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 親父の退院の目途が立たないまま、三週間が過ぎた。


 三月も中旬を超え、寒さも少しばかり落ち着きを見せ始めた頃である。親父は入院中に一時的に体調を崩してしまったが、病院という環境が整った場所で、世話をしてくれる人間が二十四時間滞在している事もあって回復も早かった。


 親父はその後、予定通りリハビリに励んだ。その効果もあってか、院内を少し出歩けるまでに体力も戻った。


 春なんてすぐそこだ。きっと、今回も大丈夫だろう。


 見舞いに訪れてくれた親父の友人達も、俺と同じような安堵の表情を浮かべていた。親父は、愚痴や笑いのタネを口にするくらい元気で、春を迎えられないとは思えないほど明るい笑顔を見せた。


 俺は会社が休みの土日は、正午前から夕方まで親父に付き合った。親父の検診やリハビリの間は、待合室で本を読んで時間を潰した。親父が部屋に戻れば、薬と疲労による睡魔で彼が目を閉じるまでお喋りに付き合い、親父が眠っている時間を利用して親父の家へと足を運び、郵便物のチェックや大まかな掃除を行った。


 けれど、どんなに元気に見えても、親父の身体が弱っていっている事実は変えようがなかった。体力は刻一刻と落ち続け、ゆっくりと腹水がたまっていく。少しの会話で息が上がり、同じ階にある自動販売機まで歩くだけで呼吸が乱れるのだ。


 不思議と吐血がない事が、唯一の救いだった。吐き気による食欲の減退に比べれば、若干大きくなった腹水の内臓圧迫に悩まされる今の方が食欲もある。



 しかし、医者から「もう帰宅はないと考えておいてください」と宣言されたその入院から、三週間を数日過ぎた頃、腹水が少し苦しいと親父が訴え始めた。



「親父、針で腹水を抜いてもらおうか?」


 俺は、とうとうその提案を口にした。


 メリットとデメリットについて俺が説明すると、親父はしばらく考えて「癖になるのは嫌だな」と決断を渋った。


「どうにも我慢出来なくなったら、そうする。だが、この忌々しい点滴が少しでも減ってくれれば腹水も減るんだから、抜く必要はないんじゃないか?」


 もう点滴ばかりのせいではないのだと、俺は告げなかった。血液検査の数値が良くなれば、退院の日取りが決められるのだと、自分の口からすらすらと出てくる嘘に胸が押し潰されそうだった。


 親父の腹水は、減るどころか急に増え始めた。苦しさのため食欲が減退し、親父は苛々し始めた。看護師に八つ当たりする姿を見た俺は、針で腹水を抜く事をもう一度提案した。親父は、今度は否定しなかった。


 その日の夕方、親父は初めて針で腹水を抜いた。


 すっかりなくなるまでとはいかなかったが、妊婦のように膨らんでいた腹は、だいぶ小さくなった。腹には手術痕が残っており、担当医は「三キロは抜けましたよ」と、いつもの笑顔で事後報告をした。



 おかげで親父の食欲が戻り、後日に普通食の解禁が病室で告げられてすぐ、俺はコンビニまで歩いてつまめそうな商品をいくつか購入しにいった。


 病室のテレビを眺めながら、二人で小さく祝うようにそれを食べた。親父は食事制限があったから、サンドイッチ、ショートケーキ、唐揚げ、巻き寿司を少しずつ口にした。残りは、その日の俺の夕食になった。



 三日もしないうちに、親父の腹水は一キロ増えた。親父は「針は一時的な処置だから、こんなものだろうな」と冷静に言い、最大値まで増えないよう、まずは必要最低限の点滴を除いて量を減らす交渉を行った。


 これまで腹水がたまらないよう飲んでいた量の薬では、もう足りなくなっていたから、腹水の排泄を促す薬の量を増やしてもらってもいた。


 その二つの改善点が良かったのか、親父はベッドの上で漫画を読み漁るほど元気になった。文字が見え辛いと言い出したので、俺は彼が求める度数の老眼鏡を探しまわり、購入して持っていってやった。


「もうお前、泊まっていけば? ベッドならあるだろう」

「無理言うなよ。俺、明日も仕事なんだから」


 親父のお喋り好きは、ここへ来ても変わっていなかった。親父はテレビを眺め、時折漫画のページをめくりつつ、のらりくらりと話題を振ってくる。よく話の内容が頭に入るな、と俺は親父の頭脳に感心したものだ。


 親父が病院食で夕食を済ませて、薬を飲み、看護師が体温と脈拍を測りにくるまで、俺はいつも話し相手をしていた。個室の入院はとにかく暇なのだと言って、親父は必要以上に俺を引き止めるのだ。


「じゃあ、今度こそ俺は帰るぜ。また明日も来るからさ」

「明日はヨーグルトと菓子パンを持ってきてくれ。夜に食うから」

「了解。じゃ、また明日」

「ああ。また明日」


 その日も、特に変わり映えなく俺達は別れの挨拶をした。病室を出ながらちらりと盗み見ると、親父はもう漫画へと目を戻して読み耽っていた。漫画が好きなのなら、明日にでも買って持って来てやろうと考えて、俺は病院を後にした。



 翌日はよく晴れていて、俺はいつも通り出社した。帰りに書店に寄る計画を立てていた午前、仕事が始まってすぐ、病院から一本の連絡が入った。



 親父の意識が戻らないらしい。


 その唐突な知らせに、俺は昨日の晩まで元気だった親父が思い起こされて、頭の中が真っ白になった。朝に看護師が親父を起こそうとしたが目覚めず、担当医が意識確認を行って、軽い昏睡状態が始まっている事を確認したのだという。親父は目覚める気配もなく、昏々と眠り続けているのだ。


「先生は、ゆるやかに脈が落ち続けているのが気になる、とおっしゃっていました。もしかしたらという可能性もありますので――」


 連絡をしてくれた病院事務の女性に、俺は「すぐに行きます」と返事をして電話を切った。それから上司に断りを入れ、大急ぎで荷物をまとめて会社を出た。


             ※※※


 病室に駆けつけると、そこには人工呼吸器や脈を測る機械を取り付けられ、二つの点滴を受けている親父が横たわっていた。普段の親父の寝顔を見慣れていたから、その顔から生気が失われて、深い眠りに入っている事がよく分かった。


 来院したという知らせを受けた担当医が、時間を見付けてやって来るだろうと予想し、俺は椅子を引き寄せて、何が出来る訳でもなく親父のそばに座った。


 ふと、シーツから出ている親父の細い手が目に留まった。


 手を取って触れてみると、皮と骨だけの親父の手は、闘病の苦労を物語るように表面の皮膚がしわくちゃだった。俺は、堪え切れず嗚咽をもらしてしまった。室内の温度は生温かいくらいなのに、親父の手は少し冷たかった。


 親父の手になんて、触らなければ良かったと思った。もう起きてはくれないのだと、俺はその手の感触から悟ってしまった。誰かの死を看取った経験はないけれど、同じように生きる人間としての本能が、俺に死期の前触れを告げていた。



 しばらくしてやってきた担当医は、後ろから付いてきた看護師を一旦外に待たせて扉を閉めた。俺は気遣いに感謝し「すみません」と謝り、袖口で涙を拭った。



 担当医は同情するように俺を見た後、長く息を吐き出して冷静な顔で話し始めた。


 多くの入院患者を看取ってきた彼の見解によると、親父の症状は死を迎える人間のそれであるらしい。電話口でも聞かされた内容を、改めて説明された俺は、頷いて静かに話を聞くしかなかった。


「恐らく、今日か明日かと思われます」

「親父は、もう目覚めないのでしょうか……?」

「脈の下がり具合から見ると、このままゆっくりと深い昏睡状態に入るでしょう」


 担当医は、俺の質問に淡々と答えた。


 俺は、そこで一度ベッドの方を振り返った。人工呼吸器を付けた親父が、力なく口を開けている寝顔が見えた。


「…………親父は――父は、苦しくないでしょうか」

「いいえ、苦しみはありません。お父様は、恐らく深い昏睡に入った後、じょじょに心臓が活動を止めるだろうと思われます。意識もなく、苦痛もないでしょう」


 それは重病の患者にとって、ある意味穏やかな最期のようにも思われた。親父は発作による激痛で苦しみ続ける事もなく、深い眠りの中で、約六年も続いた闘病生活に終わりを迎えるのである。


 けれど突きつけられた現実は耐えがたく、理性で考えるよりも俺は冷静ではいられなかった。もっと話しておけばよかったと、親父の声や笑顔が、もう恋しくてたまらなかった。


「……最期まで、親父のそばにいます。きちんと、見届けます」


 それが、面倒を見ると決めた俺の、大事な役目だと思った。親父も寂しいのが嫌で、ところ構わず話しを続けていたのだろうと考えれば、また涙腺が緩んだ。


 これまでも、出来るだけ傍にいるようにはしていたと思う。けれど、それで本当に良かったのだろうかと、俺は後悔を覚え始めていた。会社を辞めて、出来るだけ親父と一緒にいるという選択肢も、あったのではないだろうか?


「お父様は、いつもあなたを自慢されておりました」


 その時、しばらく俺を見つめていた担当医が、不意にそう言った。


「あなたは驚くほど献身的に、よくやったと思います。若くとも立派にやりとげたのだと、私はそう思います」


 そう告げた担当医は「出過ぎた言葉だと聞き流してくれてもかまいません。ですが、どうか自分を責めないで下さい」と言葉を残して、病室を出ていった。


 俺は、また溢れてきた涙を拭って、親父のそばに座り直した。


 一時間ごとに、看護師が親父の様子を見に顔を出した。数値をチェックし、点滴の状態を確認していく。俺は、親父が昼食前のつまみにするはずだった、サイドテーブルに置かれたままの菓子パンの残りを食べ、備え付けの冷蔵庫に入れられたまま手を付けられていないペットボトルの一つを取り出して飲んだ。


 すっかり痩せ細った親父の寝顔を見ていると、涙が溢れそうになった。親父は老人のように力なく口を開けたまま、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。


 親父の脈が落ちている事は、計測器や親父の呼吸音の間隔からも分かっていた。ずっと身構えていたとはいえ、こんなにも呆気ない別れが唐突にやってくる現実に、俺の胸は張り裂けんばかりの悲鳴を上げていた。



 陽が次第に傾き、夕日も夜へと呑み込まれた。


 やってきた看護師が、病室のカーテンが開いたままである事に気付いて閉めた。俺は何も掛ける言葉がなかったし、看護師もじっとする俺を放っておいてくれた。



 眠り続ける親父は、数日前に散髪が済んでいたので、頭部はすっきりとしていた。昨日の夜にでも髭剃りをしてもらったのか、顎周りもきれいだった。つい手を握ってみた時、嫌な体臭もしない事に俺は遅れて気付いた。


 毎日、丁寧にキレイに、大事にされていたのだ。


 俺は言葉が返ってこないと知りながら、親父に向かって「良かったな。ここの人は、皆優しいな」と声をかけた。ひどい鼻声だった。俺の声が変だなと笑い飛ばしてやりたかったのに、涙腺が緩んで、そんな冗談を口に出来る余裕はなかった。


 もう一度「良かったな」と声を掛けて、親父の頭に手を伸ばした。労うようにその髪を撫で梳いた途端、強い愛おしさが胸を貫いて、俺は堪え切れず、咄嗟に手で口許を押さえて咽び泣いた。


 こんなにも愛おしいのだと、容赦なく胸を抉られた。深い愛情は、心が粉々になるほどの痛み伴って、俺に愛がなんたるものかを悟らせてきた。そして、それを親父に伝えられない現実を目の前に、俺は激しい後悔と悲しみを覚えた。


 俺は再会して一度でも、家族として尊敬して好きだったと――


 そう伝えたことは、あっただろうか?


「愛してる。愛しているんだ…………息子として、あんたのことを……」


 再会する前の親父の事なんて、俺は知らない。でも闘病で頑張っていた親父の事は、誰よりもよく知っていた。そして、そんな親父を、俺は誰よりも深く愛していたのだと、ようやく気付かされたのだ。



 どれぐらい泣いただろうか。ふっと目を向けると、扉のガラス窓の向こうに広がる廊下が、既に消灯されていた。



 親父の様子を見るため起き続ける予定だった俺は、腫れて重くなった目を少しどうにかするべく重い腰を上げた。廊下に出ると、すぐそこのナースステーションの灯りの前で、車椅子に座った中年男が、女性に押されながらエレベーターに乗っていくのが見えた。


 ナースステーション前の自動販売機にホットのブラック珈琲缶がなく、俺は渋々、一階の自動販売機まで足を運んだ。


 一階ロビーの自動販売機でブラックの珈琲缶を購入した時、煙草をしばらく吸っていなかった事を思い出した。不意に煙草が吸いたくなり、病院の敷地を出てすぐのバス停で一服しながら、ハンカチに包んだコーヒー缶を目にあてがった。


 頭上に広がった夜空には、無数の星の輝きが広がっていた。親父の通う総合病院は、住宅街のない高台の上にあったから見晴らしがいい。いつだったか、車椅子に乗せた親父をここまで連れてきて、何度となく煙草を吸ったのを思い出した。


 不意に、強烈な悲しみが俺を襲った。


 一瞬、俺は心臓を掴まれるような胸の痛みに呼吸を忘れた。


 不思議な感覚だった。まるで見えない親父が傍にきたような気がした。俺は慌てて煙草の火を消すと、走って病院へ引き返した。エレベーターのボタンを押したが、待っている時間がとても長く感じ、非常階段から五階まで駆け上がった。


 辿り着いた親父の病室の前には、二人の看護師が立っていた。彼女達は悲しそうな顔で、ゆっくりと俺を振り返った。どこからか、耳鳴りのような無機質な機関音が鳴り続けている。


 病室に足を踏み入れて、その機械音が親父の脈を計る測定器から流れていることを知った。室内には一人の看護師がいて、親父の点滴と呼吸器を外しているところだった。彼女は俺の姿を認めると、気遣うように「ほんの、つい先程なんですよ」と囁くような声でそう告げた。


 親父の心臓は、もう止まっていた。俺は、崩れ落ちそうな足に力を入れて、どうにか親父のそばに歩み寄った。込み上げたのは、強烈な後悔と絶望だった。


 親父は相変わらず口を開けたまま、眠っているだけのような表情をしていた。俺は震える手で、親父の頭、額、頬、それから手に触れた。心臓が動いていた時よりも、親父の体温は更に下がっていた。


「……ごめん、親父。看取れなくて、間に合わなくて……ごめんなさい…………」


 ごめんなさい、と素直な言葉が、唇からこぼれ落ちた。


 途端に、涙腺は一気に崩壊した。俺は泣き崩れ、担当医が駆け付けてくれるまで、泣きながらずっと謝り続けていた。親父の身体はどんどん体温を失っていくのに、それでも触れるだけで込み上げる愛おしさは拭えなくて、俺の涙はなかなか止まってくれなかった。


 ずっとそばにいると言いながら、 俺は結局、一人きりのまま親父を逝かせてしまったのだ。心臓が止まるのは、きっと怖くて心細かったに違いない。


 なのに俺は、その時に限って、手を握ってさえやれなかったのだ。


 やってきた担当医は、俺を慰めるように「とても安らかな表情ですね」と親父の顔を見てそう言った。苦しみもなく逝ったのだと告げて、「お若いのによく頑張りました」と咽び泣く俺を励ました。



 それから、担当医と看護師一同は、親父に向かって「長い間、お疲れ様でした」と深々と頭を下げた。


 俺は、病と戦い続けた親父の姿を改めて見下ろし、彼の頭を優しく撫でて、震える声で親父に別れの言葉を告げた。



「――親父、お疲れ様。…………おやすみなさい」



 一連の儀式のような挨拶が終わった後、俺は葬儀についていくつかの説明を受け、特に決まった場所がなければどうぞと提示された数社の中から一つを選んだ。葬儀社の人間は、それからしばらくもしないうちにやって来た。


 彼らは親父に一礼すると、丁寧に身体を清め始めた。「気に入っている服があれば、それに着替えさせましょう」と言われたので、俺は退院時に親父が着けるつもりでいた、彼の自称一張羅であるカジュアル服を手渡した。


 処置が終わると、親父の口は閉じられ、シーツの中の手が祈るように組み合わされた。葬儀社の男が「口しか直していません。とても安らかなご遺体です」と労うように言って、俺に微笑みかけた。


 まるで生きているように、彼らは丁寧に親父の遺体を扱った。俺は親父を乗せたベッドと共に、葬儀社の人間と奥のエレベーターから一階へと降りた。案内された先は仏間で、そこには担当医と、親父に関わった看護師達が神妙な表情で待っていた。


 促されるまま、俺は線香を上げた。


 葬儀社の男が「黙礼」と言い、全員無言のまま親父に向かって頭を下げた。


 神聖な儀式なのだと感じ、俺は泣かないように努めた。担当医が俺に「お疲れ様でした」と言ったので、俺は「ありがとう」と震える声で答えた。本当に、感謝が尽きないのに、それを伝える言葉は他に思い浮かばないでいた。



 長期入院をして約一ヶ月ぶりに、親父は穏やかな表情を浮かべる顔に小さな白いシーツをかぶされ、病院から永久退院した。


 俺は親父の荷物を乗せた自分の車に乗り込み、親父を乗せた霊柩車の後に続いて、静まり返った夜の国道に車を走らせた。

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