は、とても穏やかな気持ち。
「ファヴィオさんは、芸術祭に?」
「そうですな。今年のテーマが“花と夢”なので、何かおもしろい植物と出会えるやも、と思いましてね」
庭師らしい理由に、エマは微笑む。
「出会えました? おもしろいものには」
「残念ながら、何も。しかしまあ、お嬢様にご挨拶はできたので。……ロッソはトラモントの存在もあって、他の街よりも随分と治安が良いものですが、それでも今のお嬢様がひとりで出歩くのは危険ですな」
「……さっきみたいなことがまたあると?」
「じきに多くの者がお嬢様を知ることになる。お嬢様の周りには人が集まりますよ。良い人も、悪い人も──大きすぎますな、トラモントのボス、という肩書きは」
「ボスになる気はないので」
誰も彼も同じことを言う。
もう聞き飽きてしまった。
エマは膝の上に置いた自分の手を見る。料理をしたり、掃除をしたりすることがなくなったおかげで、エマの手は白くなめらか。
ファヴィオの手はしわだらけで、日焼けのためか色が黒く、爪はかなり短い。
「そうですな、ならずに済むのであれば、その方が良いでしょう」
「…………」
ファヴィオが優しいことを言うので、エマはつい、泣きたくなってしまった。
「ですがね、今はどこへも行けないんですよ」
ファヴィオが立ち上がり、エマは顔を上げる。
「エマ──!」
人混みをかき分け、お祭りには似つかわしくない、黒いスーツの男たちが現れた。
その先頭を走る銀髪の男を、エマは確かに知っている。
エマはそっと、立ち上がる。頬はまだ熱を帯びていて、先ほど力任せに掴まれた腕もズキズキと痛む。
頬の赤みは隠せないけれど、腕の痛みは知られたくないわ。
こちらへ駆け寄るセルジオを見つめ、エマはそんなことを思った。