2-4
秋晴れの空の下、エマは屋敷の庭でアレッシオと向かい合っていた。白いテーブルの上には、オルガが淹れてくれた熱々の紅茶と、セサルが腕によりをかけて作ってくれたチョコレートケーキが一ホール丸々置かれている。
オルガは気を利かせてくれたのか、お茶の準備が終わったら早々に立ち去ってしまった。
エマの目の前には、ジャケット脱いだベスト姿のアレッシオが座っている。物腰が柔らかく、リカルドやセルジオよりもずっとエマを気遣ってくれるアレッシオへの印象は良い方ではあったが、こうして外へ出るきっかけをくれたことにより、彼への評価はうなぎ登り。
それでも無条件に信用することはできないけれど。
オルガが淹れてくれた紅茶を味わいながら、庭に目をやる。
決して華やかとは言えないが、品のある庭だ。庭師がいるらしいのだが、エマはまだ、会っていない。
オルガ曰く、偏屈なじじいとのこと。
どんな人なのだろうか?
「この屋敷では紅茶派よりもコーヒー派の方が多いので、仲間が増えると素直に嬉しいですね」
紅茶の香りを楽しむアレッシオは、どこからどう見ても紳士そのもの。
やっぱり、ファミリーの関係者には見えない。
「さて本題に入りましょうか」
紅茶とチョコレートケーキをある程度味わうと、アレッシオがテーブルの上に黒いファイルを置く。
「なんですか、これ」
「あなたが相続するもののリストですよ」
「相続……?」
「ええ。ファミリーが所有するもの以外──ベルトランド・セヴェリーニが個人で所有するものの大半は、実子である貴女が相続することになっています」
アレッシオにファイルを渡され、エマは恐る恐る、中を見てみる。
「ひっ」
思わず悲鳴が漏れてしまったが、無理もない。リストのすべてが、自分とは縁遠いものばかりなのだ。
土地、建物、クルーザーに宝飾品────これらすべてを個人が所有していることにも驚きだが、更に驚きなのは、これらすべてを自分が相続するかもしれない、ということ。
「け、結構です。いりません!」
こんなものを相続して、一体どうすればいいのか。
エマはファイルを閉じ、アレッシオに突き返す。
が、アレッシオはファイルを受け取らなかった。
「貴女にはこれらを受け取る資格と権利がある。それにお渡ししたいのは、これだけじゃありませんよ」
笑顔を浮かべたアレッシオが取り出したのは、通帳だった。
「これは……私の名前?」
通帳に記載された名前は、エマ・フォレスティ。
こんな通帳、見覚えはない。
「ベルトランドが貴女のために貯め続けたものです。何度もブランカさんに渡そうとしたのですが、その度に断られてしまいまして」
通帳を開いてみれば、こちらも言葉を失うほどの金額だった。
「生活費の足しにでもしてくれればよかったのですが、ブランカさんは頑なでしたね」
通帳を見つめ、エマが考えるのは母のこと。
決して楽とは言えない日々だった。もっとお金があれば、と思うことは多々あった。
けど母は、この通帳を受け取らなかった。
その気持ちは、なんとなくだけどわかる。
だから自分も、この通帳を受け取るわけにはいかない。
いつかこの屋敷を去ると、心に決めているのだから。
「私には受け取ることができません。……すみません」
「真っ当に稼いだ金ではないから、ですか?」
「それもありますが、これを受け取ったら、母の覚悟を台無しにしてしまいますから」
母はきっと、自分を普通の子として育てたかったのだ。生活が苦しくても、思うように働けなくても、娘に贅沢をさせてあげれなくても、“ファミリーのボスの娘”としてではなく、“ただの女の子”として生きてほしいと思ったはず。
その願いの強さと覚悟の重さを、エマはよくわかってる。
だって二十年もそばにいたのだ。わからないはずがない。
「……母娘そろって頑なですね。まあ、これらは追々受け取っていただくとして、こちらは意地でも受け取っていただきますよ」
一体どれだけのものを与えるつもりなのか。
アレッシオが次に取り出したのは、一枚の黒いカード。
「これから何かと入り用になりますしね」
黒いカードの正体は、クレジットカード。
エマはクレジットカードを一枚も持ったことがない。現金派というわけではなくて、単純に必要性を感じなかったから持たなかっただけ。
それは今でも変わらない。
「必要ない、と言いたげですね。ですが受け取っていただかねば。今の貴女には必要ですよ。収入源がないんですから」
「それは」
あなたが勝手に退職手続きをしたからよ、と言ってやりたくなった。
というか、どうやって退職手続きを進めたのだろう? 本人が不在なのに……。
いろいろと聞きたいことはあるけれど、なんとなくアレッシオは正直に全てを話してはくれないような気がした。
それに多分、聞かない方が良いような気もする。
「使う使わないはお任せしますよ。なので、持っていてください」
そう言って、アレッシオは長方形の箱をテーブルに乗せる。見た目だけならジュエリーボックス、あるいはオルゴール──後者は絶対に違うか。
「何が入ってるんですか?」
「開けてみればわかりますよ」
開けたくはない。
でもアレッシオは開けさせるだろう。
結局はこの男も、屋敷にいる他のふたりと同じというわけだ。気遣っているように見えて、その行動の根本にはボスがいる。
エマは箱を持ち、軽く振ってみた。箱はそれなりに重いが、なんの音もしない。振った瞬間、アレッシオが驚きで目を見開いたところを見ると、丁重に扱った方が良いものが入っているらしい。
「開けてください。貴女のために用意させた、一点物です」
「……そう言われて素直に喜べると思いますか?」
こんな話をするとわかっていれば、誘いには乗らなかった。ひとり、部屋で暇を持て余していた方がマシ。
エマは諦めのため息を吐き、箱を開けた。
「これって……」
箱の中には、高級感を演出する赤いビロード。手触りは良い。
けれど目を引くのは箱の中、堂々と鎮座するそれを前に、エマは動揺を隠せない。初めて見たのだ。──拳銃を。
「護身用です」
「護身用……」
なんとも物騒な響きだ。
それに護身用と言われれば聞こえはいいが、これを持たねば安心して町中を歩けない、と言われているようなもの。
「ナイフでも良かったのですが、それが一番良いと判断しました。いざ使う時が来ても、それなら感触が残らないでしょうから」
アレッシオはなんでもないことのように話す。
ジェンマ国において、銃はさほど珍しいものではなく、アレッシオの言う通り、護身用として銃器所持許可証の申請を行う人もいる。
ここ数年、申請者も急増しているとニュースで見たこともあるほどだ。
ただ自分には無縁の代物だと思っていた。
「今は持っているだけで構いません。あくまでもコレは、護身用なので」
と言われても、受け取る気にはなれない。
ビロードに包まれた銀色の拳銃は、秋の陽光を受け宝石のような輝きを放っている。
けどエマは、騙されない。
これは間違いなく武器だ。護身用と銘打っても、中身は変わらない。
「持ちたくありません」
「いいえ、持っていただきます」
エマも頑なだったが、アレッシオも頑なだった。
「お嬢さまにとって、この状況は不本意でしかないと思います。我々を恨んでもいるでしょう。けれど、貴女を守るためには仕方がなかったのです」
「守る必要なんてない。今までずっと、普通に暮らしてきました」
「いいえ、貴女には盾が必要です。貴女は現トラモントのボスが指名した、ただひとりの後継者。ボスに何かあれば、貴女はトラモントの全てを背負うことになる。これが何を意味するのか、わかりますね?」
ファミリーなんてものに関わったことなどない。
それでも、この国で生きていれば、無視することなどできはしないファミリーの存在。
誰が予想しただろうか?
ついこの間まで建設会社の事務員だったのに、いきなりファミリーの次期後継者だと言われる未来を、誰も予想できるはずがない。
「貴女が望もうと望むまいと、次期後継者という肩書きはこれから先、ずっと付いて回ります。今まで平穏な日々を過ごしてきた貴女には想像も出来ないことかもしれませんが、その肩書きはよからぬものを引き付ける。嫌というほどに。それらから貴女を守るために、我々はいるのですよ」
「………………」
嘘ばっかり。
そう言ってやりたくなった。
アレッシオは確かに心配しているのだろう。
その気持ちは本物だと思いたい。
けど根底にあるのは、ボスへの忠誠心だ。
私を守らねば、ボスの命令を守れなかったことになるものね。
──なんて嫌な人間だろうか。
エマは自分で自分が信じられない。
こんな捻くれた性格だった?
この屋敷に来て、そうなってしまったの?
「お嬢様、受け取ってください。そして私たちに、貴女を守らせてほしい」
「それは、お願いですか? 私には断ることもできる?」
ああ、本当に捻くれてしまったみたい。
こんなこと、本当は言いたくなんてないのに。
エマの返答に、アレッシオは困ったように笑う。
「私の意見なんて、必要ないのでしょう? ならそんなこと、聞かないで」
エマは立ち上がり、そのまま歩き出す。
久しぶりの外だったのに、気持ちは沈んだまま。
少し前の、何も知らなかった自分に戻りたくなる。──戻れないとわかっているけれど、思うくらいなら自由だ。
「いつ見ても、あんたはひどい顔してるな」
玄関ホールに到着すると、セルジオが出迎えるように立っていた。
「あなたはいつ見ても、軽薄そうな笑顔ですね」
「──ハッ、言うねぇ」
これもまた、八つ当たり以外の何物でもない。
だがセルジオは、そんなエマの八つ当たりをお気に召したらしい。
今の笑顔には、感情が宿っていた。
けれどすぐに、セルジオの顔から笑顔が消える。
どうしたのだろうか?
セルジオが浮かべたのは、隠そうともしない、明らかな不快感。
「面倒な奴らが戻ってきやがった」
言われて気づいた。外から聞こえてくるのは、車のエンジン音だ。誰か来たらしい。
「部屋へ行け」
「はぁ……」
この屋敷に連れて来られてからずっと、命令されてばかり。ため息が出てしまう。
ここへ来ると決めたのは紛れもない自分自身。決断したのは自分なのだから、文句は言うべきじゃない。自分にそう言い聞かせてきたけれど、やっぱり納得なんてできなかった。
だって自分の父親が誰なのかを最初から知らされていれば、ここには来なかった。
エマは聞いたのだ。
あの日、リカルドに初めて会った日、確かに聞いた。
父はどこにいるのか──リカルドは答えた。ルビーノ州にいる、と。
父はどんな人なのか──リカルドはただ一言、会えばわかる、と言うだけ。
父は今、何をしているの?──リカルドは答えなかった。アレッシオも、答えてはくれなかった。難しい質問じゃない。
なのにふたりとも、答えなかったのだ。答えるはずがない。父親はファミリーのボス、なんて言えば、大抵の人間は会うことを拒むだろう。
あのふたりは、わざとエマの質問に答えなかった。
すべてはエマをここ、セヴェリーニ邸へ連れてくるため。
なんて勝手なんだろう!
私は騙されたも同然なのに!
隣に立つ男に、思いつく限りの罵声を浴びせてやりたくなる。
「私は────」
昔から、怒るのは苦手。激しい感情に支配される感覚が、どうにも好きになれないせいだろう。怒りも悲しも、ぐっと飲み込む癖ができていた。
それでも、何か言ってやりたかった。
私は言われたことに大人しく従う人形じゃない!
そう言ってやりたかったのに、甲高い声によってエマの言葉は遮られてしまった。
「出迎えもないなんて、どうかしてるわ!」
玄関ホールに響いた、女性の声。
エマが反射的に声のする方を見れば、そこには蜂蜜色の髪の華やかな美女が立っていた。
綺麗な人──女優と言われても信じるわ……。
現れた女性に思わず見惚れてしまいそうになるが、隣に立つセルジオは真逆の反応、心底嫌そうに舌打ちをしたのだ。
「──騒々しくなるな」
セルジオの視線の先、そこにいるのは華やかな美女。
エマは彼女が誰なのかわからないけれど、なんとなくセルジオが言った「騒がしくなる」、この言葉の意味はわかるような気がした。
きっと、今日この瞬間まで保たれていた静寂は、この女性の登場とともに失われる。
まるで──、嵐が来たみたい。