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この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件等とは一切関係ありません。
2019.02.16 加筆修正
未来はいくつにも分岐している。
そのことに当事者が気づくのは、いつだって通り過ぎたあとだ。
* * *
それは夏の終わり、あるいは秋の始まり。
母が眠る墓前に、母が好きだった白い花を供えるその男は、全身が黒一色だった。髪も黒、スーツも黒、靴も黒。
まるで喪服のような装いの男に、エマは声をかけるべきかどうか、迷った。黒いスーツの男は、エマの存在に気づくこともなく、真っ直ぐに白い墓石を見つめていて、その横顔は真剣そのもの。邪魔しちゃいけないような気がした。
そう思い立ち去ろうと思ったのだが、エマが立ち去るよりも先に、男がこちらに気づいてしまった。
男の黒髪がさらりと揺れて、鋭い眼光がエマを射抜く。
「────エマ・フォレスティ?」
耳に心地の良い低音でエマの名を呼んだ男は、迷いのない足取りで墓前から移動し、エマの目の前に立った。
「リカルド・ダヴィアだ。──まずはお悔やみを」
「……ご丁寧にどうも」
何故この人は、自分の名前を知っているのだろう?
緑の瞳に疑問を宿し、男──リカルドを見上げれば、リカルドの濃い紫色の瞳と視線がぶつかった。
リカルドは背が高い。髪は深い夜の色で、全体的な印象はスタイリッシュでかっこいいと思えるのだが、いかんせん目つきが悪く、かもし出す雰囲気に近寄りがたいものがある。
それから、エマよりも確実に年上だ。三十──いや、四十くらい?
「……母とはどういったご関係でしょうか?」
「古い友人だ」
「古い、友人……」
未婚のままエマを出産し、二十年という歳月を一人娘のためだけに使い続けた母は、過去を話さない人だった。
そんな母の古い友人が、母の死を悼み、墓前に花を供えるため、訪れた。
ただリカルドを見上げるエマの胸の内に湧き上がった感情は、疑問。
母の友人として、リカルドのようなタイプは意外に思える。
どういう縁があって二人は知り合ったのだろう?
母の過去を詮索する気はないけれど、気になるのもまた事実。
もう直接本人に聞くことはできないのだから、知る術は偶然か必然か、同じタイミングで墓参りに来た男リカルドしかいないわけで。
エマが聞くべきかどうか迷う視線をリカルドに向ければ、リカルドは何を思ったのか、エマの前髪に手を伸ばす。
「な、なんです……?」
リカルドの骨ばった手が、エマの長い前髪をかき上げる。切らなきゃと思いつつ、日々の忙しさに追われ、後回しにしていた前髪。
それがなくなるだけで視界が一気にクリアになって、こちらを見下ろすリカルドの顔がよく見えた。
「母親似だな。美人だ」
「は──?」
この人は初対面でいきなり、何を言い出すの?
あまりにも真剣な顔で言われてしまったので、エマは照れるよりも先に驚いてしまった。
でもリカルドはエマの反応なんて気にもしない。前髪をかき上げた状態のまま、観察するようにエマを凝視し、
「けど髪と瞳は、父親に似たな」
「え…………?」
この人は今、なんて言った? 父親似……?
エマは瞬きを繰り返し、リカルドの言葉を反芻する。
父親似──この人は確かに、そう言った。
それはつまり、エマの父親を知っているということ。
だって父親を知らなければ、そんなこと言えないから。
「父を……知ってるんですか?」
「ああ」
さも当然のように頷いたリカルドは、エマの前髪から手を離すと、視線を遠くへ向けた。
その視線につられたエマも、リカルドの視線の先──自身の背後を振り返る。
「アレッシオ。──彼女だ」
こちらに向かって歩いてくるのは、リカルドと同じ黒いスーツを着た細身の男。髪が金色なので、リカルドほど黒の印象は強くない。
それに加え、表情も柔らか。
もしかして、この人が──……?
「そうか、会えてよかった。私はアレッシオ・マルキーナ」
金髪の男が差し出したのは、一枚の名刺。
エマは名刺を受け取り、男の名と肩書を確認する。
「……弁護士、ですか?」
「ええ。あなたのお父様の下で働いています」
「……そうですか」
この人は父親じゃない──そりゃそうよね。だって瞳の色どころか、髪の色さえ違うんだもの。
エマは渡された名刺を見つめ、考えるのは顔も知らない父親について。
もしかして弁護士なのだろうか?
とすると、自分の背後で不機嫌そうにしているリカルドという男も、弁護士?
だとしたら意外すぎる。
「エマさん」
「は、はい」
名を呼ばれたエマは、名刺から視線を外し、アレッシオを見る。仏頂面のリカルドと違い、アレッシオは穏やかな笑みを浮かべていた。
「会ってみませんか?」
「会うって……誰にですか?」
「あなたのお父様に、ですよ」
「私の父に────会う」
そんなこと、一度も思ったことがなかった。
生まれた時から父親がいなくて、それが当たり前だったエマではあるが、気になって母に尋ねてみたこともある。
けど母は、父について語りたくないようだったので、エマもいつしか聞かなくなった。父親がいなくても日々の生活に支障はなかったし、母の様子から、父は子どもを望んでいなかったのかも、もしかしたら家庭のある人だったのかも、と勝手に結論付けた。
その父に、会える────。
「会いたいと思いませんか? お父様はあなたに会うことを望んでいますよ」
「…………」
即答できなかった。自分は会いたいのだろうか? 母と結婚しなかった人、母を捨てたかもしれない人に。
────でも、私の父親……。
母が亡くなってしまった今、エマにはもう家族がいないけど、子どもじゃないし、仕事もしてるし、住む場所もある。父親を頼る必要もない。
けど興味はある。
エマはリカルドとアレッシオを見て、これは運命なのかもしれない、と思った。彼らと今この瞬間に出会わなければ、自分は父親の顔すらも知らず一生を終えたはず。
「……父は今、どこにいるんでしょうか?」
「ルビーノ州サングエ県におられます」
想像以上に近い。驚くほどの近さだ。
エマが生まれ育ったスメラルド州からルビーノ州までは、列車を使って約八時間。会おうと思えば会える距離に、父親はいた。
「我々はこのために来たんですよ。来ていただけますか?」
差し出されるアレッシオの手は、先ほど間近で見たリカルドの手とは違って、穏やかだ。
エマは母が眠る白い墓石を振り返り、心の中で母に聞いてみた?
(会いに行っても、いいかな……?)
話そうとしなかった母は、会わせたくないと思っていたのかもしれない。
でも多分、きっと。
この機会を逃したら、父親とはもう二度と会えないような気がする。
(ママ……ごめんね)
心の中でそっと謝り、エマは自分の目の前に立つ二人の男を真っ直ぐに見据える。
「会ってみます。────父に」
差し出されたアレッシオの手を取れば、夏の香りをわずかに残した風が、切り忘れた前髪をからかうように吹き抜けた。
お読みいただきありがとうございます。
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