2ー9
ヴィヴィアナは顔を青くし、屋敷中を走り回っていた。
お願いお願いお願い──お嬢様!
今日の部屋の掃除とシーツをはじめとしたリネン類の交換はヴィヴィアナの役目だった。カロリーナは少し風邪気味だったので、お屋敷の方々にうつしては大変だから、という理由でしばらく母屋へは来れない。
いつもふたりで行動していたから、相棒がいないのはちょっとだけ心細かったけど、幸いなことにエマは無理難題を言う人じゃないし、部屋はいつだって綺麗。
ひとりでも完璧に仕事を終わらせる自信があった。
その証拠に、掃除もリネン類の交換も滞りなく終わった。問題は、その後だ。
エマが部屋を出た後、ヴィヴィアナは急いでシーツやタオルをワゴンに押し込み、掃除用具も忘れずワゴンに乗せて、部屋を出たエマを追いかけた。
すぐに追いつく──そう思っていたのに、どれほど探してもエマが見つからないのだ。母屋には限られた使用人しか出入りしない。同僚を見つけても、誰も知らない、見てないの一点張り。
ヴィヴィアナは全身から血の気が引いていく感覚に襲われる。
お嬢様をひとりにするな、これはリカルドからの指示──いや、命令だった。
ヴィヴィアナは使用人であって、ファミリーの構成員ではない。幹部の命令を拒もうと思えば拒めるのだろうが、そんなことできるはずがない。
カロリーナもヴィヴィアナも、はい、と言うしかなかった。
そんなふたりをオルガは気の毒に思ってくれたし、エマに至っては「ごめんなさい」、と謝罪を口にした。
「どうしよう……お屋敷の中にはいないの……?」
監視するかのようについて回る自分たちを、エマはいつだって笑顔で許してくれた。──あなたたちのせいじゃないもの。
ああ、どうしよう!
誰に助けを求めればいいの?!
ヴィヴィアナは泣きそうになりながら、廊下を行ったり来たり。
やっぱりまずは、オルガに言うべきよ。
ヴィヴィアナは頷き、使用人棟へ向かう決意を決めた。
「そこで何をしている?」
振り返ったヴィヴィアナの目に飛び込んできたのは、黒い髪の男──リカルドだった。
「り、リカルドさん……」
黒髪の向こうに見える濃く美しい紫色の瞳は、相変わらず氷のように冷たく、ナイフのように鋭い。長身で広い肩、無駄な肉などどこにも付いていない、理想的な体。
それを包むのは、彼のために仕立てられた黒いスーツ。愛想の欠片もない見惚れるほどに良い男は、トラモント・ファミリーの幹部で、ボスの忠実なる猟犬。
ヴィヴィアナは泣きたくなった。
「エマはどうした?」
ヴィヴィアナがここにひとりでいること、そして明らかに態度がおかしいこと、疑問を持たずにはいられなかったリカルドが気にすべきことは、ただひとつだった。
「あの、その……」
いっそのこと、自分が風邪をひけば良かった。
そうすれば──いや、そしたらここにいたのは親友ということになる。
そんなのダメよ。
ヴィヴィアナはありったけの勇気をかき集めた。
「お嬢様がいないんです」
「なんだと──?」
とうとうヴィヴィアナは泣いてしまった。失態を犯してしまった自身がどうなってしまうかわからないからなのか、ここにいたのが親友じゃなくて自分で良かったからなのか、それともただ単純に目の前の男が泣くほどに怖かったからなのか。
どっちにしろ、ヴィヴィアナの涙は止まらなかった。
* * *
「ママに言われたのよね。幹部連中の信頼を得ろ、って。でも正直わかんなくって」
爆弾を投下した張本人は、気にした様子もなく話し続けている。
エマは今も、混乱しているというのに。
「アレッシオは話こそしてくれるけど、はぐらかしてばっかり。優しそうに見えるけど、実際は違うの。他のふたりは……わかるでしょ? いっつも機嫌悪くて、偉そう。だから不思議。あのふたりが気にかけてるのが」
「それは私がボスの娘だからで……」
「そりゃそうでしょうけど、わかる人にはわかるわ」
アリーチェが思い出すのは、エマと出会った日、その夕食の席でのこと。
結局、食事は中断されてしまい、アリーチェは母と一緒に自室へ戻ることになってしまったが、あのとき、リカルドたちのエマを見る目が、自分に向けられるものとは違っていたことに気づいた。
生まれてからずっと、セヴェリーニ邸で暮らしてきたアリーチェにとって、リカルドたちは気難しい年上の男性で、年齢を重ねても、彼らが何を考えているのかさっぱりわからない。
他の構成員たちと違い、幹部連中は自分に対してへりくだる態度をちっとも見せようとしないし、それどころかあれやこれやとお説教してくる時すらあった。付き合いは長くても、良好な関係とは言えない。
何が違うのかしら?
みんな、わたしを特別扱いしてくれる。ボスの姪だから──そんなことわかってる。
わたしは生まれたときから特別なのよ。
なのにどうして、リカルドたちはエマを選んだの?
母に幹部の信頼を得ろと言われたけど、どうやれば良いのか、さっぱりわからない。
大抵の男は、アリーチェが誰なのか知ると、すぐに落ちた。知らなくても、この美貌だ。誘うような目をすれば、一夜の相手に困ることもない。
ファミリーの構成員だって、根本は変わらない。ボスの姪である自分の言うことには忠実だし、多少生意気でも、金や出世をちらつかせればすぐ従順になる。
でも幹部にこの手は使えない。
彼らは地位も権力もあるし、色仕掛けに引っかかるタイプでもない。
じゃあ、エマはどうやったの?
お金なんて持ってない、地味な女──きちんと身なりに気を遣えば輝きそうなものなのに──、あるのはボスの娘という肩書きだけ。
「……まあ、女には困ってないか。さっきのは忘れて」
リカルドたちの好みなんて知らないけど、多分、こんな子どもっぽい地味女は違うはず。
「たまにはジェラート食べても良いわよね」
アリーチェが興味を惹かれたのは、美味しそうなジェラートの店。
毎日、体型維持のために食事はかなり気をつけているけれど、甘いものが食べたくなる日は誰にだってある。今日は芸術祭だし、ちょっとぐらい自分を甘やかしても許される。
アリーチェは小さなジェラテリアで、好きな味を選ぶ。
「あぁ、すいません。うち、現金のみなんですよ」
「そうなの? ふぅん……」
カードで支払いを済まそうとしたアリーチェに、店主は申し訳なさそうに笑う。
こういう店は今も少なくないが、どうやらアリーチェの支払い方法はカードのみらしい。
「待って」
気づいたダニエラが支払いのために財布を出そうとしたが、それをアリーチェが止めた。
「ねえ、わたしが誰なのか知らないの?」
「誰って?」
にっこり微笑むアリーチェをよく見て、店主はふるふると首を振る。
「へぇ、そう……知らないんだ」
面白いものを見つけた子どものような笑顔を浮かべて、アリーチェは店主の手から自分が注文したジェラートを奪う。
「おい!!」
「わたしはセヴェリーニの人間よ。この意味バカでも、わかるでしょ?」
セヴェリーニ、その名前を出した瞬間、店主の顔がさっと青くなった。
「その、セヴェリーニ家の方とは知らず……お代は結構ですので!」
店主の言葉に、アリーチェは勝ち誇った笑みを浮かべ、嬉しそうにジェラートを口に運んだ。
「わかった? セヴェリーニ、そしてファミリーの影響力の強さを」
何も言わずにこちらを見るエマに、アリーチェは話しかける。
欲しいものは手に入れてきた。思い通りにならないことがあっても、トラモントやセヴェリーニの名を出せば、全てが自分の前にひれ伏した。
これが特別な家に生まれた者が手にできる特権だ。
アリーチェはこの特権を、喜んで行使する。
「何か言いたげね」
ジェラートを食べ進めながら、エマを見る。
おじ様と同じ髪色、底の見えない深い緑色の瞳──そこに見えた感情は、哀れみ?
「言いたいことがあるなら言えば?」
「確かに、ファミリーの影響力は強いんだと思います。よく、わかりました。でもそれは、あなたが築き上げたものじゃない」
「は──?」
口の中が冷たい。口の端についたジェラートを、アリーチェは指で拭う。
「どれだけ影響力があろうとも、その威光を振りかざすべきではないと思います。それはあなたのものじゃないから」
「ふ、ふふ……」
この地味な女、まさかとは思うけど説教してるの?
わたしに?
あんまりにもおかしくて、アリーチェはひと目もはばからずに笑い出した。
笑えるわ、ホントに笑える──そしてムカつく。
アリーチェの手からジェラートがすべり落ちる。
「わたしを説教するなんて、あんた何様のつもりなの?」
こんなにもムカついたのは久しぶり。
ママにはあまりエマに近づきすぎないで、と言われたけど、その言いつけはとっくの昔に破っているのだから関係ない。
「何も知らないくせに、知ったようなこと言わないでよ」
「お嬢様、それ以上は」
止めに入ろうとしたダニエラを力任せに押しのけ、アリーチェは自分よりも少しだけ背の低い従妹を睨みつける。
「あんたはいらないの。ボスになるはわたし」
「ボスになる気はありませんから」
瞬間、アリーチェは感情に任せてエマの頬をぶった。
ただひたすらに、腹が立った。憎らしいと思った。自分は関係ない、あなたたちとは違う──そんな顔でいるエマが、少しでも傷つけばいい。
そう思ったのだ。
「あんたはただ、娘ってだけじゃない。大切じゃないのよ。本当に大切なら、二十年もほっとくわけないもの」
頰をぶたれ呆然とするエマと、怒りに顔を真っ赤にさせるアリーチェ。
道行く人がふたりを見て、すぐに目を逸らす。
ダニエラも護衛も、動けずにいる。
「関係ありませんって顔して、いつまでわたしの家に居座るのよ。ここにいたくないって言うなら、さっさと出て行きなさいよ!」
芸術祭を、アリーチェは楽しみにしていた。
いろんな芸術祭を見てきたけれど、生まれ育った街の芸術祭に勝るものはない。
だから今日は気分が良くて、近づくなという母の言いつけを破ってエマを外へ連れ出した。
今年の芸術祭も、文句なしだった。花で彩られた街並み、軽快な音楽、美味しそうな香り──でも今の気分は最悪。
アリーチェは唇を噛み、歩き出す。エマを残して。
今はこの靴もドレスも全部、どうしようもなく脱ぎ捨ててしまいたい気分だった。