2ー6
今夜の夕食の席は、いつも以上に空気が張り詰めている。
せっかくの美味しそうな料理も、今夜はいつも以上に心から楽しめないだろう。
その理由は確実に、新たな顔ぶれ──フラヴィアとアリーチェにある。
このふたりが揃って食堂に現れると、リカルドたちは露骨に警戒心をあらわにした。
さっさと食事を終えて退散したいところだが、今夜は特別らしい。提供されるのはフルコース。食前酒から始まり、第一の皿、第二の皿と続いていく。
セサルの料理は文句なしに美味しい。今まで食べたどんな料理とも比べられないほどだ。
しかしながら、今夜はちっとも喜べない。フルコースは中々の量だ。張り詰めた空気の中で完食できるかどうか、正直言ってわからないし、何よりも時間がかかる。
「失礼致します」
給仕係の下僕が運んで来たのは、食前酒の定番アペロール。アルコール度数が低めで飲みやすく、大人のオレンジジュースといったところ。
「乾杯」
アレッシオが沈黙を破り、息苦しい夕食がとうとう始まってしまった。
エマは一口だけ飲んで、すぐにグラスをテーブルに戻す。
「お酒は苦手?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
グラスを戻したエマに声をかけたのは、フラヴィアだった。昼過ぎ、玄関ホールで出会った時と衣装が変わっているが、それはエマも同じ。
今夜は特別だから、という理由のもと、侍女ふたりによってドレスを着させられた。伸ばしっぱなしの髪はきれいに結い上げられ、化粧もバッチリ。レースの黒いドレスには、五センチヒールの黒いパンプス。
いつもローヒールや歩きやすいスニーカーばかりを選んでいたので、久しぶりの五センチヒールは落ち着かない。
「無理はしないで。──それにしても、本当に綺麗ね。昼間とは雰囲気が全然違うわ」
「ありがとうございます。……侍女とドレスのおかげですね」
褒めてもらって嬉しいが、どうにも服に着られている感が拭えない。
フラヴィアやアリーチェのドレスアップした姿と比べると、余計にそう思ってしまう。
「謙遜せずとも、綺麗なのは本当ですよ」
すぐそばに座るアレッシオが、にこやかに微笑む。
「前菜です」
アペロールを半分ほど飲んだ頃──他の人はほとんど完飲していたが──、今夜の前菜、白身魚のカルパッチョがテーブルに運ばれる。
セサルの気遣いなのか、男性陣に比べ、女性陣の量は控えめだった。内心で助かったと思いつつ、エマは食べ始める。
食堂に来るまでの間、いろんなことを考えていた。伯母と従姉妹、何を聞こうか、何を聞かれるのか。
でも実際に食堂へ来ると、この窒息してしまいそうなほどに息苦しく重い空気。会話は楽しめそうにない。
「まだベルトランド──ボスには会っていないのよね?」
とはいえ、食事の間ずっと無言が続くはずもない。
フラヴィアに話しかけられ、エマは食事の手を止める。
「ええ、会っていません」
一体、いつになったら会えるのやら。
ここへ来て一ヶ月が経とうとしているのに、電話どころか手紙の一つもない。本当に会いたいのかしら? と疑ってしまう。
「トラモントはジェンマで一二を争うほどに大きなファミリーだもの。そのボスともなれば、多忙を極めるわ」
当然のことではあるが、フラヴィアは自身の義弟がどのような立場にある人間なのかを理解している。
きっと、仕事内容のことだって知っているのだろう。
エマは知りたくもないけれど。
「お皿をお下げしますね」
空になった皿をカロリーナが静かに下げれば、すぐに新しい皿が運ばれてきた。
こうして本格的なフルコースを食べるのは、本当に久しぶりだ。
エマが成人した年、十八歳の誕生日に、母と一緒にリストランテで食事した日を思い出す。特別な日だから奮発しましょう、という母の宣言により、中々に良いリストランテでの食事だった。
母はお酒にめっぽう弱く、けれどもその細い体のどこに入るんだ? っていうくらいに底なしの胃袋を持っていたので、母が飲み切れないお酒はエマが飲んで、エマが食べ切れない分の料理は母が食べた。
ふとした瞬間に思い出す母との思い出は、いつだって優しくて心があたたかくなる。
「エマ、ここで言うべきかどうか迷ったのだけれど、タイミングを逃してしまいそうだから、思い切って言うわね」
第一の皿が運ばれてくると、それを口にする前にフラヴィアが真剣な面持ちで話し始めた。
「あなたの立場は聞いているわ。突然のことでいろいろと戸惑っているでしょうね」
「フラヴィア様、今夜は──」
「あなたは黙っていなさい、アレッシオ。他のふたりも、口を挟まないで」
フラヴィアは声音こそ穏やかだが、目は笑っていない。
一体、なんの話をされるのか……。
エマの体が、緊張で強張る。
「あなたはボスの娘よ。そしてアリーチェは、ボスの姪。何が言いたいか、わかるかしら?」
「いえ……」
「遠回しに言うのはやめましょう。──アリーチェにボスの座を譲って欲しいの」
「え────」
それは、予想もしていなかった。
エマは一瞬、何を言われたのか理解できなくて、反応が遅れてしまった。
ボスを譲って欲しい?
言葉の通りに受け取っていいのだろうか? 何か、別の意味があったりする?
この屋敷に来てから、随分と自分は疑い深くなったものだ。
昔から警戒心は強い方だったけれど、最近、その気質がさらに強くなったような気がする。
「冗談にしては笑えねぇな」
何も言えずにいるエマよりも先に、セルジオが動いた。椅子から立ち上がり、今にも怒鳴り出しそうな勢い。
「後継者はボスが直々に指名してる。そのボスの意思を無視するつもりか?」
「この件について、あなたたちの意見は求めていないわ。重要なのはエマの気持ちよ。私が何も知らないと思っているの? ちゃんとわかってるわ。エマはボスになりたくなんかない。なら、次の後継者は? あの人だって、トラモントを自分の代で終わらせたくはないでしょう? なら、答えはひとつよ。私の娘──アリーチェが継ぐしかない」
フラヴィアの隣、赤いドレスのアリーチェが、さも当然と言わんばかりに微笑む。
「フラヴィア様、この件は非常にデリケートです。日を改めて──」
「言ったはずよ? あなたたちの意見は求めてない」
フラヴィアの顔から笑顔が消え、エマは息を呑む。雰囲気が、確かに変わった。
アレッシオは止められないと悟ったのか、オルガに目で合図を送り、使用人たちを全員、食堂から退避させる。
ここから先話す内容は、とてもじゃないが使用人には聞かせられない。
「ねえ、エマ。あなたの口から直接聞きたいわ。ボスになる気はないんでしょう?」
「それは……」
自分に視線が集中していて、どうにも息が詰まる。
そんな目で見ないでほしい。
アレッシオは焦っているようにも見えて、セルジオは余計なことを言うんじゃねえとでも言いたげで、リカルドは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
みんなが求めている答えは、わかってる。嫌というほどに、よくわかる。
でも、正解がわからない。
フラヴィアとアリーチェが望む答えを口にすれば、後継者という受け入れ難い肩書きを取っ払うことができる。
逆にリカルドたちが望むこ答えを口すれば、多分、きっと、いいえ確実に伯母と従姉妹を敵に回す。
さらに言えば、後継者を受け入れてしまうことにも繋がる。
だから、選ぶべきは前者の答えのはずなのに、エマは迷った。
どうしてだろうか?
こんなにも単純明快なこと、そうそうないのに。
なのに自分は、迷っている。
そのことに誰よりも戸惑っているのは、他ならぬエマ自身。
「私には……わからない」
「は?」
エマの絞り出した答えに誰よりも早く反応したのは、アリーチェだった。
「わかんないって何よ? なりたくない、って言えば良いだけのことでしょ? そんなに難しい?」
呆れてしまう、といった様子でアリーチェはテーブルに肘をつく。
「あんたと違って、わたしはボスになる気があるの。ファミリーのことはあんたよりもずっとわかってるし、当然、セヴェリーニの血も引いてる。わかんない? あんたはいなくてもいいの」
「アリーチェ、言葉を選びなさい」
母親に注意されても、アリーチェは気にする様子もない。
「娘の非礼をお詫びするわ。けどエマ、素直な気持ちを言ってくれていいのよ? 彼らのことは気にしないで」
フラヴィアに再び答えを求められたエマは、改めてリカルドたちを見た。
彼らに対する警戒心は、今も解けていない。
口を開けば“ボスが決めたこと”、“ファミリーのため”という人たちだ。
エマの意思なんて、気にもしてない。
でもだからこそ、わかってしまう。
彼らは本当に、忠実だ。ファミリーに、そして何よりもボスに。
ああ、なんてこと……。
私は今、この男たちに味方しようとしている。
「私はボスになりたいと思っていません」
「お嬢様!」
「お前──っ」
見るからに慌てるアレッシオたちを横目に、エマは静かに言葉を続ける。
「私は父親に会いに来ただけ。ファミリーのことは、私には一切関係ありません。だからこそ、あえて言わせて頂いでも構いませんか?」
「どうぞ」
「アリーチェさんが言うように、私はここにいなくてもいい。後継者は既にいるから。じゃあなぜ、私はここにいるの?」
微笑むエマと、微笑みが消えていくフラヴィア。
「何? 何が言いたいの?」
「──黙りなさい、アリーチェ」
エマが放った言葉の意味を、アリーチェは理解していない。
そのことに苛立っているのか、それともエマに対して憤りを感じているのか、フラヴィアの口調が強くなった。
「私はあなたをみくびっていたみたいね。さすがはベルトランドの娘──そう言うべきかしら?」
「私にはわかりません。まだ父には会っていないので」
この答えは、おそらく不正解だろう。
自分は今、確実に伯母を敵に回した。
でもリカルドたちの味方になったつもりはない。
ただ、エマは良く知っているのだ。自分のすべてを差し出しても足りないと思うほどに、大切な存在があるということを。
そして、それを失う痛みも。
これは大きな貸しだ。
とてつもなく、大きな貸し。