2ー5
──美しさを比べないで。あなたはあなた、世界にひとりだけ。あなたにはあなただけの美しさがあるのよ。
母の言葉を思い出しながら、エマは名も知らぬ美女を見つめる。
艶やかな蜂蜜色の髪と、ぱっちりとした二重、唇は真っ赤なルビーのように輝き、スタイルはモデルのよう。
けれども出るところはしっかりと出ていて、羨ましい──と思わなくもないけど、自分だってそこまで貧相ではないと思う。目の前の女性と比べると、ちょっとだけ見劣りしてしまう、というだけのこと。
彼女は一体、誰なのだろう?
身なりから察するに、労働者階級ではなさそう。上から下までハイブランドでがっちり固め、本人の華やかさに負けずとも劣らない輝きを放つお高そうなアクセサリーの数々……本当に一体、彼女は何者なの?
エマが答えを求めようとセルジオに声をかけようとしたが、それよりも先に、女性がこちらを見て声を発した。
「あら、セルジオじゃない。誰もいないかと思ったけど、お前がいたのね」
女性の緑色の瞳がとらえたのは、エマの隣に立つ、苛立ちを隠そうともしていない男──セルジオ。
ふたりが知り合いなのは、間違いないようだ。
とはいえ、セルジオは目に見えて不機嫌なので、仲が良い関係ではなさそう。
「何よ、出迎えの言葉もないわけ?」」
「招かれざる客に言うべき言葉はないな」
「なんですって?」
嘲笑うように吐き捨てるセルジオを、女性が睨みつける。
このピリッと張り詰めた空気──この屋敷にはこんな人ばかり集まるの?
類は友を呼ぶのかもしれない。触れればすぐさま爆発してしまいそうな人ばかり。
しかしながら、美女は怒っても美しいらしい。
「もう一度言ってみなさいよ」
「悪いがオレはお前と違って暇じゃないんでね。──行くぞ」
ああ、紹介はしてくれないらしい。
セルジオが黙ったまま、その場に佇むエマの腕を掴み、力任せに引っ張る。
「待ちなさいよ! ──その子、エマ・フォレスティでしょ?」
正面階段を登ろうとするセルジオの足が止まる。
「どうして私の名前を……」
エマが振り返れば、女性と目が合った。自分と同じ色の瞳──いや、良く見れば違う。
エマの瞳は、鮮やかさと艶やかさを併せ持つ、深みのあるエメラルド色。
女性の瞳は、爽やかな若葉を思わせる透明感あるペリドット色。
一言に緑と言っても、いろんな色があるものだ。
「知ってて当然だわ。だってわたしは、あなたの従姉妹なんだから」
「え」
予想もしていなかった単語に、エマの目が見開かれる。
今、従姉妹って言った?
エマがマジマジと女性を見つめれば、女性はぷっ、と吹き出した。
「嘘でしょ? まさか、何も聞かされてないわけ?」
信じられないとでも言いたげに笑う女性を、エマは困惑の目で見るしかできなかった。
何がそんなにおかしいのか、エマにはさっぱりわからない。
「アリーチェ、その態度はあまりにも失礼だわ」
落ち着いた女性の声が聞こえ、三人がそろってそちらを見た。
「ママ! もう追いついたの?」
アリーチェと呼ばれた女性の顔に、満面の笑みが浮かぶ。怒っていても、美人は美人。
でもやっぱり、笑顔に勝るものはない。
「道が思っていたよりも混んでいなかったのよ。芸術祭も近いから、もっとかかると思っていたのだけどね」
えんじ色のストールを肩にかけ、背筋をピンと伸ばした女性は駆け寄って来たアリーチェに優しく微笑む。
アリーチェも文句なしの美人だが、この女性もまた、美しい容姿の持ち主だ。
恐らく40代、後半くらいだろう。
エマの母ブランカも美しい女性だったが、美しさの種類が違う。
そう思った。
「でも早く着いて良かったわ。ママに是非とも会ってもらいたい人がいるの。ほら、あの子が──」
「エマね」
アリーチェの言葉を最後まで聞かず、女性がこちらを見て微笑む。
「はじめまして、エマ。私はフラヴィアよ」
確かな歩みでこちらに近づく女性──フラヴィアが、エマに向かって手を差し出す。握手を求められている、そのことに気づいたエマが手を出そうとすれば、セルジオが一歩、前に出た。
いきなり視界を白いシャツに遮られ、エマは驚きでセルジオを見上げる。残念ながら顔は見えず、見えるのは背中と後頭部だけだったが。
「大袈裟ね。ただの挨拶じゃない」
にっこり微笑むフラヴィアではあるが、目が笑っていない。
セルジオの背後から恐る恐る顔を出せば、そんなフラヴィアと目が合った。
「私は伯母として、はじめて会う姪にきちんと挨拶をしたい、そう思っただけよ」
「伯母……?」
従姉妹の次は、伯母ときた。
ということは、フラヴィアはアリーチェの母親、なのだろう。良く見れば、ふたりは目の形だったりが良く似ている。
「挨拶の場はきちんと設けるさ」
「そんなに畏まらなくても良いじゃない。親戚なんだから、もっと気楽にいきましょう? ──あなたもそう思わない?」
フラヴィアはエマに意見を求めたが、セルジオは頑なだった。エマを背後に隠し、決してフラヴィアの前に出そうとしない。
これは過保護すぎる、と思ったが、そう思ったのはエマだけではなかった。
「まるでお姫様を守る騎士気取りね。お前のキャラじゃないんじゃない?」
バカにしたようなアリーチェの物言いに、セルジオは何も言わなかった。
「ボスからの指示だ。あんたらがこいつに会うときは、必ずオレらの誰かが同席する」
「そうなの?」
自分が知らないところで、勝手にいろいろ決められている。
だとしても、必ず同席、というのは過保護の域を通り越しているような気すらするのだが。
「私たちを警戒しているんでしょうけど……、そう、残念だわ」
目を伏せるフラヴィアの声が、小さくなる。
「待って、冗談でしょ? 過保護にも程があるんじゃない? おじ様ったら、何考えてるのよ」
「お嬢様のことを考えての指示ですよ」
次から次へと人がやって来る。
セルジオの背後からひょこっと顔を出せば、アレッシオとリカルドが立っていた。
リカルドは昼前に出かけたと聞いていたので、今帰ってきたのだろう。
そしてちょうど、庭から戻って来たアレッシオと合流した、といったところか。
それはまあ良いのだが、アレッシオの手には、あの長方形の箱がある。
もう二度と見たくないと思っていたのに……。
「お久しぶりですね、フラヴィア様、アリーチェ様」
丁寧な対応をするアレッシオの横に立つリカルドは、いつも通りの無表情。何を考えているのか、さっぱりわからない。
「いいところに来たわ、ふたりとも。きちんと説明してちょうだい! なんでおじ様は──」
「そうですね、お話しすべきことが多々あります。が今は、先にあちらをどうにかしてくださいませんか?」
アレッシオが指差したのは、玄関だった。
何かあるの? 興味本位で見てみれば、玄関の向こうに作業服姿の男性たちが見えた。
「何やらたくさん荷物があるようですね」
「ああ、すっかり忘れてたわ。ダニエラ! いないの?」
アリーチェが大声で呼べば、メイド服を着た小柄の女性が作業服の男性たちを押しのけ現れた。
「は、はい!」
「さっさと荷物を運ばせて」
「かしこまりました!」
はつらつとしたダニエラの返事に、アリーチェはふん、と不満そうに鼻を鳴らす。
「気が効かないんだから」
駆け足で作業服の男性たちの元へ戻ったダニエラがあれやこれやと指示を出すと、ようやく彼らは動き出すことができた。慣れた様子で連携をとり、大小様々な荷物を運び入れる。
「……引越し?」
大量のハイブランドの紙袋や箱、派手な装飾が目を引くカウチ、何が入っているのか見当もつかない大きな木箱などが次から次へと運び込まれていく。
まるで今日ここへ引越してきたような荷物の量に、約一月前、アパートメントの荷物を丸々運ばせたときのことを思い出す。
「それで、いつその正式な場を設けてくれるのかしら?」
運び込まれる娘の荷物に興味などないらしいフラヴィアが、アレッシオに話しかける。
「そう急がずとも良いのではありませんか? 戻ってきたばかりですし」
「急ぐことではないけれど、後回しにすることでもないわ。これから一緒に暮らす家族なのよ? 仲良くしたいわ」
「…………そうですか。では今夜、夕食の席をご用意しましょう。それで構いませんか?」
「ええ、結構よ。エマ、夕食を楽しみにしているわね」
フラヴィアはにこやかに微笑み、正面階段を優雅にのぼっていく。
その後を追いかけるのは娘のアリーチェ。
一瞬、アリーチェから見下すような目を向けられたような気がしたのだけど、思い過ごしだと信じたい。
「あいつらと飯を食うなんて、正気か?」
ふたりが見えなくなるのを確認してから、セルジオが声を発した。
「仕方がないでしょう。ああでも言わなければ、フラヴィア様は納得しないでしょうし」
「だが正直なところ、戻ってくるのが早すぎるな。あと半月は遊び歩くのかと思っていたんだが」
「芸術祭に合わせて戻ってきたんじゃねえの」
「ああ、そういえばもうすぐ芸術祭ですね。これまた忙しくなる……」
「──アレッシオ、それを」
「え? ああ、はい、どうぞ」
頭を抱えるアレッシオから、リカルドは何を思ったのか長方形の箱を受け取る。
瞬間、エマは嫌な予感がした。
あの箱の中身、思い出したくもない銀色のそれを、リカルドは躊躇いもなく取り出す。
リカルドが持つと、なんだかオモチャに見えなくもないそれは、アレッシオ曰く、エマのために用意された一点物。
そんなもの見たくもないし、持つなんて絶対にごめんよ。
エマが一歩後ろに下がれば、リカルドが大股でこちらにやって来た。距離はすぐに縮まる。
「なぜ受け取らない?」
「……聞かなくてもわかるのでは?」
持ちたくない、拒む理由はそれだけ十分すぎる。
この人たちは納得しれくれないんだろうけど。
「お前の歩幅に合わせてやろうかとも思ったが、生憎と悠長なことを言ってられなくなった。──持て」
グリップ──後で知ることになるが、手で握る部分のことをそう呼ぶらしい──を突きつけられ、エマは恐る恐る、リカルドを見た。
無感情にこちらを見下ろす紫色の瞳、その向こうに見えるアレッシオとセルジオの視線も、大差はない。
彼らの目に映る自分は、どれほど弱い存在なのだろうか。
わかってる。生きてる世界が違うのだ。
彼らがその気になれば、自分は簡単に消し飛ぶ。
それをしないのは結局、自分がボスの娘だから。
いっそのこと、この最大にして最強の後ろ盾を振りかざしてしまおうか?
そうすれば、何もかもが思い通りになる。
「……そんなこと、できるわけないわ」
虎の威を借る狐にはなりたくはない。
エマは強い意志を持ち、リカルドを真っ直ぐに見据える。
「あなたたちにはどうでも良いことだろうけど、私は私でいたいんです」
はっきりと、自分の気持ちを伝えた。
「私があなたたちのボスの娘であることは、どう足掻いても変わらない事実なんでしょうけど……それは私のすべてではないんです」
穏やかだけれど、決して弱くはない声。
いつものエマとは少し違う──そう感じたからだろう。
誰も口を挟むような真似はしなかった。
「だからお願いです。ほんの少しでも良いから、“私”を尊重してください」
ボスの娘ではなく、ひとりの人間として接してほしい。
リカルドの手にある拳銃を一瞥し、エマは静かに正面階段を上っていく。背中に突き刺さるような視線を感じてはいたが、エマは一度も振り返らなかった。